第62話

 一瞬意識が飛びそうになったが、ぎりぎりで耐えて目覚める。現実の床に這いつくばった私の腕が、熱を持ち脈打っていた。力の加減をする余裕などなかったから、派手に切り裂いてしまった。動かそうとして、激痛がはしる。

 急いで治癒魔法をかけるが、傷口が大きいせいでなかなか塞がらない。床に血だまりができるほど出血したせいで、頭がぼんやりとした。


 治癒魔法は傷を塞いでくれても、失血した分を補ってはくれない。起き上がろうにも、体に力が入らなかった。だが、このままここに転がっていてはまた眠らされてしまう。ただでさえ今の私は、ナイトメアのしょうもない戯言に心を揺さぶられ、強引に眠らされるほど弱っている。なにか手を打たなければ。


 随分長い時間を、夢の中で過ごしていたらしい。私が朝食を食べた頃はまだ暗かったはずなのに、カーテンの隙間からは眩しい光が差し込んでいた。快晴を報せるその光に、さきほど夢の中で見た光景が重なる。


 ここにいたくない。


 壁まで這いずり、もたれながら立ち上がる。たったそれだけの動きで、息が上がった。

 重い体を引きずるようにして、店を目指す。

 家と店を繋げるドアを開け、薄暗い店内に入り、倒れるようにロッキングチェアに体を預けた。ここならば、ナイトメアは私を騙せない。つまらない嘘で私を揺さぶろうとすれば、やかましい嘘探知の魔術が私の意識をはっきりさせてくれる。


 そんな店内に、更に魔術を重ねる。


 魔術を向ける対象は、私。


 対象の意識レベルが一定以下にまで下がると風で体を切りつける、拷問用の魔術だ。私が生まれるより前に起きた戦争時に編み出されたものだが、バクはその記憶を全て受け継いでいくから古い魔法も知っている。

 正直こんなもの使いたくないが、さっきの様子からするに、次に眠らされたときにまた夢の中であがいて起きられるかどうかは怪しい。外側の世界から私を起こしてくれる手段が必要だった。


 失血と魔力の消費で朦朧とする意識を、風の刃による痛みが繋ぐ。

 最低だ。クーアの口癖の真似ではないが、最低すぎる。最低で最悪の事態だ。


 このままだと本当に死ぬ。自分の魔法のせいで死ぬなど笑い話にもならない。


 いっそ魂を少し削ってでも、強引にナイトメアを取り出すべきか?


 待て、それだと更に死ぬ可能性が上がるだけだ。頭に浮かんだ馬鹿みたいな考えを振り払う。どうも頭がうまく回らない。


 だいたい、魂を削って生き残っても意味がないではないか。


 もしもナイトメアごと魂を削って助かったとしよう。削った分だけ、私は記憶の遺産を失う。ついさっき悪夢として見たからには、ナイトメアは私の魂の中でも、特に家族やクーアに紐づいた部分に巣くっている。たとえそこだけを無事に切り離せたとしても、代償に大切なものを失う。


 家族との思い出も、クーアとの日々も、全て。


 そんな未来、受け入れられるわけがない。


 ため息をつきながら見慣れた天井を眺めていたら、視界に臙脂色の煙が流れ込んできた。煙が人の形を成す。

 四百歳オーバーのナイトメアが、恍惚とした笑みを浮かべながら私を見下ろしていた。


「坊や、まだ一日目だよ? 随分辛そうじゃないか。楽になる方法を教えてあげようか?」

「不要だ」


 ナイトメアは、バクが弱って意識を完全に手放すまで待つ。そこまで獲物を弱らせないと喰らえないからだ。だから、私が抵抗している間はいきなり喰われて死ぬことはない。対抗策を探す時間があるのは幸いだ。

