第7話 7日目・8月11日 だし
目覚めて、あまりの暑さに幹也はすぐにシャワーを浴びた。
お風呂から出ると、朋子も起きていて、
「信じられない暑さなんだけど」
「ね、クーラーつけてたのに」
「私もシャワー浴びる」
と、バスタオルを持って浴室に入っていった。
幹也がテレビをつけると、岩手方面の大雨の情報が流れていた。
いつもの通り紅茶を淹れようと思ったが、今日は茶葉で出したい気分だったので、ティープレスを食器棚から出す。
お湯は瞬間湯沸かし器だと温度が微妙なため、鍋で沸かす。
茶葉がティープレスの中で浮いたり、沈んだりする様を見るのも、休日という感じがして心が落ち着いた。
お風呂から出てきて、髪をタオルで拭きながら、朋子が意を決したように言う。
「ダメだ、これ。ドライブ行こうよ、ドライブ。なんか奢りますんで」
「ドライブ?こんな朝に?」
「風を浴びよう風を」
「混んでないかな?でも、連休の間だからそんなか」
「良い?」
「僕は別に構わないけど」
朋子が髪を乾かしている間、幹也は着替えて外に出る。こういうとき、平面駐車場のあるマンションにして良かったと思う。車のクーラーを入れて部屋に戻る。
「化粧、テキトーで良い?帽子被るし」
「もちろん、というか女性ってそれよく聞くよね」
「そう?まぁ、男性でいう、パンツ履かないでもいい?みたいなものだよ」
「そんなシチュエーション、人生でほとんどないよ。だとしたらちゃんと化粧した方がいい」
「いやでーす」
あまりドライブというものをしたことがない幹也は、とりあえず大通りを走りながら、少し郊外の方に出ようと思った。
「ふーーー、クーラー気持ちいい!」
「結局クーラーだね」
「風、ぬるいからね」
二人で笑って、それから朋子は外の景色を黙って見ていた。
「どっか行きたいところないの?」
「うーん、マック」
「マックで良いの?」
「ソフトクリーム食べたい、ソフトクリーム」
「なんか、今日はおねだりの日だね。あと言葉を繰り返す日だ」
「暑すぎて、思考が停止してるんだよ。少ない語彙で伝えたい」
それから、朋子は悪戯な表情をして、
「会社に美人な後輩がいるから、朝早く行くんだね。その罰で、今日は私に従ってもらう」
と言った。
その言葉はまったく予想していなかったものだったので、幹也は赤信号でわずかにブレーキを踏むのが遅くなった。
「嫉妬?」
幹也は絶対にそれが答えでないことを知りつつ、そう問いかけてみた。
「嫉妬されるぐらい、愛されてる自覚あるんだ?」
「ないない、全然ない」
「いやね、もしだよ。幹也に本当に好きな人ができたら、どうするの?」
その疑問は至極真っ当な疑問だった。
むしろこれまで一度も、その定番の確認、といってもそれは創作の世界で多いものだが、をしていなかったことに驚く。
「三十にもなるのに、好きとかどうとか、ちょっと」
と、幹也は本当に、そういったことがもう自分とは無縁のようで、うすら寒さすら感じた。
「三十は恋をしちゃ駄目なんだ?」
「そうじゃないけど、一から親密になっていくの、ちょっと体力ない」
車という密室空間は不思議だ。
隣に座っているのに、それが当たり前だから、威圧感もなく、言葉がすらすらと出てくる。
それに、常に前を見て進んでいるからか、あまり過去のことは心に重くなかった。その重しが取れて、普通の会話ができるように幹也は感じていた。朋子もきっとそうなんだろう。
「それは分かるかも、私も考えるもん。もし好きな人が出来たとして、この人は私のいびきに耐えられるだろうか、とか。この年になると、もう直せない汚点みたいなのがいっぱいあるし」
「そうそう」
「そうって、やっぱ私いびきかいてる?」
「まぁ、うん。別に起きちゃうレベルとかじゃないけど」
「まじか、病院で治るもんかな」
それから、また無言で車は進む。
連休中ということもあり、遅々とした進みだったのが、郊外に近づくにつれ、僅かにスムーズになっていく。
スマホでかけた音楽が数曲、流れた後だった。
「もし仮にさ、僕に好きな人ができたら、この関係は終わるけど、そしたら朋子が僕のことを恨んでよ」
幹也のその言葉は、車の中だからこそ、油断して出てしまったようなものだった。
朋子が気を悪くしても当然のことだと覚悟したが、
「バツ2はきついって、そうならないように、若い芽は摘んでおく」
「怖いな」
「特に田上心寧は駄目」
「どうして?」
「幹也が高校のとき、一瞬で捨てられたあの子っぽいもん、なんだっけ名前?」
「春香さんね」
「ほら!この年になってもすぐ名前出てくるあたり、マジだもん。女の同級生の私すら忘れてたのに」
「こっちは一瞬でも付き合ってたんだから、同級生よりは上でしょ」
「なんかさ、付き合ってすぐ一緒の靴買ってたよね」
「恥ずかしいことは覚えてるんだね」
「散々からかったからね。意外だったな、幹也の方がさっぱり系かと思ったら、結局粘着してたの幹也の方だったよね」
「一途と言ってくれ」
「そんな一途な幹也なら、まぁ、すぐに新しい人なんてできないか」
一応の結論のようなものが出て、マックのドライブスルーにつく。
朋子はアイスクリームを舐めながら、車はゆっくりと、時折会話を挟みながら進んでいった。
お昼を家で食べたあと、昼寝をしたり、サブスクのドラマを見たりしながら、だらだらと過ごした。
「夜ごはん、何食べたい?外出る?」
と幹也が聞くと、
