第48話
店内に戻り、大きなため息をつく。
今日はもうこれ以上、人間の悪夢はいらない。
壁の時計を見れば、まもなく五時になろうとしていた。
どうせ次から次に来るのなら、人間の客よりも猫がいい。人間の悪夢も美味いには美味いが、猫の悪夢は格別だ。いくらでも食べられる。
しかし猫が自ら悪夢を差し出しに来てくれるという美味い話は、残念ながらない。もしもそんな猫がいるのならば、いつでも大歓迎なのだが。
カラメルのようにほろ苦くも魅惑的な匂いの悪夢。
甘味の強い茶葉ととても相性のいい悪夢。
ああ、思い出すと口がそれを求めてしまう。猫の悪夢入り紅茶が今すぐ飲みたい。
しかし家にあるストックは、大事に食べなければ。
毎朝ティースプーンにちょっと少なめの一杯。それが上限だ。
最近、リザが猫の悪夢を持ってきてくれないのだ。いつでもいくらでも買い取るとは伝えているものの、そもそもリザが商品を仕入れられなければ、届くわけがない。
自分で採取できないこともないが、とても手間だ。私はお手軽にあの味を楽しみたい。
だからといって、己の欲望を満たす為に猫を飼い、悪夢を見るように仕向けるといった汚いやり方はごめんだ。私は悪夢を作り出して喰らうナイトメアなんぞとは違う。幸せな生き物である猫が自然に見る、天然物の悪夢だけが欲しいのだ。
猫の悪夢入り紅茶が飲めない憂鬱さで、もうひとつため息をつく。
薄暗い窓の外に目をやれば、か細い糸のような春霖。飽きもせずに降るそれはかれこれ一週間になる。雪解けの時期を過ぎ本格的な春になってきた証拠ではあるのだが、こうも降り続けられるとなんだか体にキノコが生えてきそうだ。
バクは静寂を好むから、雨音は特に気にならない。だがじめじめした空気は嫌なのだ。私は湿地を住処とするスライムとは違う。じめじめせず、かといって馬鹿なんじゃないのかというほど乾燥もせず。そういった快適な場所がいい。
天気が崩れると、悪夢を見る者も増える。特に人間は、その精神を天候に左右されやすい。
悪夢を見る者が増えるからには、夢喰屋が忙しくなる。
そして悪天候が続けば続くだけ、多忙な日が続く。
私の店は決して安い方ではないが、それでも客足はいつもの倍だ。夢喰屋とはそういう商売だと、分かってはいる。しかし今日はもうこれ以上客をとりたくない。純粋に疲れた。
今日も一日本当によく頑張った。
私はひとり暮らしなので、労わってくれるような家族はいない。だから自分で自分を褒める。寂しくはない。これが私の日常だ。
次の客が来る前に店を閉めよう。営業時間は厳密に定めていないから、気分で店じまいしようが休業しようが、全て私の勝手だ。誰からも文句は言われない。
いや、約一名ではあるが文句を言ったやつがいるか。
クーアだ。
目深に被ったフードがトレードマークである生意気なハーフセイレーンの小娘を思い出したら、少し笑えた。私の店であれほど文句を言い好き勝手にしたのは、彼女くらいしかいない。
クーアが私の友人であるキールと共に旅立ったのは、去年の夏のこと。あの口やかましい雛鳥も、今頃どこかの町で雨宿りをしているだろうか。
クーアを思い出せば、様々な心配が首をもたげた。彼女の成長を願って旅に出したのは他でもない私だというのに、なんともおかしな話だ。私が誰かをこんなにも心配する日が来るなど、思いもしなかった。
新たな客が入ってこないうちにと、入り口を施錠する。全ての窓に鍵がかかっているのを確認して、カーテンを閉めた。
魔法で風を起こして簡単に店の掃除を済ませ、ランプの火を消す。悪夢の載った皿を持って、店と家と繋ぐドアに手をかけたとき。
背後で、入り口をノックする音がした。
小さな音だが、間違いなく私の店のドアをノックしている。
ドアを開けて確認などしない。今日はもう店じまいだ。夢喰屋に用があるのなら、他へ回ってくれ。
このイリュリアの町にいる夢喰屋は、私ひとりきりではない。だいたいのバクがのんびり屋で好きな時間に働いている者ばかりだから、店ごとに営業時間もばらばらだ。そのおかげで、いつでもどこかの夢喰屋が開いている。
