第52話

 マルセルと妻のオリヴィアが二人で営んでいる金の小鹿亭は、大きな店ではない。食事が美味いこの店は、いつ行ってもなじみの客で賑わっている。入店すると見知った顔と軽い挨拶をするのが常だ。


 しかし。


 今夜は私が入店した途端、店内が水を打ったようになった。店内にいた全員がこちらを見ている。先日市場でも妙な顔をされたが、いったい私がなにをしたというのだ。あまりの光景に、つい足を止めてしまう。


「エルクラートさん! ご無事だったんですね!」


 店内の時間を動かしたのは、奥のカウンターにいるマルセルのそんな声だった。その声ではっとしたように、客たちがぎこちない笑みを浮かべて挨拶をしてくれる。


 再び店内を満たす談笑。それでもなおちらちらと見てくる妙な視線を感じながら、私はいつものカウンター席へと向かった。


 非常に居心地が悪い。


 マルセルに勧められた椅子に腰を下ろしても、それは消えなかった。

 カウンターに乗っていた大きな茶トラの老猫まで、目を丸くして私を見ている。頭をぽんぽん撫でると、老猫はようやく私を見るのをやめてくれた。興味を失ったというようにカウンターの端に向かい、だらりと伸びる。


 そんな老猫からマルセルへと視線を移せば、彼は苦笑いと安堵が混ざったそれは複雑な色を浮かべていた。


「ひとつ訊きたいのだが」


 声をかければ、マルセルのころんと丸いフォルムの肩がかすかにびくつく。


「なんでしょう?」

「私がなにか罪を犯したという噂でも流れているのか?」

「とんでもない」


 マルセルが大袈裟に首を横に振る。

 だったらこの居心地の悪さは、何が原因なのだ。いよいよ分からない。視線を感じて後ろを振り向けば、数人の客が気まずそうに顔を背けた。見てはいけないものを見たというような、そんな雰囲気を感じる。


「それよりエルクラートさん、お体の調子はどうですか?」


 マルセルの声に、私は店内の様子を探るのをやめた。


「特段何もない。いつもどおりだよ」

「それはよかった。あ、オニオンスープですよね。ちょっと待っててください」


 この店で私が最初に注文するものは、いつも同じだ。それを覚えていてくれるマルセルが、カウンターの奥に作られた厨房へと引っ込んだ。妙に慌てているが、どうしたのだろう。


 オニオンスープを待ちながら、液体になりそうなほどだらけている老猫を眺める。

 魚のメニューを注文すると食いついてくる老猫だ。私は今まで一口たりとも与えたことはないが、丸々としているからには毎日幾人かの客からおこぼれを貰っているとみえる。


 そんな老猫は、私への興味など毛ほどもないようだ。体はだらんと伸びているくせに視線だけはしっかりと店内に向いていて、耳をぴくぴくさせながら獲物を探している。


 そういえば、店に来た衛兵も妙なことを口にしていたなと思い出す。たしか、「生きていたか」とかなんとか。無礼すぎる物言いとしていまだに覚えていたが、金の小鹿亭に来てみるとあらためて異様さが際立つ。マルセルも私の体を心配していたようだが、病気にでも罹ったと噂が流れているのだろうか。市場でやけに視線を感じたのも、そのせいだとしたら。


 いや、それはないか。流行り病が蔓延したなどという話は暫く耳にしていない。万が一そんな話が出れば、今頃なにかしらの対策がなされている。どこが病原かという調査もされるから、私が発端だと噂されているならとっくに店を調べられている。そんなものもなく、領主が客として来たからには、私が奇病に罹ったという噂ではないはずだ。


「……さん、エルクラートさん。エルクラートさんってば」

「ん? ああ、すまない」


 いつの間にか戻ってきていたマルセルに、意識を呼び戻される。

 私の前に置かれたスープボウルからは湯気とともに、たまねぎとチキンスープが混ざり合ったほのかに甘い匂いが漂っていた。


 この店でオニオンスープとしてこれを頼むのは、私くらいしかいない。本来のメニューは、チーズを載せてトーストしたバゲットを浮かべた、オニオングラタンスープだ。私がチーズを抜いてくれないかと頼んだのがきっかけで、こうしてオニオンスープだけで提供してくれる。ありがたい。

 一口すすれば、舌の上でたまねぎがとろけていく。かすかなニンニクの匂いがほどけた後には、爽やかなローリエの風味。何度口にしても飽きない、シンプルだが絶妙な味だ。このスープが証明しているように、金の小鹿亭の料理はなにを頼んでも満足できる。


 そう、いつもなら。


「本当に大丈夫ですか?」


 見るからに心配そうなマルセルを見て、なんだか来てはいけなかった気がしてくる。だが私は健康だ。オニオンスープだってちゃんと味が分かる。


「なにかあるなら、こうして来ていないよ」

「そうですね。そうですよね、ええ。そうだ、今日はなににしますか?」


 言われて、毎日マルセルが書き変えている壁のメニューボードに目をやった。港町なので、やはり魚介類が多い。今日はなにを食べようか。


「今日はいいアマダイが入ってますよ。チーズソテーでどうですか?」

「チーズ……」

「そんなあからさまに嫌そうな顔しないでください。冗談ですよ。ハーブソテーがお勧めです」


 いつものビールを用意してくれながら、マルセルが勧めてくれる。アマダイという言葉に、老猫が動き出す気配がした。


「美味そうだな。それにしようか」

「ありがとうございます」


 黄色と赤が鮮やかなパプリカとトマトのピクルスを酒肴として置き、マルセルは再び厨房へと引っ込んだ。ややあって、フライパンにバターを落とす心地いい音が聞こえてくる。


 老猫が尻を高く上げ、背伸びをする。当たり前のように私の前に来ると、ごろりと寝転がってもふもふの腹を見せてきた。「純真無垢で可愛い猫です」とアピールするかのごとく、大きな目を煌めかせ、喉を鳴らす老猫。

