第54話
「目を見せろ」
ネネリアの悪夢の内容に興味はない。どうせどんな夢も、喰らってしまえば内容が明らかになる。それより重要なのは、根こそぎ喰らって欲しいというその悪夢の危険度だ。目を見れば、悪夢と魂の状態が分かる。
ネネリアが乱れまくりの長い髪をかき分け、青白い顔を晒す。背の小さな彼女の目を見るべく、その顎に手をかけ、上を向かせた。少し屈んで瞳の奥を覗く。
黒曜石のような色合いの瞳の奥に見えたのは、魂にねっとりと絡みついている悪夢だ。魂に傷こそ入っていないが、少し濁っている。悪夢の浸食が進んでいた。このまま放っておけば、いずれネネリアは悪夢に飲み込まれて精神が崩壊する。
「夢は記憶と結びついている。きみが手放したい悪夢を全て私が喰らえば、きみはその悪夢に紐づいた記憶も全て失う。もちろんそれだけ根深い悪夢を取り出せば、魂に傷をつけるという危険がある。そして危険なのは、きみだけではない。その悪夢を喰らう私も、最悪の場合悪夢に引きずられて死ぬ可能性がある」
ネネリアの顎から手を離し、長い髪越しに彼女の首元に触れる。
「きみと私の安全を確保する対価として、ここまでの長さの髪をもらう。それに納得できるか?」
「で、きま……す」
ネネリアがこくりと頷いた。
「念の為確認させてもらうが、その悪夢は犯罪に関係するものではないな?」
「はい……」
店の中に巡らせた嘘探知の魔術は、反応しない。
交渉成立だ。
「いいだろう。うちは先払いだ。そのまま動くな」
言うと、私はネネリアの背後に回り、その髪を束ねて片手で握った。酷く乱れているからごわついているのかと思ったが、ネネリアの髪はふんわりとした柔らかさがある。綺麗な髪だった。
風の魔法を指先で凝縮し、刃のように鋭くして髪を一気に切る。柔らかな黒髪はあっけなく切れた。切り落とした長い髪を、近くの棚に置く。不思議なもので、触ったときはあんなに綺麗な髪だったのに、棚に置くとまるで意思を持っているかのようにごわごわとした大きな毛玉になった。
ここまでの経緯は若干頭痛を覚えるようなものだが、もらうものをもらったからにはきっちり仕事をする。
「こちらへどうぞ、お客様。あなたの悪夢、全て喰らいましょう」
他の客にするのと同様に、ロッキングチェアをネネリアに勧めた。
ゆっくり歩み寄ってきたネネリアが、おそるおそるといった様子でロッキングチェアに腰を下ろす。椅子は華奢なネネリアを受け止めると、彼女を落ち着かせるようにゆらゆらと揺れた。
最初こそ身を縮こまらせていたネネリアだが、やがてその体から力が抜け、背中をしっかりと椅子に預ける。
ネネリアのそばに立ち、声をかけた。
「目を閉じて。喰らって欲しい悪夢を、思い出して。ゆっくり、ひとつずつ、明確に」
根こそぎ喰らって欲しい悪夢を持つのだから、悪夢に意識を向けるのは当然普通の客とは比べ物にならない精神的苦痛となる。ネネリアの表情がわずかに険しくなった。辛いだろうが、そのかわり悪夢で苦しむのはこれきりだ。
ネネリアの胸元へ右手をかざし、撫でるようにくるくると反時計回りに手を動かせば、ねっとりとした墨のような黒い煙が立ち上ってきた。その煙が全て出てくるまで、手を動かし続ける。
煙が出尽くしてもやもやと雲のように溜まったのを確認して、手を止めた。凝縮する悪夢を受け止めようと、掌を差し出す。
バンシーの悪夢は、薄桃色をしたひとかけらの石のようなものになった。匂いはない。軽く舐めてみると、舌先に強い塩気を感じる。まるで岩塩だ。
悪夢を根こそぎ取り出されたネネリアは、暫く放心していた。うちは夢屋ではないから、空っぽになった場所に詰める新しい夢は扱っていない。もしも詰め込む為の夢があれば、もう少し目覚めも早くなるのだが。
岩塩もどきを棚に置き、腕組みをして待つ。
はっとしたように飛び起きたネネリアが、私を見た。
