第33話

 ティルの悪夢から漂う独特の匂いが、ほんのり店内に漂っている。このまま置きっぱなしというわけにもいかない。ひとまずキッチンに持っていこう。


 皿を持ったとき、ドアをノックされた。持っていた皿を棚に戻して、入り口を見る。


 ドアベルを軽やかに鳴らして入ってきたのは、赤いとんがり帽子のリザだ。


「どうしたリザ。猫の悪夢が入荷したのか?」

「とりあえず半瓶ね。こないだ一瓶だけだったでしょ? 困ってるんじゃないかと思って、持ってきた」


 とても困っていたところだ。ありがたい。

「いくらだ?」

「半分だから、百オーレル」


 今月は猫の悪夢が高い。しかしいつでもいくらでも買い取るという言葉に偽りはないので、リザに代金を渡す。受け取ったクロスト瓶の中には、綺麗な虹色の猫の悪夢が入っていた。思わずうっとりしてしまう。


「ところで聞いた? あの夢屋のこと」


 財布に金をしまいながら、リザが呟く。


「あの夢屋を利用したってお客さんで、どこの夢屋も大騒ぎ。おかげでパパもママも、配達とか仕入れどころじゃないの」


 妙な話だ。リザの店の主な客はバクだから、仕入れる夢も配達ルートも決まっている。それ以外の客はほとんど来ないと言ってもいいくらいだ。それなのに手が回らないほどの忙しさとは。


「なにがあった」

「なんでもいいから幸せな夢を売ってくれってお客さんが押し寄せてるの。酷い悪夢を見るんだって。それなら夢喰屋に行けばって言ったんだけど……」


 リザが肩掛け鞄に財布を入れて、疲れた顔をする。


「夢喰屋で、『うちでは食べられない』って断られたんだって。他にも、凄い混雑で順番待ちになってて、その日のうちに食べてもらえないのも珍しくないらしいよ。……あんたのとこは、空いてるんだね」

「それなりの値段にしているからな」


 なにかあったときに混雑するのは、手ごろな価格の店からだ。多忙になるのが嫌なので、私の店は通常価格を少し高めに設定している。おかげで余計なトラブルにも巻き込まれずに済む。

 もちろん手ごろな価格の店も低価格にするメリットというものがあるが、私はそれよりも落ち着いて仕事ができる環境が欲しかった。


「夢喰屋を利用できない客が、いい夢を手に入れて気を紛らわせようとしているというところか?」

「そうそう、そんな感じ。でもさあ、入れられないんだよね。あたしも何人かお客さんの状態を見てみたんだけど、どのお客さんも魂がどろっどろに濁ってて無理。それでも少し隙間があるお客さんで試してみたけど、新しい夢が全然定着しないの」


 他の夢が定着しないほど、どろどろに濁った魂。ついさっき見たティルと同じ状態だ。


「あそこまで魂が濁っちゃってると、邪魔な悪夢を寄せるのも無理。あれこれ試すだけ無駄だから、そういうお客さんはもう断るようにしてる。それでも次から次に来るから、困ってるんだよね」


 そう言うと、リザはもう大きなため息をついた。明るさがウリのような彼女のこんな様子は珍しい。

 リザが、棚に戻しておいたティルのチーズもどきを指した。


「ねえねえ、それなに? すっごい臭いね」

「噂の夢屋に関わって死にかけた人間の悪夢だ」

「うへえ、それ食べるの?」

「まあな」


 そんなに嫌そうな顔をしないでくれ。これを食べきるまでが仕事なんだ。


 チーズもどきから視線を外したリザが、はっとした。


「そういえば、変なこともうひとつあるの」

「なんだ?」

「魂がどろどろに濁ってたお客さん、全員人間なんだよね。魔物はひとりもいない。まあ、たまたまうちがそうなだけかもしれないけど」


 やってくる客が、全て人間。たしかにおかしな話だ。イリュリアに住んでいる者で一番数が多いのは人間だが、それにしても偏っている。魔物だって悪夢を見るし、いい夢を買いたがるのに。


「あんたの店空いてるなら、お客さん回していい?」


 物凄く嫌だ。


 しかし医者が流行り病に無視を決め込むなど許されないのと同じで、それだけ夢屋騒動が広がりを見せているのなら、私も夢喰屋として客をとる義務が生じる。悪夢をどうにかできるのは、夢喰屋だけだ。


 だがティルと同じレベルの客が回ってくるのだとしたら、私はその客の数だけ命を懸けなければいけなくなる。


 だからといって義務から逃げれば、町にいられなくなる。


 つまり、庭のネムノキを捨てなくてはならない。


 逃げようがない。


「うちを紹介するのは構わないが、値が張ると伝え忘れないでくれ」


 私に許された精一杯の抵抗だ。どの夢喰屋を選ぶかは、最終的に客が決める。


「忘れないでおく」


 リザがにかっと笑った。店を訪れる客の数に心底辟易していた彼女からすれば、紹介できる夢喰屋があるのは救いだ。


「リザ。例の夢屋が騒動の原因ならば、これから同じような客が増えるぞ」

「勘弁してよお。面倒なのは猫の悪夢だけでいいのに」

「猫の悪夢の方がましじゃないか? まともな商売として成立している」

「まあね。それに普通の夢の三倍は儲かる」


 そんなに取られていたのか。それでも自分で採取する手間はかけたくないので、妥当な値段だと思っておく。


「それじゃ、また猫の悪夢仕入れたら来るから」

「頼むよ」


 私に話してすっきりしたのか、店を出るリザの歩調は軽かった。

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