第57話

 鋭い痛みに飛び起きる。心臓が強く脈打っていた。寝汗でべとついて気持ち悪い。痛む親指を人差し指で触れば、ぬるりとした感触があった。噛み千切らんばかりに噛んだのだから、出血していて当然だ。この程度の怪我で目覚められたのだから、よしとする。ここまでしても目覚められない場合だってあるのだ。


 暗い部屋にいたのではまた眠ってしまいそうで、そばのランプに魔法で火を灯す。温かな光のおかげで、親指の傷の深さが鮮明になる。血が手を伝い、パジャマの袖を染めていた。


 だが今は傷に構っている場合ではない。とにかく今は、この悪夢を取り出してしまいたい。実際の両親とは違う明らかに歪んだ部分だけを取り出し、二度と私のもとに悪夢として戻らぬように、焼き払ってしまいたかった。

 いくら両親に関するものとはいえ、こんな歪んだ悪夢を抱え込めるほど私は強くない。

 悪夢を取り出そうと、左手に右手をかざす。撫でるようにくるくると反時計回りに手を動かせば、左手の甲からもうもうと煙が上ってくる。かなりの量だ。たった今見た悪夢にしては量が多過ぎる。


 その煙を見ていて、私は悪夢の原因を知った。


 通常悪夢は、黒い煙となって出てくる。

 だが今出ている大量の煙は、臙脂色だ。どろりとした液体のようにも見える臙脂色の煙は、私が手を止めてもまだ出てくる。女の化粧を思わせる香水のような匂いがむわっと鼻をついた。そのへんに一瓶ぶちまけたんじゃないかというほどきつい。くらくらと目眩がした。


 ナイトメアだ。


 なぜネネリアが私を頼るほどの濃厚な悪夢を抱えたのか、ようやく分かった。彼女はナイトメアに憑かれていたのだ。


 心の隙を突き、醜悪な悪夢を作り出して貪る魔物ナイトメア。こいつは隠れるのが上手い。こうして正体を現すと臭くてたまったものではないが、隠れているときは無味無臭だ。あらかじめナイトメアに憑かれている悪夢だと知らなければ、まず間違いなく喰らってしまう。ネネリアの悪夢に巣くっていたナイトメアは、夢喰いによってまんまと私の中に入り込んだというわけだ。


 厄介な魔物に憑かれた。


 ナイトメアは特別強い力を持つ魔物ではない。むしろ弱い。本体さえ現れてくれたら、子供のバクでも退治できるほどだ。


 そう、本体さえ現れてくれたら。

 ナイトメアの本体は夢の中だ。今こうしてもうもうと立ち上っている煙にどれだけ攻撃しても倒せない。


 通常ならば、ナイトメアは夢喰屋で取り出してもらえる。ナイトメアが憑いていると分かっているのならば、その悪夢を引っ張り出し、ナイトメアが逃げる前に丸ごと焼いてしまえばいい。


 だがナイトメアがバクに憑いた場合は、他のどんな種族よりも面倒な事態になる。 


 魂深くに巣くって、簡単には取り出せなくなるのだ。バクの魂は夢に近いという特性のせいである。


 いくら魂についた傷は多少ならば癒えるといえども、魂を丸焼きにして無事な者などいない。傷跡が残るといった程度の損傷とはわけが違う。だからいったいどこにナイトメアが潜んでいるのか、夢喰屋で全ての記憶をさらけ出して探してもらう必要がある。


 バクに憑いたナイトメアを見つけても、すぐには焼けない。慎重にナイトメアを切り離してから焼き殺すのだ。うっかりなんてした日には、ナイトメアに憑かれていたバクまで殺してしまう。


 ナイトメアからすれば、魂まで食べられるバクはごちそうだ。悪夢を作り出して食べ続け、バクが抵抗できないほど弱るのを待ち、その魂を喰らう。


 バクにとってはまさに天敵だ。


 私の手から溢れ出した臙脂色の煙が集まり、人の形を成す。


 ゆるく波打つ長い黒髪に、陶器のように白い肌。毒々しいほど赤い唇。ボディラインを強調するようなドレスは胸元が大きく開き、下半身には大胆すぎるスリットが入っていた。ナイトメアはなかなか本体を現わさない代わりに、こうしてつまらない虚像を作る。雌雄に基づいた姿をとるから、このナイトメアはメスだ。


 とびきり面倒な女の登場だ。こいつと比べたら、私を脅してきたネネリアの方がまだましである。


 ナイトメアが、真っ赤な唇を歪ませて嗤う。


「ばあちゃんは美味かったか、エル?」


 父の声を真似たその一言に、ついかっとなった。反射的に風の刃を飛ばすが、それは煙でできたナイトメアの体をすり抜けてしまう。行き場を失った風は壁にぶつかり、壁紙を大きく引き裂いた。

