3話

 自転車をコンビニに停めると、そこからは歩いて幽霊屋敷へと向かった。中学時代と五日前の失敗で慎重になっていた私たちは、会話のボリュームをなるべく抑えながら夜の住宅街を進んでいた。仮に警察官とすれ違っても、まだ二十一時前なので予備校帰りの高校生くらいにしか思われないだろう。それでも警戒するに越したことはない。

 

 あっさりと、幽霊屋敷の前まで辿り着いた。五日前と変わらぬ不気味さだったが、今日はすんなりと二階の窓を見ることができた。当然、女なんていない。これだけ人数がいれば遊園地のお化け屋敷と変わらなく見えてしまう。敦史と二人きりでここを訪れたことで、耐性がついたのかもしれないと、私は思った。

 肇がなるべく音を立てないように、片開きの門扉を開ける。よくある不気味な音を期待したが、錆びた鉄製の扉は間抜けな高い開閉音を響せた。


「早く!」


 肇が手招きし、私たちはそそくさと敷地内へと足を踏み入れた。

 門から玄関扉までは五、六メートルほどあり、扉に続く石畳がある。周りの地面は硬く冷たい土で、いたるところに雑草が生えていた。外から投げ込まれたであろうペットボトルや空き缶が散乱しており、この地域のモラルのなさを物語っている。

 津田がなにかめぼしいものがないかと目を凝らすが、雑草とゴミ、そして種類不明の枯れ木が居心地悪そうに風に揺られているだけだ。


「鍵とかかかってないの?」

 

 由亞が肇に尋ねる。


「兄貴の時はかかってなかったって」

「マジで? じゃあ早く開けようよ」

「え、俺?」

「流れ的にそうでしょ。もしかしてビビってる?」

「は? んなわけ」


 由亞の安い挑発を受け、肇が玄関扉に手を掛ける。古い家によくある、引戸タイプだ。曇りガラスの向こうは真っ黒でなにも見えない。

 肇は一瞬躊躇するも、すぐに勢いに任せて扉をスライドさせた。

 キュルルルルッ! というアルミ製のサッシの上を扉が滑る嫌な音する。扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。


 幽霊屋敷の中は、私たちの来訪を拒んでいるかのように、怪しく暗い光を発していた。月明かりが入り込んだことでそう見えているだけだとはわかっていたが、その闇は自分の家の電気が全て消えている時とはなにもかもが違った。

 「人の住まない家はダメになる」そうなにかで聞いたことがあるが、こういうことなんだろうと思った。生を感じない闇が広がっている。


「は、入らないの?」


 沈黙を打ち破ったのは津田だった。


「へへっ」


 津田は気持ち悪く笑うと、幽霊屋敷の敷居を跨いだ。それを追うように、私たちも境界線を越える。


「お、おいドア。開けとくと見つかるかも」

「う、うん」


 敦史に言われて扉を閉める。再び響く嫌な音から耳を背けるように前を向き、幽霊屋敷と対峙する。

 玄関は私たち五人が立っていてもほんの少しだけ窮屈かなと感じるほどの広さだった。正面にはまっすぐ板張りの廊下が続いていて、奥には台所のような部屋が見える。玄関を上がってすぐの左側には八畳ほどの床の間があり、出入りのための襖は床に落ちていた。その隣にも部屋があるようだが、そちらの襖は閉まっている。そして右には二階へと続く、日本家屋特有の急すぎる階段があった。玄関からでは上がどうなっているかはまったく見えない。


