九章 果てるまで

第63話

 バクはよく眠るのが習性だから、眠り放題三食つきという生活は嬉しい。しかし今はそれを楽しめない。眠れば趣味の悪い悪夢が待っている。


 ナイトメアへの対策とキッチンに残っているチーズもどきの消費方法を考え続けて、もう三日になるだろうか。カーテンも開けるのも億劫で外の様子を確認していないから、時間の流れがよく分からなくなっていた。


 店のロッキングチェアでうとうとしては風の刃に起こされ、食事の為にキッチンに立てば、包丁を握ったまま寝落ちしそうになる。そんな暮らしが続いていた。

 私が人間の悪夢を喰らい、それをすぐさまナイトメアが喰らう。その感覚に慣れ始めている。

 しかし慣れたところで、体への負担は変わらない。むしろ睡眠をとれずに体力が落ちているだけ、私の方が不利だった。体力が落ちれば、当然精神的にも弱る。隙を突いて見せられる悪夢に追い詰められていた。


 ナイトメアは暫く私の前に厚化粧の顔を見せていないが、私に見せる悪夢がどんどん醜悪になっていく。ナイトメアの思うままに歪む悪夢は、あいつが日ごとに力を増している証拠だった。

 成長するナイトメアは、私の中に収まりきらなくなっていた。臙脂色の煙がなくとも、常にあの化粧を溶かしたような強烈な香水の匂いがまとわりついている。おかげで、他の匂いが分からなくなっていた。


 もしもここにキールがいてくれたら、状況は変わったかもしれない。


 ハルピュイアの好物はナイトメアだ。その匂いに敏感なキールが手伝ってくれたのなら、私の中から取り出した悪夢を嗅いでもらい、ナイトメアを見つけ出せたかもしれない。


 まあ、全ては「かもしれない」だ。

 今ここにキールはいない。


 キール以外のハルピュイアを知らないわけではない。リザだってハルピュイアだ。

 ただし夢を売買する夢屋は、もちろん夢の内容を覗く方法を知っている。クーアに関する夢もナイトメアに汚染されているのだから、ナイトメアを探す為に覗かれてしまうおそれがある。万が一にもクーアの存在がばれるような真似はできないから、頼れるわけがない。


 ああ、そんなことを考えているうちに、また眠くなってきた。

 早く店に逃げなければ。


 そう思うのだが、体が重く、温かな湯船からなかなか出られない。風呂とは、疲れているときほど心地いい。不衛生な生活は耐え難かったからこうしているわけだが、非常に危険な状態だった。


 自分の足で抜け出せないのならば浮遊魔法でも使えばいいが、ろくに寝ていないせいで魔力の回復が追いつかない。集中力も低下している。

 今の私が何の手助けもなく使える魔法は、せいぜい風呂の用意や、簡単な調理に関するものだけだった。魔法の扱いに長けた種族だというのに情けない。とてもではないが、クーアに見せられる姿ではなかった。


 こんな状態での入浴は、溺死という危険もはらんでいる。それも充分理解しているが、頭の中身が溶けて波打っているような目眩と浮遊感で、意識はぐらついていた。

 せめて溺死だけは避けようと浴槽の縁に片腕を載せ、肩口で頭を支える。


 もしここにキールがいてくれたら。


 キール。


 私の、一番最初の友人。


 ハルピュイアの陽気さを体現したようなあの笑顔が、脳裏に浮かぶ。

 それは本当に一瞬で、私の意識はずぶずぶと眠りに沈んでいった。


***


 ミントのような清涼感のある匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。この匂いは知っている。キールの夢の匂いだ。


 天気は快晴。心地いい風に、ネムノキの葉がさわさわと揺れている。庭を彩る花々が初夏だと教えてくれた。


 隣を見ると、子供のキールが立っていた。背中には大きな金色の翼。ハルピュイアの明るすぎる性格をよく表現した、金色の短い癖毛。膝小僧丸出しの緑のオーバーオールは、彼のお気に入りの服だ。