 こいつを攻撃しても何の意味もない。分かっているのに、我慢できなかった。


「綺麗な顔してるのに、乱暴なのね。もっと優しくして?」


 ナイトメアの声は、その見た目のようにべとついた艶をはらんでいた。まるで耳の奥にこびりつくようだ。

 ああ、こんな感じの女を表現するのにぴったりの言葉がある。


「うるさい若作り」


 ナイトメアの顔が引きつった。


「……坊や、今なんて言ったんだい?」

「なんだ、聞こえなかったのか。随分耳が遠いようだな。思っていた以上に年寄りだったか」

「誰が年寄りだい! ちょっと若くて顔がいいからって調子に乗るんじゃないよ!」

「どうせ本体は馬のくせに、見栄を張った像を作るからだ。過剰な厚化粧は若作りの証拠だよ。何歳だ? 二百か? 二百五十か?」

「うるさい小僧だね! 四百八歳だよ!」


 興奮しているわりに、質問には律儀に答えるナイトメアだ。


「なんだいその口の悪さは! 親の顔が見てみたいもんだね!」

「私の親なら、さっき夢の中で見ただろうに。もう忘れるとは、痴呆の気もあるのか。どうしようもないな。残念ながらきみの介護をする気はないよ。よそへ行ってくれ」

「このクソガキ……!」


 ナイトメアがわなわなと震える。ただ見た目だけを取り繕う像かと思っていたが、なかなか芸の細かい動きをするものだ。よく出来た操り人形を見ている気分でナイトメアを眺める。

 なかなかにお怒りのようだが、怒りたいのは私も同じだ。


「大人のバクを捕まえておいて『クソガキ』とはなんだ。ナイトメアは言葉の使い方も知らないのか。見た目だけ人間らしくしても意味がないぞ。もう少し話術も磨いた方がいい」

「せいぜい人間と同じ程度の寿命しかないバクなんか、アタシからしたら全員ガキみたいなもんだよ!」

「そうわめかないでくれないか。鼓膜が破れる」

「破れちまえ!」


 厚化粧が崩れんばかりに顔を歪めたナイトメアが、地団駄を踏むような仕草をする。


 私の記憶に間違いがなければ、ナイトメアは夢主を深い眠りに誘い、悪夢を作り、増長させ、それを喰らう魔物のはずだ。こんなに騒がしくしては眠らせるどころではなかろうに。

 現に、やかましいナイトメアのおかげで私の眠気はどこかへ吹き飛んでいた。バクは静寂を好む。こんなやつとはやっていけない。

 魂に巣くわれたのとは別の意味で面倒だ。


「その呆れたような顔をおやめ!」

「だったら年相応におとなしくしてくれないか」


 私は素直だから、感情が顔に出てしまったようだ。まあ、出てしまったものは仕方ない。引っ込めようがないのだから、そのままナイトメアを眺める。


「このクソガキが! 人をおちょくるのもいい加減にしないと痛い目見るんだからね!」

「人じゃなく馬だろう。嘘はよくないぞ」

「なんなんだいあんた! どうやって育ったらそんなふざけた性格に育つんだい! 今まであんたみたいなバク見たことないよ!」

「ふざけてるのはそっちだろう。私は真面目に相手をしている。不満ならばさっさと別の夢主を探してくれ。そっちの方がお互いの為だよ」


 ぎぎぎと歯を食いしばっていたナイトメアが、びしりと私を指した。初対面の相手にしていい行動ではない。私より随分年上なのに、マナーが最低だ。さすが馬。


「決めた! 魂が完熟するまで待ってやろうと思ったけど、あんたは今すぐひとかけらも残さず喰らってやる!」

「黙れ弱者。私が衰弱するまで魂には手が出せないくせに。嘘はよくないぞ。厚化粧の顔に恥まで上塗りする気か」

「口の減らないガキだねえ!」


 ナイトメアが肩で息をする。実体でなくとも、呼吸が必要らしい。


「強がっていられるのも今のうちだよ、クソガキ。あんたは絶対に喰らってやるからね」


 ふんと鼻を鳴らすと、厚化粧のナイトメアは再び臙脂色の煙になった。私の意思など無視して、体内へと入ってくる。私が衰弱するまで待つつもりらしい。


 私が初めてナイトメアに憑かれたのは、まだ小さな頃だ。悪夢に体を慣らす為にと父が食べさせてくれた客のものに、ナイトメアが混ざっていた。あのときは夜中になって症状が出た私に気づいて父が助けてくれたが、その父はもういない。他の夢喰屋を頼るしかない。


 だが、どうしてもそれができない理由があった。


 夢喰屋で記憶を確認されてしまえば、私が公開処刑になりかけたクーアを助けたとばれる。「羽なしセイレーン」の噂は下火になってきたとはいえ、絶対に口外できない秘密だ。


 もちろんどの夢喰屋も他者のプライバシーにかかわる情報をべらべら言いふらしたりしないが、それが犯罪に関係するものとなると話は変わってくる。


 報告義務があるのだ。

 それを怠れば営業停止どころか、牢屋に入れられて広場で公開処刑となる。


 クーア自体は何の罪も犯していないが、私は処刑場からクーアを連れ去り、彼女を匿った。残念ながら、人間が作った法律上では立派な犯罪なのだ。納得がいかないが、世の中はそうできている。

 そんなわけで他の夢喰屋を頼れない以上、自分でなんとかするしかない。


 さて、どうしたものか。


 ようやく静かになった寝室で、私は小さくため息をついた。

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