第56話

 とっくに亡くなったはずの母が私の胸ぐらを掴んで、にやにやと下卑た笑いを浮かべている。


 やめろ。私の母はそんな顔をしない。


 それまで匂いのなかった空間に、苦味のある粉っぽい薬に似た匂いが広がる。バクの悪夢が放つものだ。


 後ろから抱きつかれた感触があり、肩が重くなる。誰かが私の右肩に顔を載せている。そんな感触だ。


「ばあちゃんをあっという間に喰らうなんて。エルは食いしん坊だなあ」


 耳元で囁く、少しくすぐったい柔らかな声。視線だけを動かしてみれば、褐色の肌と銀縁眼鏡がちらりと見えた。これらの特徴に合致するのは、亡くなった父しかいない。


「ばあちゃん、美味かったか?」


 懐かしい父の声。それなのに、父が言うはずのない言葉。


 バクは死ぬと一塊の夢になる。たしかに私は亡くなった祖母を喰らったが、食事として愉しんだわけではない。バクの本能に従ったまでだ。記憶の遺産を引き継ぐ為にバクがする、ごく普通の行為でしかない。

 私の場合は少し特殊な状況ではあったが、その行動自体は非難されるものではない。


 私は、なに悪いことをしていない。


「おばあちゃんを食べたとき、悲しくなかったの?」


 にたにたと笑いながら、眼前の母が問うてくる。


 祖母と、両親と、私。穏やかだったはずの暮らしが一変して、真っ先に亡くなったのは祖母だ。亡くなった祖母を、私はひとりぼっちで喰らった。脈々と続く我が家の記憶の遺産を受け継ぐ必要性は子供の私でも分かっていたから、言われるままに祖母を喰らったのだ。


「ばあちゃんを喰らっても、涙ひとつ見せなかったなあ。あんなに可愛がってもらったのに、薄情な子だ」


 嫌味ったらしい父の声が耳障りだ。そんな喋り方、生前の父は一度だってしなかった。温厚で少し抜けたところがある父は、いつだって優しかった。


「おばあちゃんの次は、お母さんたちを食べたかったのよね」

「ばあちゃんが美味くて美味くて、我慢できなくなってな」


 一塊の夢になったバクを美味いと感じたことなどない。美味いとか不味いとか、そういうものとは無縁のものだ。決して食材を見るような目を向けてはいない。我慢できないほど食欲をそそられたことなど、一度たりとてない。


「だからエルは、お母さんたちを見殺しにした」

「違う! 私は見殺しになどしていない!」


 思わず声が出た。間違いなく私の声だ。

 もうこの夢は、ネネリアの悪夢ではない。完全に私の悪夢だ。


「お母さんたちが早く死ねばいいと思ってたんでしょう? だって死んでくれたら、食べられるもの」

「父さんたちがいつ死ぬか待っていたんだよな。死んでくれたら、またバクを喰えるから」


 私を嗤う両親。


 違う。


 こんなのは私の知っている両親ではない。こんな性格ではなかった。


 分かっているのに、その声に心をかき乱される。


 皆が死んだのは、私のせいではないのに。


 両親が早く死んで欲しいなどと、思うわけがないのに。


 自分の家族を食欲を満たす為の餌として見られるほど、私は非情で貪欲な感性を持ち合わせていない。

 どのバクだって同じはずだ。もしも死んだバクを美味いと感じて食欲を刺激されるやつがいたら、狂ってる。


 立て続けに家族を失って広い家にひとり取り残されたとき、私が感じたものは虚しさだ。祖母たちの記憶の遺産は私とともにあると分かっていても、温かな暮らしが戻ってくるわけがない。がらんとした家でひとりの生活に慣れるまで、幾晩も孤独を味わった。祖母たちに会いたくて、一日中眠り続けたことだってあった。

 バクは死ぬと一塊の夢になるという事実が示しているように、その魂は生きていても非常に夢に近いという特性を持っている。ときには生きたまま体ごと夢に溶け込んでしまうほどだ。ゆえにバクが見る夢は現実と同義である。


 ただひとつ違うのは、現実のように新たな時間を刻まないということ。何度も同じ夢を見て、同じ最後を迎える。


 それでもひとりぼっちになった私は、眠りが誘う世界に夢中になった。


 家のあちこちに残る祖母たちが生きていた痕跡をようやく片付けられるようになったのは、声変わりを迎えて夢喰屋の仕事にも慣れた頃だ。


「本当のことを言いなさい、エル」

「父さんたちは美味かったんだよな、エル?」

「違う!」


 私を後ろから抱いていた父の腕を振り払い、ずっと胸ぐらを掴んでいた母を突き飛ばして逃げる。両親の肉体はそのたしかな感触で、私が夢主であるという事実を突きつけてきた。


 この両親は、悪夢が作り出したただの偽物ではない。私の深層にある両親という記憶が悪夢になるからには、間違いなく私の魂を悪夢が浸食している。

 客が根こそぎ喰らって欲しいと言うレベルの悪夢だ。


 このままでは魂が悪夢に飲み込まれ、死んでしまう。起きなければ。


「エルは、どんなご飯よりもお母さんが美味しかったのよね」

「まだまだ喰らい足りないという顔をしているぞ」


 両親が私に迫ってくる。もう私自身を夢主とする悪夢に変貌してしまったのだから、目の前の両親を魔法でどうにかするのは簡単だ。


 簡単だが、できなかった。


 むやみに攻撃しては、両親にまつわる記憶が壊れてしまう。

 いや、両親との記憶が壊れるだけならまだいい。

 バクの夢は、他の種族では絶対にない特殊なものだ。死した者を喰らって受け継ぐ記憶の遺産も、夢喰屋として喰らった悪夢も、全てが繋がっている。


 夢喰屋として喰らった悪夢で消化不良を起こしてもホットミルクでどうにかなるのは、まだその夢が自身の記憶の遺産として完全に定着していないからだ。

 既に記憶の遺産と結びついてしまっている悪夢を消そうとするのは、非常に困難である。客の魂に傷をつけないように悪夢を取り出すのとはわけが違う。


 まず、記憶の遺産と不要な悪夢の境目を完全に見極めなければいけない。


 そして細心の注意を払って、都合の悪い悪夢だけを魔法で焼いてしまう。


 焼いてしまうからには当然痛みがつきものだが、その代わり跡形も残らず消滅する。だがそれは、少しでも正常な記憶の遺産を焼いてしまえば、それをきっかけにして全てを失ってしまう危険をはらんでいた。


 記憶の遺産を全て失えば、私はからっぽになる。自我まで失うから、まともな生活は送れない。

 奇跡が起きて自我を保てたとしよう。今までどおり悪夢を根こそぎ喰らう夢喰屋としては仕事ができない。私の先祖たちが積み上げてきた経験があるからこそ、特定の悪夢だけを選び抜いて全て喰らうという高度な技が可能なのだ。


 私自身を守る為には、私をじりじりと壁際に追い詰める両親たちを安易に消し去るわけにはいかなかった。


 まずはこの両親に手を出さずに目覚める必要がある。

 覚悟を決めると、私は思い切り自分の親指に噛みついた。

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