「土足でいいと思う?」

「逆にお前、脱ぎたいか?」

「い、いや」


 多少の慣れなさと罪悪感に戸惑いながらも、私たちは土足で家に上がった。由亞がスマホのカメラを起動し動画を撮りはじめる。


「おい、配信とかはすんなよ! 通報されるかもだし」

「わかってるよ〜。アップすんのはちゃんと編集したら!」


 由亞は肇の注意を軽くあしらう。由亞がスマホを取り出したことで私たちも思い出しかのようにスマホを起動し、ライトをつける。


「とりあえず一階から見て回ろう」


 津田がそう提案したその時、由亞がなにかを見つけたように声を上げた。

「あー! これだよね!」


 気がつくと由亞は床の間の前で部屋にスマホを向けていた。由亞の視線の先には土壁があり、そこにはスプレーや油性ペンで乱雑に落書きがされていた。


「タケル参上!」

「南中軟式テニス部」

「明紀と美咲♪」


 おそらく私たち同様、ここへ肝試しにやってきた人たちの名前やグループ名。これは幽霊屋敷へ行った証拠を残すためのルールなのだろうが、この多種多様な落書きは私たちに不思議と安心感を与えてくれた。生を感じなかった闇に、頭の悪い人たちの軌跡が乱入してきたと。途端にこの家への恐怖心も薄れ、私たちは一階を各々が好きなように探索することにした。


 肇と由亞は変わらず床の間の壁を眺めて騒いでいた。当時肇のお兄さんが残したであろう落書きも見つけたようで


「ほら! 嘘じゃなかったじゃん!」


 数年越しにお兄さんがここに入ったことを証明できたと歓喜の声を上げていたが、由亞はそもそもお兄さんが入った入ってないを疑われていたということを忘れていたようで、肇の喜びを適当に流しながら撮影をしている。


「ねぇ、畳裏返してみてよ」

「は? 嫌だよきたねーし」

「御札とか血の痕とか出てくるかもよ? そしたらめっちゃバズるじゃん!」

「ぜーったい無理! 俺意外と潔癖なんだから」

「ヘタレ〜」


 楽しそうな二人の声を背にして、私と敦史は一階奥の台所に来ていた。そこは開放的な間取りで、ダイニングテーブルなども置けるくらい広かった。おそらくここに住んでいた人たちはここで食事をとっていたのではないだろうか。


「どんな人たちが住んでたかって知ってる?」

「ううん、私たちが小さい頃から空き家だったよね?」

「当時からそうだったのか、出入りする人を見たことがないからそう思い込んでただけなのか。わかんねーや」


 ご近所さんの名前すら間違って覚えていた私からすれば、敦史の考察なんてどっちでもよかった。それよりも久しぶりにこうやって、一つの空間で友人たちと騒いでいる。そんな普通がとても嬉しくて楽しくて、自分がいまどこにいるのかなんていうことは些細な問題になっていた。事件があったと噂されている【幽霊屋敷】は、いつの間にか私の頭の中では単なる【お化け屋敷】くらいの認識になっていた。


「み、みんなちょっと来てー!」


 津田の裏返ったような声が聞こえた。ホラー好きなあいつのことだ、なにか適当な物でも見つけて、事件と紐づけるに違いない。私の冷めた考えとは裏腹に、他のみんなは興味津々な様子で津田の元へと向かった。

 津田がいたのは、床の間の隣の部屋だった。作りは床の間とほとんど同じだが、こちらは六畳くらい。入ってすぐ目についたのは奥の壁になにかを嵌め込むようなスペースがあったことだ。すぐに仏間だと気がついた。スペースに嵌まっていたであろう仏壇は見当たらないが、それ以外に考えられない。


「なるほど、津田が喜びそうな部屋じゃん」


 正直そう思った。位牌でも落ちてたか? そう思って津田の方を見ると、その視線は何やら天井付近を指し示していた。自然と私たちの視線も誘導される。

 胸のあたりが酷くザワついた。襖よりも少し高い位置、私たちを見下ろすような感じでいくつも遺影が並んでいた。長押と呼ばれる横に伸びた柱の上に立てかけられ、後ろはおそらく糸か何かで支えられているようで、その影響で上半分は前に迫り出している。それが綺麗に横並びにしてあって、遺影によくあるバストアップの白黒の写真とその下には文字が書いてある。仏間なのだからあってもおかしくない。おそらくこの家の住人のご先祖さまたち。私のおばあちゃんの家にだってある。けどそこじゃない。遺影だから怖いとか気持ち悪いとか、そういうのではない。


 顔と名前がなくなっていた。


 正確には、全ての遺影の顔とその下のおそらく名前が書いてあるであろう部分がズタズタに引き裂かれていた。顔はどんな顔だったかわからないくらいに、名前は一文字たりとも解読ができないくらいに。

