第66話

 どさりと背中から落ち、頭を強く打って呻く。途中でフードが脱げてしまったせいだ。手で押さえておけばよかった。そうしたら私の『重さ』という概念は消失するから、こんな目に遭わずに済んだのだが。


 ふらつきをこらえて、なんとか立つ。


 周囲を見回せば、簡素なベッドやキッチンがある。


 果実とも花ともとれる淡い匂い。それに絡む、苦味のある粉っぽい薬のような匂い。狭い小屋の真ん中に立つ、小柄な後ろ姿。燐光をはらはらと散らせる紅の長い髪。


 クーアだ。


 私が理解すると同時に、ごう、と音を立ててあちこちから炎が上がった。熱風が頬を撫でる。


 こちらに振り向いたクーアに迫る炎。歪められた夢の中で、クーアが焼かれていく。


 私の中に存在する本物のクーアを元に作られた、私の悪夢だ。


 ここでいくらクーアが燃やされようとも、現実のクーアには影響しない。私の思い出に何度も焦げ目をつけられるだけだ。頭の中がひりひりと炙られるように痛む。


 だが、それだけだ。


 ナイトメアは、私の記憶の遺産を使い悪夢を作り出している。餌を得る為に、壊さない程度に弄んでいるだけなのだ。

 それよりも今は、キールだ。

 迫りくる炎を風で払いのければ、小屋の出口が見えた。駆け寄り、ドアに手をかける。


「自分の恋人が焼かれてるってのに、逃げるのかい?」


 耳にまとわりつくようなねっとりとした声に、蹄の音。

 振り向けば、そこにナイトメアの本体がいた。散々見てきた臙脂色の煙が、馬の姿を形作っている。

 今まで何体かナイトメアを取り出した経験はあるが、どれも大きくても掌大だった。だから小さな魔物と思っていたのだが、目前に現れたナイトメアは普通の馬ほどもあった。随分立派な成長ぶりだ。ここまで育った個体は初めて見る。


「所詮夢だ。同じ内容のものを見せられて、いい加減うんざりしている」

「アタシが思っていた以上のクソガキだ。いや、もうクズだね。恋人を焼かれてもなんとも思わないなんて」


 小屋の中に、クーアの絶叫が響く。


「約束を忘れたとは言わせないよ。クソガキ、さっさとあんたを喰らわせな」

「約束を忘れているのは、貴様だろう? 私は『捕まえられたら喰らわせてやる』と言ったんだ。私を足止めしたいのなら、もっと他のパターンの悪夢を用意しておくんだったな」


 これだけ周囲が燃えていれば、さほど魔力を消費せずに済む。

 炎を風で煽り、ナイトメアへと向けた。

 品のない派手な悲鳴が上がったのを合図に、小屋を飛び出す。


 残念ながら、私は足の速さには全く自信がない。走るという行為がそもそも嫌いなのだ。できたら体を動かしたくない。いつまでものんびり寝ていたい。

 そんなだから、走り出してすぐに息が上がり始めた。


 魔力さえたっぷりあったら飛べたのだが、残念ながらほとんど残っていない。浮遊魔術なんて負荷のかかるものを使ったら、魔力切れで倒れる。走るしかなかった。


 小屋のすぐ前に広がっていた深い森に飛び込み、時折足を止めては匂いを探る。

 クーアの悪夢が持つ匂いは儚い。混ざっている私の悪夢の匂いにかき消されてしまそうなほどだ。だがその儚さのおかげで、他の夢から漂ってくる匂いを見つけやすい。

 混ざり合う匂いの中から、ミントに似たキールの夢の匂いを探す。


「諦めなクソガキ!」


 背後からナイトメアの声がした。まだ多少距離はあるが、このままではすぐに追いつかれる。


「出てきな! もうどこにも逃げられやしないよ!」

「逃げ場がないというのなら捕まえてみるんだな!」


 叫び、森の中を駆ける。いくら多少楽だからといって小径を走っていては、すぐ追いつかれる。運動音痴の私が走りやすいならば、馬はもっと走りやすかろう。

 足を取られそうになりながら、茂みをかき分けて進む。


 ご立派な体格のナイトメアも、私を追いかけて茂みに入ったらしい。ばきばきと小枝を折るような音がした。やめろ。なにかを破壊されるたびに、頭の奥を引っ掻き回されている感覚がして目が回る。


 やがて森の光景は、もやもやとした霧のように崩れ出した。その向こうから、濃厚なバクの悪夢の匂いが漂ってくる。この曖昧な景色の場所が、夢の境目らしい。

 ここが私の夢の中であるならば、全ての夢は繋がっている。バクの夢は全て脈々と受け継がれてきた記憶の遺産だ。繋がっていなくてはおかしい。


 バクの悪夢の匂いを辿って走り続けていたら、ついに周囲は真っ白になった。だがそれもわずかな間で、すぐに背後から臙脂色に塗り替えられていく。景色が歪み、どこか建物の中を映し出す。


 大きな鹿の頭部が飾られた暖炉。

 古い板張りのフロア。

 金の小鹿亭だ。


 いくら私の夢の中とはいえ、あくまでも主導権はナイトメアが握っているらしい。夢を辿る道も歪ませ放題というわけか。


 だったら、別の悪夢に取り込まれる前に移動するしかない。

 バクの悪夢の匂いを頼りに、目前にもやもやと形を成し始めた壁へと突っ込んだ。


 体が壁をすり抜ける。なんとか衝突は避けられた。正直危なかった気がする。


 荒い息をしながら、周囲を見る。


 そこは私の家だった。見慣れたキッチンに母がいる。エプロン姿の母がこちらを見て、にこりと微笑んだ。懐かしさからついその顔を見つめそうになるが、今はそれどころではない。


 ナイトメアは私の夢を操る。じきにここに現れるだろう。その前に、キールの夢に辿り着かなければ。

 キールの夢の場所はうちの庭だ。この家の構造がナイトメアによって変えられていなければ、裏口から回り込める。


 背後からかすかに、蹄の音が聞こえた。のんびり裏口に回っている暇はない。


 庭に面している窓へと駆け寄る。どうせ夢の中だ。本当に家が壊れるわけではない。風で壁に切れ目を入れ、突風で思い切り吹き飛ばす。


 勢いよく魔力を放出したのに加え、夢の中での破壊行為。頭が強く揺さぶられるような感覚に、つい吐きそうになる。


 こんな真似を何度もしていたら、そのうち精神が崩壊して今度こそ死ぬ。

 私の意識をぎりぎりで繫ぎ止めてくれたのは、ぶち抜いた壁の向こうから漂うミントに似た清々しい匂いだった。

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