第60話

 普段の朝ならば、猫の悪夢入り紅茶でゆったりとした時間を過ごす。しかし夢喰屋が忙しいときはそうもいかない。

 キッチンにまだまだ残っている悪夢を喰らう為に、ここ最近はしっかり朝食を作っていた。


 ランプに火をともしたキッチンで、チーズもどきの状態を確認する。

 期限が迫っている人間の悪夢は三つ。それらを目前に並べ、メニューを考える。

 粉チーズにちょうどいい硬いものがひとつに、少しばかり青カビっぽいものが混ざっているものがひとつ。それから白くてもっちりしたよく伸びそうなものがひとつ。どうしたものか。なるべく簡単に作れるメニューがいい。


 そうだ。チーズオムレツにしよう。


 早速ボウルに卵を二つ割り入れ、塩、コショウを入れて混ぜ合わせる。牛乳があればよかったのだが、ないものはどうしようもない。世に様々な魔法はあれども、牛乳を作るなんて便利なものはないのだ。

 熱したフライパンにバターを入れれば、じゅう、という音とともに香ばしさが広がった。溶いた卵を流し入れ、ふつふつと薄く焼き上がってきたタイミングで一番硬いチーズはこまかくすりおろして、それ以外は細かくちぎって、全部入れる。フライパンの柄をとんとん叩いて揺らしながら、玉子でチーズもどきをくるめば完成だ。


 鮮やかな黄色の悪夢オムレツは、皿に載せるとふるふる柔らかそうに揺れた。牛乳がないので硬くなると思ったのだが、たっぷりのチーズもどきが中でとろけて、ちょうどいい具合に仕上がった。


 せっかくバターのいい香りがしていたというのに、それを塗り潰すようにぶちまけた香水のような臭気が溢れる。


「へえ、上手いもんじゃないか」


 私の手からにゅっと顔を出したナイトメアが、悪夢オムレツを様々な方向から見ていた。


「馬はレストランでのマナーも知らないのか。その体臭をどうにかしろ」

「ここがレストランだなんて初めて聞いたよ。……ああ、でもたしかに一流の店かもしれないねえ。あんたというごちそうがある」

「いい加減『ごちそう』以外の呼び方はないのか? スペシャルメニュー、佳肴、いくらでも言葉はあるはずだ。他の言葉が見つかるまで喋らないでくれ」


 片手であおぐようにして風を送れば、ナイトメアはするすると私の中に引っ込んだ。残り香がストレートに臭い。


 たった一品作っただけなのに、酷く体がだるい。高熱を出したときのようだ。

 付け合わせの野菜やパンを用意する気にはなれず、悪夢オムレツだけで食事にする。

 テーブルには着いたものの、食欲が湧かない。

 だるさも、食欲不振も、ナイトメアに憑かれたときの症状だ。


 まあうだうだしていても仕方ないので、悪夢オムレツを口に含む。


 味付けは間違いなくしたはずなのに、少しも美味いと感じられない。人間の悪夢に飽きているせいではない。味が感じられないのだ。とろけたチーズもどきはどろりとしていて、スライムをすすっているんじゃないかというほど気持ち悪い。

 それでもこれが仕事である以上食べなければいけないので、水で無理矢理流し込む。チーズもどきが喉に貼り付くようにしながら滑り落ちる感触が、これまた気持ち悪かった。

 味はせずとも、喰らった悪夢の内容が脳裏をよぎる。


 嘘で塗り潰された汚い不倫。

 理不尽な怒りをぶつけられた鬱憤。

 心が作り出した想像上の怪物に襲われる恐怖。


 そんなものが通り過ぎていく。


 なんとか全て食べ終え、水を飲んで一息ついたとき。


 視界がぐらぐらと揺れた。目を閉じるが治まる気配はなく、頭の中をかき混ぜられるような感覚に目が回る。

 私の中で、ナイトメアが悪夢を喰らっているのだ。私が喰らった悪夢は、どんなものであっても記憶の遺産になる。つまり私の一部だ。それを意識があるままナイトメアに喰らわれると、当然こんな症状が出る。まだ完全に私の記憶の遺産と同化していない悪夢だからこんなもので済んでいるが、しっかり紐づいたものを喰らわれればそのうち意識を失い、目覚めなくなり、最終的には一塊の悪夢になって全て喰らい尽くされる。


「わざわざ食事を用意してくれるなんて、いいところがあるじゃないか。クソガキのくせに気が利くねえ。さすが夢喰屋だ」


 耳元でナイトメアの声がした。美しい人間のそれを真似ているのだろうが、まとわりつくような響きが神経を逆なでる。


「見つけたそばから悪夢を喰らうその意地汚さには感心するよ」

「だったらとびきりの悪夢を食べさせておくれ。あんたも満腹になって、眠いんじゃないのかい? アタシが眠らせてやるから、ゆっくりおやすみよ」

「ナイトメアとは存外やかましいものだな。おかげで寝る気も失せてしまう」

「寝る気なんて必要ないさ。どうせあんたはアタシから逃げられないんだ。他のバクを頼ろうとしないあんたは、弱っていくしかない。あんたがどれだけ憎まれ口をきこうが、眠らせるなんて造作もないよ」


 ナイトメアのくつくつとした嗤い声が不快だ。


 食器を洗ってしまおう。


 ため息をつきながら立ち上がった途端、全身の血の気が退くすうっとした感覚にふらついて、テーブルに両手をついた。ぐらつく視界にちかちかとした光が散らばり、眼球が脈打っているかのような圧迫感がある。


「他のバクを頼れないから、あんたはアタシを自力で引き剝がそうとした。その口の悪さだ。どうせその性格が原因で、群れからつまはじきにされたんだろう? 哀れなものだね」


 耳元で囁くナイトメアの声が、水中で聞いているようにくぐもっていた。

 決して私は、こいつが言うようなはぐれバクではない。今まで他のバクをちゃんと助けてきた。なんならこのイリュリアにいる群れのバクたちからは頼りにされているという自負がある。


「諦めなクソガキ。あんたはアタシの餌になるんだ。生意気な口を利いたのを、夢の中で後悔するんだね」


 心臓をぎゅうっと締め付けられるような痛みに、息が詰まる。

 同時に吐き気がこみ上げ、思わず片手で口元を押さえた。


 今ここで意識を失えば、こいつの望むままに悪夢を見てしまう。


 だが、これ以上体を支えていられない。


 脳みそがとろとろに溶けて揺れているような目眩に引きずられるように、私はずるずるとその場に倒れ込んだ。

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