「さっぱり系がいい、冷ややっことか」
と、朋子は秋物の服をスマホで調べつつ、顔を上げてそう言った。
時折意見を求められてが、睡眠薬でも飲んだように、何もたいした意見が出てこなかった。これも暑さのせいだと思うことにした。
「冷ややっこね、了解。ちょっと買い物に出てくる」
「私も行こうか?」
「いや、大丈夫。帰省に向けて冷蔵庫空にしたいし、そんな多く買わないから」
買い物を終え、幹也は台所に立つ
スーパーにがごめ昆布が売っていたので、山形のだしでも作ってひややっこにしようと考えていた。他は冷しゃぶとかにしよう。
野菜を細かく、賽の目に切る。
ナスは共洗いし、みょうがやしょうがの良い匂いがする。
味付けは、白だしに、めんつゆ、アルコールを飛ばしたみりんに、醤油、それらを適当に入れて混ぜる。
夏にはよく、粘り気のある物を食べるような気がするが、その理由を幹也は知らなかった。喉に通りやすいからだろうか、と根拠のない理由を頭に浮かべる。
ボウルに入れた細かな食材を混ぜると、昆布の粘りに連なって、いろいろな野菜がひっついてくる。
幹也は、車内でした朋子との会話を思い出す。
朋子がよく言うように、あの時期の自分は、確かに勉強とスポーツにしか関心がなく、他者に対してほとんど目を向けていなかった。友人は多かったが、大人になった今でも連絡を取るような、そんな深い関係の人間は、男女関係なく、朋子一人だった。多くの同級生のイメージは、朋子が持つそれと同じだろう。
でも、自分では違う。たった二か月しか付き合わなかった春香という女の子は、僕の人生において大きすぎる意味を持っていた。彼女がいなければ、今こうした生活を朋子と送っていなかっただろう。
恋が、爽やかなものであったのは、それを想像していたときだけだった。
それこそ、この大葉や生姜、茗荷のように、良い匂いがして、喉を通ればすっと忘れてしまうような、そんな青春。
でも、現実は全く、異なっていた。それらを一緒くたにまとめて、ゆっくりと喉を通るような粘つきが、いつもそういった類の人間関係には付き纏う。
出来た夕食を食卓に並べると、
「こんな凝った冷ややっこが出てくると、果して誰が思うだろうか」
「反語?」
「いや、なんか真剣にいろんなもの刻んでる音はしてたけど」
朋子は冷ややっこを口に運び、
「美味しい、夏だ」
「感想が夏って」
「夏と言う以外にない味だよこれは」
朋子は結局、新しく豆腐をパックから出しておかわりしていた。
「中学校のときさ、給食で納豆が出てきたんだけど、納豆を食べる女子がモテるっていう相関があったんだよね」
「何の話?」
朋子が唐突にそんな話をした。
ねばねばの食材を見て思いついたのだろうか。
「ただの相関だって思ってたんだけど、違くて。普通は臭いってイメージがあるから、半端な女子は食べると馬鹿にされると思って残してたんだけど、美人で人気ものはそんなこと気にする必要ないから、何の問題もなく食べれたって、それだけなんだけど」
「ああ、まぁ、分かる気もするね」
「要するに、私たちが恥ずかしがってることっていうのは、大抵、自分が幼いから恥ずかしいと思うんだよね。成熟した大人は、恥ずかしがることなんて滅多にないってわけ」
「金言だ、というか自意識が薄くなるんじゃないかな、大人になると」
朋子が何を言いたいのかさっぱりだったが、冗談を言っているようではなかったので、とりあえず幹也は聞くことにした。
「で、私、朝からずっと考えてたんだけど」
「うん」
「あの時、みんなは幹也のことを笑ってたよ。優等生が尻の軽い女に遊ばれて、真剣になっちゃってるって。ねちねち未練がましいって。今日の今日までほとんど忘れてたけど」
「いろんな角度で、ひどい言いようだな」
「でも、今なら分かる。みっともなかったけど、あれは正しく恋だったんだって。みんな恥ずかしがって、馬鹿にしてただけなんだって」
朋子が話しているのは、おそらく過去の幹也のことではないことだけは、良く伝わっていた。
「楽しいことも、悲しいことも、つらいことも、1個1個なら大したことないのに、それが全部一緒になるから、いつまでも残って、忘れられないんだって。幹也のことを笑ってた人たちは、それを知ろうとせずに遠ざけてただけなんだって。私も」
あまり脈絡を得ないことのように思えたが、幹也は静かに頷いて、
「今は納豆、好きだよね?」
「私も気にせず食べてた方だから、これでもモテてたんだからね」
朋子は自信を装って、胸を張った。
「僕らはきっと、他の人が知ったら恥ずかしいような、そんな関係なんだろうね」
「そんなの関係ないよ、未練たらたら上等、だって忘れられないんだから」
と、朋子はスプーンで冷ややっこを削り取り、引いた糸をなかなか切れずに困惑しながら、そう言った。
山形のだしは、確かに朋子の言う様に夏の香りをいつまでも口に残した。
爽やかさも、苦みも、甘味もあった。
人生はまだまだ先が長いとは、幹也には簡単に思えなかった。
それでも、これからいろいろなことが、どんどんと、すでに抱えた物と混ざり合いながら、絡まりながら、この体を重くしていく。
それでも、それを恥じずに、全てまとめて飲み込むのが大人なのかもしれないと、そう思えた。
おひとり夫婦 屋代湊 @karakkaze
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