第58話
夢喰屋をしているからには、もちろんバクに憑いたナイトメアの取り出し方も知っている。夢喰屋を営むバクは、ナイトメアとの遭遇率も高い。バク同士助け合うことで、互いの身の安全を確保するのだ。実際、過去に何度かバクからナイトメアを取り出したことがある。
だがその方法は、他者に憑いたナイトメアに対処する為の方法だ。自分自身の中に巣くったナイトメアに対して有効かどうかというのは、私が持つ記憶の遺産を総動員しても不明である。
それでも他のバクを頼れない以上、やってみるしかない。
さすがに何が起きるか分からないので、場所を店に移す。嘘探知の魔術を張り巡らせているここならば、ナイトメアがなんらかの理由で私を騙そうとしても、すぐに分かる。
家の中に同じ魔術はセットできるが、不測の事態に備えてなるべく魔力は温存しておきたい。既にセットが済んでいる店を利用する方がはるかに効率的だ。
まだ暗い店内で、座り慣れたロッキングチェアに深く腰掛ける。優しい揺れが、心を落ち着かせてくれた。
悪夢を取り出すときと同じ要領で、左手に右手をかざし、くるくると反時計回りに動かす。思い出す夢は、確実にナイトメアの影響があったものだ。ネネリアのものから私のものへと変貌したあの悪夢を、詳細に思い出す。下卑た笑いを浮かべる母の顔がちらついた。
手に糸が絡むような感触。悪夢を掴んだ証拠だ。見えない糸が切れてしまわないよう、慎重に手を動かす。自分の魂を浸食するほどの悪夢を自分で引っ張れば、気持ち悪くもなる。頭の奥に手を突っ込まれてかき混ぜられるような目眩がしたが、構わず続けた。おかげで、艶のある黒煙が手の甲から立ち上る。
まあ、そううまくいくわけがなかったのだが。
私の中から取り出した悪夢には、臙脂色の煙が混ざっていた。厚化粧を溶かしたようなどぎつい香水のような匂いがして、つい息を止めてしまう。
目を凝らせば煙の中に例の悪夢の光景が見え隠れするものの、ゆらゆらと揺らめくそれは臙脂色の煙と絶妙に混ざり合い、明確な境目が見つけられない。それどころか、ナイトメアらしき影が見当たらなかった。本体がいるのはここではないのか。
二色の煙をどんどん出しながら、私の中にある記憶をチェックしていく。
だめだ、本格的に気持ち悪くなってきた。目眩が酷い。視界がちかちかする。
どんなに目を凝らしても、記憶の中身が分からない。
匂いを頼りにしようにも、どぎついナイトメアの匂いのせいで鼻が利かない。
悪夢とナイトメアの煙が同じ色に見えてきた。
ん? 元々どっちがどんな色をしていたんだ?
私の前に漂う煙は、黒ずんだ紫にしか見えない。
というか……私は何をしているんだ?
動かし続けていた右手を止めた直後、猛烈な吐き気がこみ上げた。思わず口元を押さえる。嫌だ。巣を汚したくない。体を丸めてじっとこらえる。
ぬるりとしたものが体内を滑り落ちる感触があった。周囲に漂っていた黒ずんだ紫色の煙が、私の中に吸い込まれていく。通常であれば、夢を体内に戻してもこんな不快な心地などしない。黒ずんだ紫色の煙は私の中から出たものでも、それには異質ななにかが混ざっているらしい。
煙が私の中に吸い込まれるように消えるにつれて、頭に強引にものをねじ込まれるような衝撃とともに記憶が戻ってきた。そうだ。ナイトメアを取り出そうとして、自分で自分の記憶を調べていたんだ。
深く息を繰り返して、吐き気が治まるのを待つ。呼吸の感覚が長くなり、吐き気が消えていく。縮こまっていた体をゆっくり伸ばし、椅子に体を預ける。目を閉じて大きく息をつくと、頭の中が液体になったようなぐらぐらとした目眩がようやく治まってきた。
この方法はいけない。取り出せば取り出しただけ、私の意識までもっていかれる。今こうして引き返せたのは幸いだ。精神崩壊を避けられた。あのまま取り出し続けていたらと思うとぞっとする。
ただ、この方法を試したことで収穫はあった。
