八章 餌

第55話

 ベッドに横たわった男が、手を伸ばしてくる。ぼさぼさの白い髪に、血のように赤い瞳。土気色の手は、骨と皮という表現がしっくりきた。


 ネネリアの悪夢だ。


 取り出した悪夢と同じで、特に匂いは漂っていない。


 ここ一週間ほど、ネネリアの悪夢を調味料として様々な料理に使っていた。そのおかげで、眠りの中で彼女の悪夢を追体験している。同じ悪夢を大量に食べたりするとまれにある現象だ。俗に消化不良という。


 自分の両手を持ち上げてみる。見えたのは、折れそうなほど細い青白い手。今夜も私はネネリア役だ。


 病床の男――レオンは、もう暫く狩りに出ていない。そんな体力は残っていないのだ。


 ネネリア役の私の体は、今日も勝手に動く。レオンがこちらに伸ばしていた手を押し戻し、ベッドにおとなしく寝かしつけて、自分は粗末なキッチンへ。


 そこで作るのは、ネネリアが摘んできた野草が浮いたスープだ。


 草食のバンシーならば木の実や野草だけで生きていけるが、人間はそういうわけもいかない。レオンに与えるには栄養が足りなさすぎる。

 しかし、狩りもできなければ人里で食料を調達できるわけでもないネネリアには、これしか作れない。


 お湯にちょっと味がついた程度の野草スープを、レオンに持っていく。スプーンで口元に運べば、かろうじて口にはしてくれる。それも少量でしかないのだが。


 皮がめくれたかさかさの唇を、多少湿らせる程度。


 それくらいしか、レオンは口にしてくれない。


 バンシーが死する者の為に食事を作り、延命を願うなど。通常ではありえない。己の本能に明確に逆らう行為に、ネネリアの心は軋んでいた。


 小さな小屋の中。死にかけの人間と、本能に抗うバンシーが二人きり。何度追体験しても奇妙な光景である。


「ネネリア、頼む。もう殺してくれ」


 レオンの言葉に、ネネリアが首をゆっくり横に振った。ネネリアは、言葉で返事をしない。今このとき声を発するとすれば、それは本能のままに上げる凄まじい鳴き声だ。ネネリアが泣けば、レオンの魂をその体から引きずり出してしまう。


 レオンが死んでしまう。


 ゆえにネネリアは、口を堅く結んでいた。

 だが理性で押さえ続けるのにも限界がある。出会ったばかりの頃は多少会話ができる余裕があった分、沈黙を保ち続けるしかないこの状況は余計に苦痛だった。息をするのでさえ緊張してしまう。気を抜けば喉の奥から声が溢れそうだった。


「ネネリア、俺を殺してくれないのか? 人を殺す為の魔物のくせに」


 死を渇望するレオンの目は、ぎらついている。

 レオンが口にする「殺す」という直接的な言葉に、ネネリアの心は痛んだ。たしかにバンシーは、死期が近い者のそばに現れ、最期には魂を引きずり出す為に泣く。

 だがそれは、殺すのとは違う。死にゆく者を迎えに来ただけで、危害を加えて命を奪う気などないのだ。

 ネネリアも分かっている。レオンは助からない。その魂を引きずり出すことこそが、バンシーとしては正しい。魂を冥府へ導くとき、彼女の心は歓喜で震える。

 それなのに、レオンに一分一秒でも生きていて欲しいというありえない気持ちが邪魔をする。レオンが名前を呼んでくれるのが嬉しい。この時間が続けと願ってしまう。そんな願い、レオンの苦しみを長引かせるだけなのに。


 レオンが思い切り腕を振り上げた。ネネリアが持っていたスープボウルが弾き飛ばされ、薄いスープがぶちまけられる。飛び散ったスープはネネリアの白いワンピースに染みを作った。

 それでも足りないというように、レオンがネネリアの胸ぐらを掴む。やつれたレオンの顔が迫る。肉が腐る臭いが鼻をついた。目前に迫ったレオンの顔が、半分腐って崩れている。


「殺せよネネリア。できるだろ。それとも、俺が苦しむのを見て楽しいか? おまえは人間に嫌われてるもんな。俺を生かすのは、仕返しのつもりか? 言ってみろよ、『人間が憎い』って。『もっと苦しめばいい』って」


 レオンの言葉は、ネネリアの心を的確に抉る。ずきりと胸が痛み、息が詰まった。


 人間とバンシーは、決して結ばれない。お互いが出会うのは、人間が死ぬからだ。レオンがネネリアに優しかったのも、病の苦しみから解放されたかっただけだ。分かっているのに、他の者にしているように魂を引きずり出すのが怖い。自分の欲に任せてレオンの死すべき時を奪ってしまった今、彼を失うのが怖い。


 腐り始めた死の気配が充満する小屋で、ネネリアは孤独だった。


 そのとき。


「なあ、喰らえよ。バクなんだろ? 喰らいたくて仕方ないくせに」


 レオンの言葉に、私は耳を疑った。

 もちろん私は彼と面識はない。しかもこれはネネリアの悪夢であり、私はネネリア役だ。それなのに、なぜこの男は私をバクと呼ぶのか。

 ネネリアとしての意識が吹っ飛んだ私の目前で、半分腐ったレオンがにたりと笑った。その姿がぐにゃりと歪む。


 次の瞬間そこに姿を現したのは、


「お母さんを食べたくて仕方ないんでしょう、エル?」


 艶のある青く長い髪。私と同じ褐色の肌に、金の瞳。


 私の母が、そこにいた。

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