第61話

 眩しさに思わず呻き、そっと目を開く。


 見慣れたテーブルのそばに、私はうずくまっていた。開け放たれた窓からはそよ風が舞い込み、白いレースのカーテンを揺らしている。

 窓など開けた覚えがないが、春めいたそよ風が心地いい。


 立ち上がると、膝の上からなにかがばさりと落ちた。見れば一冊の本が床に落ちている。それを拾い上げようとして、私は自分の手の小ささに気づいた。目線もいつもよりずっと低い。窓から庭が見えるかどうかという高さだ。


 子供の体だった。


 ならばここは、夢の中か。ナイトメアに眠らされてしまったわりには、穏やかな世界だ。

 本を拾い、風に揺れるカーテンを眺める。


 背後から小さな鼻歌が聞こえた。のどかな三拍子が、懐かしい記憶を呼び起こす。


 振り向いた私の目に映ったのは、水色のエプロンをつけた母だった。私がよく知る穏やかな笑みを浮かべた母が、鼻歌を歌いながらキッチンに立っている。キッチンの方からは、ほんのりと甘いバニラの香りがした。


 私の視線を感じ取ったのか、母がこちらを見た。


「なあに? お母さんの顔になにかついてる?」


 問われて、つい首を横に振る。母の趣味で長く伸ばしていた私の髪が揺れた。


「エル、おやつの時間よ。お父さんを呼んできて」


 まだ流行り病などなかった頃、我が家では家族揃っておやつを食べるのが習慣だった。

 メニューはいつも違う。祖母が散歩の途中で買ってきてくれたもの、菓子作りが好きな母の手作り、父が営む夢喰屋の客から差し入れられたもの。毎日変わるおやつを皆で食べながら、のんびり過ごすのだ。

 母が菓子を作っているときの甘い匂いが好きだったから、私はよく母のそばで読書をして過ごしたものだ。


 母に頷いて父を呼びに行こうとして、ふと気になった。


 祖母は呼びに行かなくてもいいのだろうか。


 私が知る母なら、いつもこう言う。


『エル、おやつの時間よ。おばあちゃんとお父さんを呼んできて』


 と。


「どうしたの、エル? お父さんを呼んできて」


 皿を持った母が、キッチンから出てくる。

 それを見た瞬間、苦味のある粉っぽい薬のような匂いが広がった。


 母が持つ皿には、よく作ってくれたカスタードプリンが載っている。それを見てしまったら、口の中に味が広がった。思わず吐きそうになり、うずくまる。

 そんな私の背中をさすりながら、母は言葉を続けた。


「今日のおやつは、あなたの好きなおばあちゃんよ」


 嫌だ、食べたくない。逃げようとした私の頭を、母が押さえつける。眼前の床には、カスタードプリンが載った皿が置かれていた。


「どうしたの。おばあちゃん、好きだったでしょう?」


 私が見ている前で、カスタードプリンが金色の綿飴へと姿を変える。漂ってくる甘い匂いは、間違いなく死んだバクのものだ。


「食べなさい、エル」


 母の手から逃れたいのに、体が思うように動かない。


「食べて」


 母の手に力がこもり、私の顔を皿に押し付けようとする。


「食べろ」


 絶対に嫌だ。もう家族を食べたくない。


「……あああああああああああああ!」


 思わず叫んだ。溢れる魔力を抑えられない。私の叫びに呼応するように、周囲で炎が渦を巻く。母の絶叫が響いた。炎に舐めとられた祖母が一瞬で姿を消す。

 まるで頭の中を焼き焦がすような頭痛に呻く。炎が広がるほどに、痛みも増していく。魂に深く刻まされた記憶の遺産から作られた悪夢が焼ける痛みに、体が反応していた。


 床に、壁に、炎が燃え広がり、全てを飲み込む。もう先ほどまでの穏やかな光景など、どこにもない。


 緋色の部屋の中、長い髪を振り乱して絶叫していた母が、人形のように床に転がる。体を縮こまらせた母は真っ黒に焼けていて、肉の焦げた嫌な臭いが鼻をついた。


 見たくない。

 思わず目を閉じ、顔を背けてしまう。


 そんな私の耳に飛び込んできたのは、甲高い鳥の鳴き声だった。この声は知っている。火あぶりにされかけたクーアを助けたとき、彼女が上げた鳴き声だ。

 周囲の熱風に、果実とも花ともとれる淡い匂いが一瞬混ざる。間違えるはずがない。クーアだけが持つ悪夢の匂いだ。


 つい目を開けてしまった私が見たのは、燃え盛る炎の中で叫ぶクーアだった。


 私の家ではない。手製と思しき質素なベッドが三つに、小さなキッチン。クーアの悪夢を喰らったときに見た、彼女の家だ。親子三人で暮らすには少しばかり手狭なこの場所で、クーアが焼かれている。


 本来ならば彼女の母親が焼かれているはずの悪夢で、クーアが焼かれていた。


 熱風になびく長い髪を、白い肌を、炎が喰らっていく。


 クーアの紅の瞳が、私を捉えた。


「エル、なんで……」


 悲鳴は、意味のある言葉へと変わった。


「なんで、助けて、くれないの」


 その言葉を最後に、クーアは炎に飲み込まれた。

 これは夢だ。充分過ぎるほど知っている。ナイトメアが作り出した悪夢だ。こんな夢は私の記憶の遺産には存在していない。

 しかし、元になっているのは私の中にある本物の母であり、クーアだ。記憶の遺産から作られた悪夢に傷がついたから、私は耐えがたい頭痛を感じている。


 二人の悲鳴が耳の奥に残り、消えてくれない。


 目覚めなければ。今ここで私まで燃えてしまえば、そのまま死んでナイトメアの餌になる。

 がりっと音がするほど勢いよく親指を噛むが、血の味がするばかりで夢から抜け出せない。

 指先に風を発生させて鋭い刃を作ると、私は己の腕を切りつけた。

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