第64話

 息苦しさを覚えて飛び起きる。


 風呂に沈みかけていた。寝ている間に、浴槽の縁から滑り落ちたようだ。湯はすっかり冷めていて寒い。風邪をひいてしまう前にと、私は風呂から上がった。


 久しぶりにまともな夢を見たからか、寝落ちする前に比べると幾分体が軽かった。いまだ気だるさはあるものの、耐えられないほどではない。

 温めた風を起こして濡れた髪を乾かし、清潔なパジャマに着替える。冷えた体を温めようと、寝室に寄ってブランケットを持ち出した。店に戻ってランプに火を灯し、ロッキングチェアへと腰かける。

 壁の時計に目をやれば、時刻は午後十時半。一時間以上風呂にいたのか。

 ブランケットを広げてぬくぬくとしていたら、先ほど風呂で見た夢を思い出した。キールの馬鹿みたいな明るさのおかげか、悪夢ではなかった。


 ……まさか、ナイトメアがいなくなったのか?


 一瞬そんな考えがよぎり、鼻をすんと鳴らす。あの酷い匂いがない。嗅覚が麻痺しているのとは違う。自分から漂う風呂上りの匂いが分かる。

 暫しの逡巡の後、私は左手に右手をかざした。反時計回りに、撫でるように動かす。


 途端に、すっかり嗅ぎ慣れたあの匂いが広がった。


 立ち上る煙は、黒と臙脂色が混ざり合っている。見た瞬間、手を止めてすぐに煙を押し戻した。それでもねっとりとした匂いは消えない。


 なにも解決していなかった。


 背もたれに体を預け、ゆらゆらと揺れる。

 カーテンを閉めきったままの窓を打つ、激しい雨音。今夜は嵐か。庭のネムノキが折れるほどではないが、こんなに荒れた天気は久しぶりだ。

 雨音は眠気を誘う。こういった夜は、ベッドで丸くなっているのがいい。ゆっくり寝て、嵐が過ぎ去るのを待つのだ。ずっとロッキングチェアで過ごしていたせいで、体が痛い。寝心地のいい柔らかなベッドが恋しい。

 けれども、眠るわけにはいかない。眠りに落ちたとき、先ほどのように明るい夢が見られるとはかぎらないのだ。


 そこまで考えてから、ひとつの疑問にぶつかった。


 私は間違いなくナイトメアに憑かれている。

 それなのに、なぜさっきは悪夢を見なかったのか。


 ナイトメアに憑かれてから、あらゆるものが醜悪な夢へと変じた。もちろんその中には、キールが登場するものもあった。

 なのに、なぜさっき見た夢だけは無事だったのか。どうして正常な状態を保っていられたんだ。


 他の夢と違うことがあるとすれば、あの歌か?


 キールが歌っていた夢は数え切れないほどあるが、「魔よけ」と言ってぴいぴい鳥のように歌っていたのは、あの夢だけだ。思いつくものといえば、それくらいしかない。

 あの歌の旋律は、ついさっき聞いたからまだ覚えている。耳の奥に残っている感覚さえあった。

 キールのような高い声は出せない。それでもメロディだけなら真似られる。幼いキールが何度も歌っていた旋律をなぞるように歌い出す。


 そのとき、嘲笑が起こった。臙脂色の煙が溢れ出し、私を包む。もはや人間の女の姿を模倣する気もないようだ。あれだけこき下ろしたのだから当然か。まあ、不愉快な若作りの厚化粧を見せられるくらいなら、こっちの方がだいぶましだ。


