2.整理のつかない感情

 夜が来るまでにその問題は解決しなければならなかったのだが、今現在、月見里やまなし 瑞来みずくにそんな気力と体力は残っていなかった。

『瑞来先輩! 来月ですからね! 来月! 絶対空けておいてくださいよ!』

 と、高校部活の後輩に言われたのが、もう遠い昔の事のように思う。

 そう予定を勝手に作られたのが今日になるわけだが。

 瑞来のデスク上には、過去最大なのではないかというほどの書類の塔が聳え立っていた。普段ならばこうなる理由は誰かに押し付けられたものが多い彼女だが、今回はそうではない。

 丁度長丁場となっていた大きな事件が片付いたのだ。それ故、今まで誰もが見て見ぬフリをしてきていた書類仕事に手を付けざるを得なくなったのだ。

 捜査員で。

 周囲をちらりと見まわしてみれば、彼女と同じようにカフェインを流し込み、文句をたれながら作業している人が一課の島で溢れているのが見えた。

 時刻はすでに21時を超えている。今日は朝から大忙しであったため、いつもなら残っている多少の体力すらもうすでになく。今は気力だけでなんとかしているといっても過言ではない。

 大きなため息と同時に体を伸ばし、近くに置いていた自身のスマートフォンを手に取る。

 電源を付ければ目に入るのは、つい最近家の近所にできた猫カフェの看板猫の写真だ。まだ中に入る勇気はなく、ガラス越しに見ただけの写真だが、いつか入ることが出来たらいいなとは思っている。

(違う違う)

 口角が緩むのを感じ、頭を振る。今は猫を思い返して穏やかな気分になっている時間なんかない。

 慌てて指紋で画面ロックを外し、よく使うメッセージアプリを起動させる。

”弓道部総合”と書かれたグループチャットを開いて、素早くメッセージを打ち込んでいく。

『お疲れ様。ごめん。今日の予定なんだけど、仕事終わりそうにないから、みんなで楽しんで』

 すぐにつく既読と、泣き顔のスタンプ。学生時代には嫌われているだろうなと思っていた同期たちも同じように反応をするのだから、つい対応方法に困ってしまう。

 突き放されていた方が、楽だというのに。

 そのままグループを閉じれば、目につくは個人チャット。

”えびす”という可愛らしい名前の下に”ちゃんと考えておいてください。俺結構本気なんですから”の文字。

「…………」

 学生の時から、なんだか懐かれているなぁとは思っていた。コロコロと表情が変わる、子犬のような後輩。

 デスクの上に置きっぱなしにしていたもうすでにぬるい珈琲を手に取り、溜息をつく。ぬるくなっているというのに、コーヒー特有の香ばしくも苦い香りは結構残っていた。

 こういうのはどう反応すればいいのか、よくわからない。放置がダメなことは分かっている。だが、ストレートにバッサリ切るのがダメなことも、さすがの瑞来でも理解している。

(好きな人、ね)

 今まで生きてきて、触れたことのない感情だった。

「溜息ついてると、幸せ逃げちゃうぞー」

 ふいに右隣からそう、声がかけられた。

「逃げる幸せなんてないから大丈夫だ」

「またまた~、そんなこと言って~」

「軽口叩いている暇あったら手を動かしたらどうだ。お前、私より書類あるだろ」

「あー、いやー、まぁー。それはそうなんだけど」

 ちらりと視線をそちらに向ければ、「言い返せねぇなぁ」と言わんばかりに頬を掻き、苦笑いを浮かべている男がいた。

 藍色のさらりとした髪。左サイドはアクセントと言わんばかりに白く染められている。瞳はサングラスとこちらを向いていないせいで良く見えないが、綺麗な色をしていたことは覚えている。

「何か困りごとです?」

「……いや。私用だからな」

「私用ねぇ……」

 キーボードの上を細く綺麗な指が走る。規則的なタイピング音だけが、今この場にあるような気さえした。

 再度、自身のスマートフォンへと視線を落とす。

(まぁ、いいか)

 考えるのすらバカらしくなってきた。

 息を吐き、その勢いのままチャットを開く。

『千歳。気持ちはすごく嬉しい。……でも、断らせてくれ』


 一呼吸。


『好きな人がいるんだ』


 脳に考える思考を与えないまま、送信ボタンを強めに叩く。

「解決しました?」

 先ほどと同じ、優しくも穏やかな声が、耳を擽った。

「……お前のおかげでな」

「?」

 不思議そうに首を傾げる相棒の顔に、思わず口角が緩む。

 昔も今も、そこに気持ちが無いのであればそれに応えることはしないほうが、礼儀というものだろう。


 グループ連絡とは違い、既読はすぐにはつかなかった。

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1000文字小説 水硝子 @water_glass

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