 それも、私の体力を考えると長くはないのだが。


「ところで坊や、自分で母親を焼き殺した気分はどうだい?」

「どうだと思う?」

「最高だったようだね」


 バクの瞳で圧をかけたところで、こいつはただの虚像だから効果がない。どうやって黙らせようかと考えつつ、相変わらず若作りに熱心な姿を眺める。


「あんたの記憶を元にした精巧な作りの母親を、あんたは自分で焼いたんだ。いくら夢の中で好き放題できるバクでも、なかなかできない経験をしたんだよ。最高以外の何物でもないはずだ。実際、あんたの悪夢はいい味だったよ。ああ、思い出したらまた食べたくなってきたねえ」


 ナイトメアが己の肩を抱く。


「いい味といえば、あんたの恋人の夢だよ。随分変わった恋人だねえ? こんな悪夢、初めてだ。ただの口の減らないクソガキかと思えば、いいものを隠し持ってるじゃないか」

「相変わらずおしゃべりなやつだな。眠りに誘う魔物のくせに、沈黙というものを知らないのか? だったら今ここで覚えたまえ」

「素直になるっていうのを知らないクソガキだね。まあいいさ、どうせそうやっていて苦しい思いをするのはあんただ。そして苦しんでくれた分だけ、最後に残るあんたの魂は美味くなる」


 ナイトメアがぺろりと舌なめずりをした。見る者によっては官能的に感じるのだろうか、驚くほど全くそそられない。ただでさえげんなりしているのに、余計に萎えた。


「ひとついいことを教えてやろうか」

「なんだい、坊や」


 ナイトメアがにたにたと嗤う。


「宙に浮くなら、足を閉じるんだな。見えているぞ」

「このエロガキが! 見てんじゃないよ!」

「馬の下着を見て喜ぶほど困ってはいないよ。隠したまえ。不愉快だ」


 ナイトメアが大胆すぎるスリットのドレスをばふっと押さえてしゃがみ込む。冗談に本気で返してくるとは。まさか虚像のくせに、羞恥心があるのか?


「せっかくサービスでいい女の姿をしてやってるのに、なんて言い草だい! どんな育ち方をしたのか知りたいもんだね!」

「夢の中で見ただろう。前にも似たようなやりとりをしたはずだが、本当にボケたか?」


 ナイトメアなりに、美女の姿を作ろうとする気はあったのか。どこの誰に需要がある姿かは知らないが、若作りに勤しむそれは少なくとも私の好みには当てはまらない。いっそ馬そのままの姿でいてくれた方がましである。


 ドレスの裾がめくれないように膝を抱えながら、ナイトメアが私を睨みつけてきた。


「とにかく、抵抗するだけ無駄だよ! 分かったらさっさと意識を手放すんだね!」


 ぷりぷり怒ると、ナイトメアは姿を消した。


 私が起きていればぎゃあぎゃあやかましいし、眠れば趣味の悪い悪夢を見せつけてくるし、忙しいやつだ。とりあえず心底面倒くさい。早くお別れしたかった。


 静かになった店内で、鈍い頭を使って思案する。


 自分の夢を取り出してナイトメアを取り出す方法は無理だ。

 自傷行為で起き続けるのは今のところ有効ではあるが、いつまでもそれに頼るわけにもいかない。ある程度は治癒魔法を使って耐えているものの、魔力は無限ではない。節約している。癒せない傷は確実に増えていた。これではナイトメア関係なしに死んでしまう。


 魔法を使い悪夢の母を焼いた夢で私がダメージを負ったように、バクにとって夢は現実と同義という特性は変わらない。

 ならば、夢の中でナイトメアの本体を見つけるのはどうか。争いごとは得意ではないが、純粋な力比べになれば、大した魔法も使えないナイトメアなど敵ではない。


 問題は、どうやって夢の中でナイトメアを探すかだ。


 眠れば眠っただけ記憶の遺産を歪ませて作られた悪夢を見せられ、私がダメージを負い、ナイトメアは美味い餌にありついて更に勢いづいてしまう。

 たしかに私は、自分の意識を保てるほど夢に深く入り込んでいる。だが作り物の悪夢の世界での主導権は、あいつが握っている。今の私は、籠の中に閉じ込められた鳥のようなものだ。


 いくら天井を見つめていても、答えなど見つからなかった。

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