「ハルピュイアの真似事だなんて、面白いことをするねえ。おかげで笑い過ぎて窒息しかけたよ」


 ナイトメアは私を嘲ってはいても、嘘は言っていない。店内に巡らせている嘘探知の魔術が反応しないからには、くだらない言葉も真実だ。


「坊や、あんたはバクだ。夢を喰らうばかりで、夢を作り出す力はない。そうだろう? そんなあんたがその歌を口ずさんだところで、痛くも痒くもないね」

「つまり、ハルピュイアが歌えば効果があるのだな?」

「それを知ってどうにかなるのかい? あんたみたいな根性のねじくれたやつを助けてくれるハルピュイアなんて、どこを探してもいないだろうに」


 いかにバクが魔法を得意とする種族でも、できないことはある。どうやったって私はハルピュイアになれない。魔法で外見を変えられても、種族特性までは真似できないのだ。


 ただひとつ判明したのは、こいつはキールがあの歌を歌う夢に手が出せないということだ。


 バクの夢は現実と同義。キールが食べさせてくれたおかげで私の記憶の遺産になっているあの夢は、本物のキールの歌という扱いになる。


 だからこそ、ナイトメアはあの夢を歪められない。


 ナイトメアは、滅多にハルピュイアに憑かない。楽しい夢ばかり見ている底抜けに明るいあの種族とは相性云々の問題である。憑いたところで、ハルピュイアにとってナイトメアは美味い餌でしかない。夢の取り出し方を知っている者に取り出され、逃げ損ねて食べられるだけだ。


 つまり私の中にいるキールを利用できれば、ナイトメアを引き剝がせる。

 あの夢にナイトメアをおびき寄せられれば勝算はある。


 あとはその方法だけだ。なにかいい方法。私が夢の中で主導権を握れる方法はないか。


「バクの坊や。いい加減諦めな。あんたはアタシに喰われるしかないんだ。どんなにあがいたところで、誰にも助けてもらえないことに変わりはない。よく分かっただろう? さあ、その魂をさっさと差し出しなよ。最高に美味くなるように味付けをしてやるから」


 ナイトメアがくつくつ嗤う。


「どんな方法で味付けをするんだ?」

「今まで見てきたひとつひとつの夢を巡らせてやるよ。どれもいい夢だったろう? 最高の調味料だ」

「食い意地の張った貴様でも『味付け』という概念が存在するのだな。驚きだよ」

「美味いものはとびきり美味くして食べないともったいないからね」


 私がどんなに弱っても、こいつはすぐに喰らう気はないようだ。今まで散々いやらしい悪夢を見せてきたこいつのことだ。味付けとやらも相当時間をかけると思われる。

 だったら、その時間を利用するまでだ。こいつは私の魂深くに巣くっている。その深みまで辿り着ければ、本体に会える。そしたらあとは例の夢まで誘い込めばいい。いくら私がまともに魔法が使えないほど弱っていようが、ナイトメアの力が強くなっていようが、わざわざ教えてくれた弱点なのだからなにかしら有効なはずだ。


 あとは、どうやって夢から出てくるかだ。


 魂の深層に潜るとなると、間違いなく私は肉体ごと夢に溶け込む。バクにはよくあることだ。普通ならば溶け込んだところで、自然と目が覚める。夢に囚われなどしない。


 だが今、私の夢は何もかもが異常だ。


 ナイトメアはキールの夢だけには手が出せないようだが、だからといって夢からの帰り道がいつもと同じとは限らない。しかも目覚める為に自傷行為にはしったところで、肝心の肉体ごと夢に溶けているのだから効果がない。

 肉体がないのだから、今まで私を助けてくれた拷問用の魔術も役に立たない。


 生き残る為には、確実に夢の中からこちら側に戻ってこられる手段が必要だった。


「誰にも助けてもらえない哀れな坊や、食べられる覚悟ができたのかい? もしそうなら、早く食べさせておくれよ」


 私の目に映るのは臙脂色の煙だけだというのに、ナイトメアがにやついているのが伝わってくる。うるさいな。こっちは考え事で忙しいんだ。少し黙っていて欲しい。

 若干いらいらしながら思考を巡らせていたら、雨音に混ざってノックが聞こえた。

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