 キールがここにいるということは、町に彼の実家であるサーカス団が来ているのか。

 興行中、キールは私の家に預けられる。まだ芸をするどころかハルピュイアとしても未熟なキールは、私の家で魔法の練習をするのだ。


 庭のネムノキの根元に座る私に、幼いキールはドヤ顔をしていた。相変わらず元気そうだ。


「エル、今日は俺がおまえにいいものを教えてやる! ハルピュイアに伝わる大切な歌だ!」

「いい。本読んでるから、勝手に歌ってて」


 私は即答した。


「魔よけの歌だから、ちゃんと覚えるんだぞ。歌うぞー」


 そう言って、キールは本当に歌い始めた。彼が自由気ままに歌っているのはいつものことだから、さほど気にならない。別に聞くに堪えない音痴でというわけはないから、好きにさせていた。

 それよりも膝の上に置いた本の続きが気になる。一昨日買ってもらったばかりの、冒険家の手記だ。魔物は出国許可証を発行してもらえないから、国境を越えられない。外国の様子がつぶさに書かれた本に、私は夢中だった。


 特段二人でなにかをして遊ぶわけでもない。二人で過ごすとき、私はいつも庭のネムノキに寄りかかって読書をしていたし、キールはキールで「大きくなったら吟遊詩人になるんだ」と言いながらいつもぴいぴい歌の練習をしていた。


 人間と関わるようになって、ハルピュイアの生活スタイルは変わった。元来陽気で自由を愛するハルピュイアは、旅の楽しみを覚えたのだ。キールの両親もサーカス団を率いて国内を巡っていた。


 バクとハルピュイアは、種族同士仲がいい。私とキールの父同士もそうだった。

 ネムノキを植えてそこに定住するバクに、旅をするハルピュイアは己の子供を預ける。バクは突然ふらりといなくなる魔物ではないから、ハルピュイアは子育ての方法としてバクを利用しているのだ。

 ハルピュイアは背中に生えた金色の大きな翼で空を飛ぶが、翼の力だけで飛ぶのではない。風と相性のいい彼らは風を読み、魔法で操り、流れを捉えて飛ぶ。

 それでも子供のハルピュイアはひとりで風を操れず、飛ぶのでさえへたくそだから、魔法の扱いに長けたバクに子供を預けて風の魔法を練習させるのだ。


 もちろん、バクにもメリットはある。


 陽気なハルピュイアはほとんど悪夢を見ないが、その代わりに甘い夢をほいほい生み出す。それは無限に湧くものだから、私はキールを練習台にして夢の取り出し方を学んだ。キールがいいと言えば喰らうが、たいていはちゃんとキールの中に戻す。

 それでもごくまれにキールは悪夢を見たから、私がそれを取り出したときは菓子の代わりに喰らった。あまり食べた気にならない雲のようなそれは、幼いバクが体を悪夢に慣れさせるにはちょうどいい。


 お互い生活スタイルを崩さずにメリットを得られるから、バクとハルピュイアは仲がよかった。


「エル、ちゃんと聞いてたか?」

「へえ、冷たいじゃがいものスープなんてあるんだ。食べてみたいな」

「よーし、もう一度歌うからな。ちゃんと覚えるんだぞ」

「じゃがいも、ブイヨン、生クリーム……」


 キールと私の会話は、滅多に噛み合わない。

 けれども、一緒にいて不快ではなかった。


 キールも同じ感情を抱いていたと思う。そうでなければ、初対面のときとっくに喧嘩になっていた。


 キールは見た目こそ翼が生えた人間の子供だが、今その口から溢れるのは軽やかな鳥のさえずりだ。普段はちゃんと歌詞のあるものを歌っているキールにしては珍しい。

 そういえば、さっきハルピュイアに伝わる歌だとかなんとか言ってたな。なんであれ、私が覚えるには少し難しい音だ。そんな鳥みたいな鳴き声出せない。そもそもバクは鳴かない。

 どうせ覚えなくてもキールが怒らないと知っているので、そのまま本を読み進める。


 ぴーひょろろ、ぴぴぴ、ぴっ、ぴいー。


 そう表現するのがしっくりくる高音で、キールは歌い続けていた。

 意味などない音の羅列かと思っていたが、同じ旋律を何度も繰り返している。暫く聞いていたら、耳から離れなくなった。残響にキールのさえずりが重なって、なんだか頭がふわふわしてくる。


 活字を追うのも少し疲れて、私はネムノキによりかかったまま昼寝を始めた。

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