ナイトメアに憑かれると感覚が鈍る。夢とナイトメアの区別が全くつかなかった。他のバクに憑いたナイトメアを取り除くときに、こんな事態に陥ったことはない。入念にチェックすれば必ずナイトメアは判別できた。
他の方法を考えなければいけない。なにか、自分の中身を引っ張り出さずともナイトメアを見つけられる方法を。
私のもとしか帰る場所のないクーアの為にも、解決策を見つけて助からなければ。
それにしても疲れた。意識が眠りに落ちそうになる。だが今寝たらナイトメアのせいで悪夢を見る。私の魂に巣くったナイトメアは、記憶の遺産を利用して眠った私の中で悪夢を作り、それを喰らう。
ただし夢主が眠らなければ悪夢が生まれる隙などないから、ナイトメアの餌も不足する。まずは寝ないようにするのが最低限の対抗策だ。
しかし別の危険もある。
眠らなければ、私は心身ともに弱っていく。そうなればいずれナイトメアに魂を喰らわれて死ぬ。
こんなざまでは、とてもではないが店を開けられない。自分の中から取り出した記憶とナイトメアの判別ができないほど感覚が鈍っているのだ。他者の魂から悪夢だけを切り離すという繊細な作業、できるわけがない。無理に店を開ければ、せっかく長い年月をかけて私の家が築いてきた信頼を失ってしまう。ナイトメアをどうにかするまで休業するしかなかった。
ネネリアのせいで私の死期が近いなどという噂が流れていたが、今度は期限の分からない休業だ。本当に死んだと思われかねない。そんな噂がクーアの耳に入らなければいいのだが。
ぼんやりと天井の一角を眺めていたら、視界に臙脂色の煙がもわりと漂ってきた。それが見る間に女の顔の形を成す。にやにやと嗤うその顔は、相変わらずの厚化粧だ。
「残念だったねえクソガキ。そんなんじゃアタシを見つけられないよ」
まとわりつくようなナイトメアの声に、げんなりしてしまう。しつこいのは顔、声、行動のうちどれかひとつにして欲しい。
「ナイトメアは夢主を深い眠りに引きずり込む魔物だったと記憶しているが、違うようだな。そんなにやかましくされてはうたた寝もできない」
「おや、おねむかい? アタシが眠らせてあげようか。あんたがいい子にしてるなら、いい夢を見せてあげるよ」
厚化粧の顔が迫ってくる。唇が重なる直前で、私はその顔を手で払った。人間の女を模したナイトメアの顔が、臙脂色の煙となって散る。
「うぶだこと」
「その化粧が気に入らん」
「口の減らないクソガキだね」
「クソガキ以外の言葉を知らないのか? 化粧と同じで無駄に歳を重ねているようだな」
「そういうあんたは、喧嘩を売っていい相手の選び方を知らないのかい? 滑稽を通り越して哀れで仕方ないよ」
視界がどんどん臙脂色の煙で覆われていく。嗅覚を全て奪うような強い匂いに、むせそうになった。
「それにしても、あんたの中は美味そうなものだらけだ。特にあんたの家族。いくらでも食べられそうな夢だよ。アンタも家族の味が恋しいだろう? さあ、夢を見ようじゃないか」
ナイトメアの常套手段だ。悪夢を餌とするナイトメアは、こうして夢主の意識を悪夢に向けさせる。不自然に強くなる眠気は、ナイトメアが私を眠らせようとしているからだ。このまま私が眠れば、ナイトメアがお望みの悪夢が生まれる。
お目当ての夢を手に入れる為に夢主の意識を操作するのは、バクも同じだ。客から悪夢を取り出す際にやっている。ただ、悪夢を増長させたり夢の形を歪ませたりはしない。たしかに悪夢からの学びは多いが、不自然なものを作り出してまで喰らう必要がないのだ。悪夢のみを主食とするナイトメアとは違う。
「ばあさんも母さんも父さんも、甘くて美味かっただろう?」
ナイトメアの言葉に誘導されてはいけない。
そうは思うのだが、触れられたくない部分を土足で踏み荒らされて耐えられるわけがない。
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