うちは客入りには困っていないし、この時間外の客を相手にする必要もない。
私はノックを無視すると、家へと引っ込んだ。
***
天気のせいで、家の中も薄暗い。自分の巣が嫌いなわけはないのだが、疲れて廊下を歩いていると、気持ちが落ち込む。
陰気で重苦しいムードを払拭したくて、照明魔術の光球を大小いくつも作った。それに浮遊魔術を重ねて、家のあちこちにふわふわと浮かせる。
なかなかいい。
ダイニングキッチンのランプをクーアに壊されたときにたまたま編み出した方法だが、幻想的な光景が気に入り、ひとり暮らしに戻った今でもこうして使っていた。
少し上を向き始めた気分が、キッチンでまた急降下する。
大皿の上で山盛りになっているのは、人間の客たちから取り出した悪夢だ。もちろん様々な魔物も客としてやってくるが、一番多いのは圧倒的に生息数……もとい、居住者数の多い人間だ。おかげで忙しくなると、チーズのような塊に変じる人間の悪夢がこうして山積みになる。客をある程度選べる立場の私でさえこうなのだから、誰でも受け入れるような夢喰屋の量は凄まじいものだろう。
夢喰屋というからには、客から取り出した悪夢を全て喰らい消化するのも仕事だ。取り出した悪夢をそのへんに放置していたら、そのうち悪夢が夢主のところに戻ってしまう。そうなれば「あの夢喰屋は腕が悪い」という噂が広がり、後ろ指を指され、やがてはこの住処から逃げ出さなければいけなくなる。
バクは自分のネムノキを植えたところからは、よほどのことがないかぎり離れない。
私のネムノキは代々伝わるもので、この家の庭に植えられている。ネムノキの状態で、客はその店の実力や経歴を推し量る。客入りに繋がるものだから、ネムノキがどれだけ立派で元気かということは重要だ。
しかしバクにとって、ネムノキはもっと重要な存在である。あんなにもよく育ち美味い夢を見る木を捨てるなど、絶対に嫌だ。あの木を捨てるくらいなら、木と心中する。
人里での穏やかな暮らしは、自分とネムノキを守る上でもかかせない。ただ、その暮らしの為には人間にとって有益なバクだと証明する必要がある。だからこそ、夢喰屋はミスが許されない。取り出した悪夢はどれほどの量があろうとも、期限内に全て喰らわねばならないのだ。
とはいえ、こうも大量の悪夢を消化しなければならないとなると、悪夢だけで腹が膨れてしまう。だからといって悪夢だけを食べるわけにもいかない。他のものも食べなければ、栄養が偏ってしまう。
さて、今夜はこの悪夢をどう調理したものか。
山盛りの悪夢を前に、腕を組んで唸る。フレッシュタイプからウォッシュタイプ、ハードタイプまで、様々なチーズもどきが選び放題だ。
いや待て、昨日食べきれなかった分がある。まずはそっちから片付けなくては。キッチンの端に寄せていた昨日の分を持ってきて、更に悩む。
他になにかないかと、近くにある籠を覗く。人間以外の悪夢を寄せている籠だ。今日はそこに、ドワーフの悪夢が転がっている。
魔物というよりは妖精に分類される小人、ドワーフ。見た目は完全に背の低い人間のおっさんもしくはおばさんというこの種族は鉱物に精通し、山間部に住んで採掘現場などで活躍する者が多い。
だが彼らが得意なのはそれだけではない。
手先の器用さを活かし、鍛冶屋や細工屋を生業とする者もいる。そういった者たちが、港町であるこのイリュリアにも住んでいた。
そんなドワーフから取り出した悪夢が、籠の中に転がったひとかけらのニンニクもどきだ。
ちょうどいい。これと人間の悪夢で、今夜はチーズフォンデュにしよう。ちょっと固くなり始めたバゲットも消費できる。そうだ。そうしよう。
鍋をひとつ取り出すと、私はさっそく調理にとりかかった。
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