 こうすれば魚にありつけると信じて疑わない顔をしているが、そんなもの私には通じない。そもそも猫にミックスハーブなんて危険過ぎる。世の猫を可愛く思う気持ちは一応私にもあるが、だからといってあれもこれもと与えるつもりはない。


 厨房から響く音に耳を傾けながら、冷えたビールを口にする。ネムノキの為にぐっとこらえて、いけすかない領主の相手をした。それだけでも充分過ぎる仕事だ。喉を流れ落ちる酒は、一日の疲れが吹き飛ぶような心地がした。


 せっかくなので、ごろごろ喉を鳴らしている老猫の腹を揉む。くねくねと体をくねらせ、子猫のような顔をする老猫。魚とはこうも猫を魅了するものなのか。いや、マルセルの料理が美味いからか? それにしても肉づきがいい体だ。揉み甲斐がある。


 マルセルがハーブソテーの載った皿を持ってくると、老猫が「なあう」と大きく鳴いて起き上がった。視線がもう皿に釘付けだ。さっきまでの愛嬌はどうした。魚が欲しいんじゃないのか。絶対にやらんのだが。


「これはきみのではない。こら、手を出すな」

「おやおや、仲がいいですねえ」


 皿に手を伸ばそうとする老猫をがしっと掴んで、引き離す。それでも諦める気はないようで、老猫は前肢を伸ばしてじたばたしていた。

 老猫をカウンターに載せ、片手で制しながらアマダイを口に含む。清涼感があるハーブの香りが鼻に抜けた。バターの塩気が、しっとりとした柔らかな身の品のいい甘味を引き立てている。今日の料理も当たりだ。来てよかった。


「いやあ、でもお顔を見られて安心しましたよ」


 カウンターの中でチーズを削りながら、マルセルはにこにこしている。そんな姿を眺めながらビールを口に含んで、


「エルクラートさんの死期が近いって、ずっと噂になってたんです」


 思わずビールを噴き出しそうになった。理性で抑えつけて強引に飲み込み、激しくむせる。さすがの老猫も逃げ出した。


「誰だ、そんなこと言ってるやつは」

「誰って……町中の噂になってますよ」


 むせる私の前で、マルセルが言葉を続ける。


「夕方になると、エルクラートさんの店の前にバンシーが立ってるって」


 なるほど。だから客が減り続けてついに誰も来なくなったし、花屋のアイラにも奇妙な顔をされたわけか。


 特に人間は、他者の死を予言する魔物のバンシーを嫌っている。とばっちりを避けようと店に近づきたがらなくなって当然だ。バンシーはそのへんの者を無差別に殺すような魔物ではないが、人間は不吉な存在として嫌う。そんなものが連日うろついていたから、衛兵も「生きていたか」と言ったわけだ。


 私からすれば、とんだ営業妨害である。


「幸い死ぬ予定はないよ。安心してくれ」

「だったらいいんですけど。ビールのおかわり、いりますか? いりますよね?」

「もらおうか」


 泣き叫ぶことで対象の魂を引きずり出すというバンシーの声を、私はまだ耳にしていない。すぐに泣き叫ばず毎日訪れてはノックをするからには、なにか理由あるはずだ。

 すぐに思いつくものは、訪問先を間違えている可能性だ。

 私は健康上特に異変はないし、危険な場所に出向く予定もない。酒だって適量を楽しんでいる。ぽっくり逝く懸念材料は全く思いつかなかった。


「エルクラートさんになにかあったら、彼女さんが悲しみますからね。長生きしてくださいよ」


 今度こそ私はビールを噴き出した。マルセルが手早くカウンターの上を片づけてくれる。もちろんマルセルにクーアの話はしていない。この噂好きに、話すわけがない。

「なぜそうなるんだ。『私が死んだら売り上げが減る』とかそういうのでよくないか?」

「だってエルクラートさん、夏あたりから表情が柔らかくなりましたから。彼女さんとの関係は良好みたいですね」

「まさかそれも噂になっているんじゃないだろうな」

「いいえ、私の勘です。よく当たるんですよ。そのうち二人で食事に来てくださいね。エルクラートさんが彼女さんを紹介してくれるのを、首を長くして待っていますから」


 マルセルの声は弾んでいる。どうやらリザが私の彼女でないということは、とっくにばれているようだ。


「ああ、でもひとつだけ教えてください。彼女さんって、どんな性格なんですか?」

 こいつ、完全に私をからかって楽しんでるな。

「まだいるとも言ってない」

「いいや、絶対いますね。隠すのがますます怪しいです」


 だめだ。なにを言っても無駄な流れだ。クーアの正体がばれていないだけましと思っておこう。


 いつかは食いしん坊のクーアをこの店に連れてくるかもしれないが、いつになることやら。クーアを連れてくるより先に、好奇心を隠そうともしないマルセルの首が本当に長くなりそうだ。


 アマダイにありつこうと静かに皿に迫っていた老猫を、私はそっと押しのけた。

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