 不良の悪戯だと、そう思うのが普通だろう。けどその思考を遮る違和感があった。遺影の額縁には傷などはなく、中の写真を出し入れした形跡もない。そしてなにより、遺影が寸分の狂いもなく綺麗に並んでいる。不良がわざわざ遺影を床に下ろして、額縁から写真を出し傷つけ、元通り綺麗に戻す。そんなことをするわけがない。まるで初めからこの状態だったかのような、そんな違和感。


「きもっ」


 由亞がそう言いながら動画にそれを映す。


「んふっ、凄いでしょ。幽霊とかとは違う生々しさ、リアリティを感じる。この家の住人にとってご先祖さまは忌むべき者だったとか、そんなんだと思うんだよね。あーでも名前まで削られちゃってるのは残念だなぁ。なんて苗字の人が住んでたか、もしかしたらわかったかもしれないのに」


 評論家ぶって饒舌になる津田の言葉を聞きながら、私は思い出した。


「表札も、同じように削られてたよね」


 敦史と二人で家の前まで来た時に、ブロック塀に嵌め込まれていた表札の名前が削られていたのを私は確かに見ていた。あれは不良の悪戯かもしれないけど、この遺影の状態と嫌にリンクしていると感じた。


「残しちゃいけない、知られるわけにはいけない忌み名。そんなのだったらワクワクすると思わない?」

「忌み名? なんかわかんねーけどロマンあるかもな」

「名前を呼んではいけないあの人、みたいなことでしょ? いいねぇ」


 男子たちは馬鹿みたいな方向に脱線して盛り上がっている。それが恐怖心を紛らわせるためのものなのか、鈍感なだけなのかはわからない。


「全部おんなじ道具で削られたような感じだよね」

「うちの猫の引っ掻き傷とかこんな感じだよ? もっと小さいけど」

「じゃああれかな? ここにはめっちゃデカい猫の怪物がいるとか?」

「それってほぼ虎じゃない?」


 由亞の言う通り、どことなく猫のような、鋭い爪で削り取ったらこうなるんだろうなという感じだった。けど家の柱なんかには同じような傷はないので、動物を飼っていたわけではなさそうだ。

 津田がなにかブツブツと考察をしていたが、正直ここから読み取れる情報はもうなそうだし、私としては気持ち悪い以外の感想はなかった。


「敦史たちはなんか見つけた?」

「いや、なんにも。台所に冷蔵庫とか置きっぱだったけど、中も空っぽだったよ」

「俺と由亞がいた部屋も、ここに入った人たちの名前が書いてあるだけで、他にはなんも。てことは……」


 みんな考えていることは一つだ。一階は一通り見た。次に行くとしたら–––


「二階も見てみよう!」

 津田が嬉しそうに言う。一階にこんなに気味の悪いものがあったのだから、もしかしたら二階にもと、そんなテンションだ。なんならこの遺影に関するアンサーがあるかもしれないと、そんな風に考えているに違いない。


 二階へと続く階段を見上げる。玄関からでは上の様子はわからなかったが、流石に真下に立つと上がどうなっているかはなんとなく見ることができた。と言っても、壁が見えるだけ。おそらく上り切ると横に廊下があるタイプだろうと推測できる。そんな推測ではなく、とっとと上って確かめればいいという話なのだが、階段は狭く、縦に並んで行くしかない。みんながみんな、先頭になることを無意識で拒否していた。

 上った先に何かがいて、後ろにみんながいる状態では引き返すこともできない。犠牲になるとしたら一番前の人間だ。

 なにか危害を加える存在がいるならとっくに私たちは襲われている。そうとはわかっていても、やはり先頭に立つ勇気はない。


「まあ、じゃんけんでいいんじゃね?」


 肇の無難な案に同意し、二回あいこが続いた後に順番は決まった。

 敦史、由亞、津田、私、肇の順番だ。肇は後ろは後ろでなんか嫌だと言っていたが、わからなくもない。結局前後両方に誰かがいた方が、精神的な安堵感は確保できる。敦史と肇には同情するが、変わってあげるほどの余裕は正直いまの私にはなかった。