「きみの要望どおり、悪夢を全て取り出した。もう何も思い出しはしない」
「あ……ありが、とう」
ネネリアが、不健康そうな顔にうっすら笑みを浮かべた。
***
その日の晩、私はネネリアの悪夢を削ってサラダにかけた。一緒にコショウとオリーブオイル、ビネガーをかけて、美味しくいただく。
主食はもちろんチーズもどきを消費しなければいけないから、チーズもどきとトマト、それにバジルを包んで悪夢パイを作った。トマトの爽やかな酸味は、チーズもどきとの相性もいい。
悪夢を喰らえば、その内容がふわりと頭の中に浮かぶ。人間たちの悪夢と混ざり合ってはいたが、ネネリアの悪夢も例外ではない。
ネネリアの悪夢は、とある若い男に関するものだった。
男の名前は、レオン。山中の小屋にひとりで暮らす人間の猟師だ。人間にしては珍しい白い髪と赤い瞳が特徴的なレオンは、先天性の病が原因で死期が近かった。病のせいで、猟師のわりに体つきはあまりよくない。
そんな彼は、小屋のそばに現れたネネリアという存在をすぐに見つけた。死期の近い者がバンシーに気づくのは、さほど珍しいことではない。ネネリアも過去に経験があるので大して驚きはしなかった。
レオンの存在をネネリアに強く刻みつけたのは、彼の言葉だ。
ネネリアを見つけても動じなかったレオンは、なんと彼女に「ありがとう」と言ったのだ。
レオンの病は、どんな医術も魔法も通用しない。他者に感染するものではないものの、病のせいでレオンの家系は誰もが短命であり、人間たちの中では珍しい見た目もあって、山の麓にある村の人々からは気味悪がられていた。そんな理不尽も、未婚であるレオンの代で終わりだが。
病状が進行して思うように狩りができなくなっていたレオンは、ネネリアを「安らかに眠らせてくれる天使」と称した。
人間から疎まれてばかりだったネネリアは、優しい言葉への耐性が全くといっていいほどない。
自分を受け入れ、優しくしてくれたレオンに、ネネリアは強い興味を抱き――恋情に流されるまま、ネネリアはレオンとの距離を縮めてしまったのだ。
ネネリアは、レオンの魂を冥府へと導かなくてはならない。それが冥府で生まれた魔物、バンシーの役目だ。
もちろん今まで幾人もの魂を導いてきたネネリアは、己の役目を頭では理解していた。
だが初めて恋をした相手が死ぬという現実を、ネネリアは受け入れられなかった。
己の役目と本心の板挟みに耐え切れなくなり、やがてネネリアは悪夢を見るようになった。
山中の小さな小屋で、ベッドに横たわるレオン。彼が見る間に衰弱し、冥府に導こうとしないネネリアに殺してくれと願い、恨み言をぶつけ続け、こと切れ、腐り果てる。
そんな悪夢を、ネネリアは繰り返し見ていた。
だがもう彼女はこの夢を見ない。それどころか、レオンに抱いていた気持ちすら思い出さない。
実際のレオンの生死など私は知らない。しかし特に気にもならない。たとえまだ生きていたとしても、今度こそネネリアが彼を冥府へと導く。それだけだ。
私を脅した件はさておき、バンシーは本来優しい魔物だ。どんな孤独な者の為にも泣き、魂が迷わぬようにと道案内をする。ネネリアも自身の命が尽きる日まで、ひたすら魂を救い続ける。死に寄り添い、魂を導く。それがバンシーという種族の本能であり、喜びでもある。
人間は永遠には生きられない。ネネリアがどう思おうと、レオンは死ぬ。ネネリアによって救われるか、孤独に終わるのか。そんな違いがある程度だ。死とともに歩む魔物であるからには、ネネリアがそれを知らないわけがない。
それなのに、なぜここまで濃厚な悪夢になってしまったのか。
残念ながら、私が持つ記憶の遺産にはバンシーの心持を知る役に立つものなどない。私にとってこのネネリアの悪夢は、ただの珍しい悪夢だった。
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