七章 嘆きに咲く花
第47話
「喰らって欲しい悪夢を、思い出して。ゆっくり、ひとつずつ、明確に」
ロッキングチェアに深く座らせた客の意識を、悪夢に向けさせる。その胸元に右手をかざし、反時計回りにくるくると回す。手に糸が絡まるような感覚があったら、切れないよう慎重にそれを手繰り寄せれば、客の胸元から悪夢がうっすら黒い煙となって出てくる。まだ若い悪夢だ。量も多くはない。
全て取り出し終えた悪夢の煙が、凝縮していく。下に手を添えてやれば、丸く白い物体が落ちてきた。人間の食べ物でいうところの白カビのチーズに似ている。人間の悪夢は、こんなふうにチーズもどきに変じるのだ。指でつついてみれば、まだ若い悪夢なのでぷにぷにと柔らかい。近くの棚に置いていた皿に載せる。
悪夢を取り出された客は目と口が半開きのままぼんやりしていたが、突然はっとしたようにその表情が引き締まった。お目覚めだ。
「いやあ、やっぱり夢喰屋はエルクラートさんが一番ですね」
そう言い、人間の客――ころんと丸い体格のマルセルが大きく伸びをした。マルセルが夢喰屋に用事があるときは、ほとんどいつも夕方にうちを訪れる。
「そんなに違うか?」
「ええ、そりゃあもう。体の軽さが全然違いますよ。肩こりもなくなりますし」
これくらい若い悪夢ならどこの夢喰屋で取り出しても同じようなものだと思っていたが、取り出される側からしたらなにか違うのか。私が他の夢喰屋の世話になるなどよほどの事態でないかぎりないから、よく分からない。
まあ、満足してもらえたようでなによりである。前払いで貰った料金分の仕事がしっかりできたという証だ。
マルセルが立ち上がらないうちに、店の入り口をノックする音が響く。
「お忙しそうですね、エルクラートさん」
「雨が続いているからな。いつものことだ」
「うちは天気が悪いと客が減るので、逆ですね」
そう言うと、マルセルはポールハンガーに掛けていた紺色の外套を羽織って店を出ていった。
入れ替わりに入ってきたのは、金色のふわふわとした癖毛の幼い少女と、少女の手を引いたグレーの外套を羽織った母親と思しき女性だった。見た感じ人間っぽい。
店内がびしょびしょになる前に、二人にポールハンガーを勧める。雨や雪の日はそのあたりの床に穏やかな温風を魔術で固定しているから、外套がすぐに乾く。おかげで床が濡れずに済む。
「あの、昨日からこの子の夢見がよくないみたいで」
母親にそっと背中を押された五歳ほどの少女が、私を見て母親の陰に隠れる。
見下ろされて怖かったのだろう。バクの目は金色だから、ときに他者へ威圧感を与える。
子供に怖がられるのはいつものことだ。この状態でいきなり親と料金の話をしても仕方ない。病院に連れてこられたかのように怯える子供の心のケアが先だ。
母親のそばにしゃがみ、少女の目線に高さを合わせる。
「こんにちは。私はエルクラートだ。きみは」
「……メイ」
「よろしく、メイ。どんな夢を見てるんだい?」
母親の黄色いスカートをぎゅっと握ったまま、メイが私を見た。大きな青い瞳の奥に見える魂には、わずかだが悪夢がくっついている。
「怖い夢?」
問えば、メイがこくりと頷く。
「クジラがね、あたしを食べようとするの」
「それは怖いね。私がもう夢を見ないようにしてあげよう」
「本当?」
「ああ、本当だ。おいで」
手を差し伸べれば、メイはおずおずと私の手を掴んだ。そのまま母親の陰から出てくる。
「いい子だね。少しだけ抱っこしてもいい?」
「うん」
メイの脇に手を入れ、小さな体を抱き上げる。素直な子だ。扱いやすくて助かる。
夢喰屋にはこういった幼い子供も訪れるが、泣き出して夢喰いどころではなくなる子供もいる。あまり子供の扱いは得意ではないから、メイの素直さは助かった。
さっきまでマルセルが座っていたロッキングチェアに、メイをそっと下ろす。ゆらゆら揺れる椅子が珍しいのか、少し緊張した顔をしていた。隣に屈んで、ゆっくり話しかける。
「メイはいつもいい子にしてるかい?」
座り慣れない椅子に緊張しながらも、メイが頷く。
夢喰いの前には犯罪に関係する悪夢ではないか確認するが、こんな子供に犯罪かどうか訊いても答えられるわけがない。普段いい子にしているのなら、それでいい。
それに本当になにかを隠しているのだとしても、対策はしてある。私を騙そうとすれば、店内に張り巡らせている嘘探知の魔術が反応するからだ。
「怖いクジラを、お兄さんが退治してもいいかな?」
「うん」
夢主本人がその夢を手放したいか。第三者の言葉では絶対に夢喰いをしない夢喰屋にとって、それは重要な確確認事項だ。
けれども、メイに夢喰いを説明したところでまだ理解できない。ゆえに私からの質問も、メイからの答えも、簡単な言葉で構わない。
「それじゃあ、目を閉じて。どんなクジラが夢に出てきたか、少しだけ思い出して」
子供の夢は取り出しにくい。大人ならば詳細に思い出させても特に抵抗しないが、子供に詳細に思い出せと言えば、余計に怖がらせて悪夢の形が分かりにくくなる。だからといって適当に引っ張り出せば魂に傷をつけてしまうから、普段よりも更に慎重さが求められる。
立ち上がってメイの頭に右手をそっとかざし、反時計回りになでるように動かす。手にかすかな感触があった。取りこぼさないようにその感触を探りながら手を動かし続ければ、うっすら黒い煙が立ち上ってきた。
メイが目覚めるのを待つ間に母親から料金を貰い、親子を送り出す。子供用のピンク色をした外套が雑踏に紛れる直前、メイが振り返って小さな手を振ってくれた。
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