 敦史が階段を上り始める。どんな表情をしているのかは見えないが、木製の階段が軋む音に驚き、一瞬肩を震わせたのはわかった。

 急な階段を踏み外さないように、どこか傷んでいるかもしれないということも加味しつつ、慎重に進んでいく。上り切った人たちから順に左の方に消えていく。みんなの姿が消えていく様子にいささかの寂しさを感じながらも、後ろから肇が着いて来ていることを確認し、私も無事階段を上り切った。

 下から見た通り、上ってすぐは壁で、そのまま左に曲がることができ、そこにみんなが溜まっていた。すぐに肇も合流し、改めて状況を確認する。

 そこはT字路のようになっていて、左右に廊下が続いていた。右に行けば台所の真上だろう。左は床の間と仏間のあった廊下の真上あたり。

 恐る恐る見渡してみると、部屋数は二つだけだった。左右の突き当たりにそれぞれ一部屋ずつ。一階とは違い、二階の部屋は襖ではなく普通のドアだった。普通と言っても、かなり古いもののようには見える。


 みんな、一階を探索し始めた時のような気楽さはなくなっていた。狭い廊下が閉鎖的な窮屈さを生み、部屋に入ろうにも足が進まない。理由は単純で、左右どちらの扉もなにやら重苦しい空気を纏っている。そう、暗いのだ。二階の廊下には窓が一つもなかった。それ故に月明かりが入ることはなく、廊下の奥にある扉は佇むように暗さを超えて黒に感じるほどに重圧的な空気を放っている。唯一の光源はスマホのライトだけで、人工的な光がよりこの空間を空虚なものにしていた。


「女が目撃されたのはどっちの部屋なんだろう」


 そんな余計なことを考えてしまった。二階の窓から外を見ていた女。仮にその話が本当だった場合、左右どちらの部屋がそれに該当するのだろうか。

 幽霊屋敷を外から見た時のことを思い出す。二階に見えた窓、それはおそらく右奥の部屋のものだろう。女が目撃されたとしたらその部屋である可能性が高い。


「どっちから行く?」

「ひ、左にしない?」


 津田の問いに反射的に答える。


「お、おっけー。じゃあ、行こうか」


 津田が率先して左の部屋に向かう。この重苦しさを感じてか、少し前までとはテンションの落差が凄いことになっているが、おかげで口数も減って、だけども先陣を切ってくれているこの状況は贔屓目に見ても私の目には頼もしく映った。


「ダメだ、閉まってる」


 津田がドアノブに手をかけながら言う。ガチャガチャと回すも開く気配はない。流石に壊してまで中に入ろうとするタイプではないのでみんな素直に諦め、無言のまま顔を見合わせると踵を返し、もう一つの部屋に向かう。

 扉を開けようとする津田を見ながら、私は心の中でどうかこちらの部屋も鍵がかかってますようにと願っていた。しかし、そんな希望はすぐに打ち砕かれてしまった。


「おっ」


 津田の嬉しそうな声と、小さな扉の開閉音。

 廊下の閉鎖的な空気感に耐えきれなくなっていた男子たちが率先して部屋へと入っていく。そのあとに私と由亞も続く。

 予想通り、幽霊屋敷の外から見えていた二階の窓はこの部屋にあった。廊下と違い月明かりや街灯の光が入っている分、とても明るく感じる。


「ねぇねぇ、二人でここ立って外見てたらさ、また新しい噂になったりしないかな?」


 由亞が窓の前に立ちながら私に言う。

 あの窓から外を見る女の噂も、私たちのように肝試しに来た誰かがたまたま目撃されただけなのかもしれないと、その時思った。

 部屋は六畳ほどで角に布に覆われた大きななにかがあるだけの、殺風景な部屋だった。


「死体だったらどうする?」

「形的に箪笥とかじゃね?」

 肇と敦史がその布に覆われたなにかの前で話している。

「と、とってみてよ」


 こういう時は自分でやらないんだなと、敦史たちに任せる津田を見て思った。

 バサッと、敦史が布を取る。舞った埃が月明かりに照らされて宙を舞う。みんな軽く咳き込み、布が床に落ちる。

 そこにはピアノがあった。かなり古いアップライトピアノ。正直、この家には似つかわしくない装いのものだ。

 肇が鍵盤蓋を開く。


「弾けるかな?」


 そう言いながら、この中で唯一ピアノを弾ける私を見る。そっと近づき、鍵盤に指を置く。


 ポーン


 当たり前だが、音程が狂っている。いつから放置されているのか、最後の調律はいつだったのか、それはわからないが、これではまともに弾くことはできないだろう。


 ポロン、ポロン


「あはは、めっちゃズレてる。だめだねこれ」

 

 ポロン、ポロン


 笑いながら、みんなを見る。


 ポロン、ポロン


 みんなの顔が引き攣っている。ズレたピアノの音が、部屋に木霊している。おかしい、そういうことか、そりゃみんな、そんな顔になる。だって


 私の指は、とっくに鍵盤から離れているんだから。


「うわああああああ!」


 津田の叫び声でみんな我に返る。鍵盤を見ても、ひとりでに動いているわけではない。だけどたしかに、音が聞こえる。


 ポン、タッ……ピンッ


 狂った音程が、無理矢理メロディになろうとしているような、そんな雰囲気を感じた。


「も、もう無理」


 由亞が部屋を出て下の回に向こうとしたその時


「ひっ!」


 短い悲鳴を出しながら、由亞は後退りして戻ってきた。そして指を差す。廊下のその先を。みんなで由亞を囲み、指し示された場所を見る。

 扉が、開いていた。鍵の閉まっていたはずのあの部屋。それが大きく口を開けたかのように、廊下の先に佇んでいる。部屋の中がどうなっているのかは、暗すぎてわからない。もしかしたら、向こうの部屋は廊下同様に窓がないのかもしれない。

 嫌な考えが頭の中をよぎる。もしかしたら、あの部屋の中には最初から誰かいたのかもしれない。その何者かがいま、この部屋に私たちを追い詰め、襲うために出てきた。そしてその何者かは、この世のものではないナニカ。いまだに鳴り響いているピアノの音が、その証拠だ。


「逃げようよ!」

「で、でも」


 そうだ、私だってみんなだって、できることなら津田の言うようにすぐに逃げ出したい。でもここから逃げるには、階段を降りる必要がある。そしてその階段は、私たちのいる部屋とあの部屋の間にあるのだ。逃げるためには、あの部屋に近づかないといけない。それが私たちの足を重くする。


「俺が先頭で行くよ。だからみんなダッシュで着いてきて」


 敦史が名乗りを上げた。心配よりも、ありがたさの方が優っていることもあり、誰も止めはしなかった。それにこの部屋に居続けても、ピアノの音が鳴り止むことはなく、なんならこの音がなにか一つのメロディとして完成したときにこそ、よくないことが起こるのではという妄想までしていた。


 「よしっ!」


 敦史が駆け出し、それに続き由亞、津田、肇、そして私もピアノの部屋を後にする。

 ドタバタと音を立てながら一人、また一人と階段のある通路に入り目の前から消えていく。絶対にあの部屋を見ない、あの部屋を見ない、見るな見るな見るな見るな。

 通路に入る瞬間、視界の端になにかが映った気がした。反射的に、私は部屋に視線を移してしまった。反射的? いや、なにかに、呼ばれたような気がした。


ポ〜ンッ……ふ……なを……


 ピアノの中に音に紛れた声のような、なにか。同時に視界の端に入ったもの。先ほどまで暗闇だったあの部屋。そこに、小さな女の子が立っていた。扉と廊下の境目、顔は見えない。ああ、これがここで死んだと言われている子供だろうか。でも、だとしたらおかしい。だって


 どうして女の子が二人もいるんだろう。


 二人仲良く並んだ女の子。同じ服を着て、手を繋いで、私を見ている。

 気がつくと、私たちは自転車を停めたコンビニの前に戻ってきていた。

 

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名前のない家 鈴木一矢 @1kazu8ya

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