第32話
「助けてください、エルクラートさん。このままだと、僕、一生夢の中に。父さんが、エルクラートさんならなんとかしてくれるって、それで」
「ティル、深く息をして」
どんな理由でこんな状態に陥ったのかはともかく、己の過ちに気づいて助けを求めてきたティルを見殺しにするほど、私は冷酷ではない。ティルとはそんなに親しくはないが、彼の家である茶葉店には世話になっている。そこの息子を見捨てて死なせたとあっては、さすがに寝覚めが悪い。
それに私の店の評判にも傷がつく。
「あの、エルクラートさん、お金……」
ティルは常連なのだから、私の店は前払いだと知っているのは当然だ。背負っていたリュックを床に下ろし、中に手を突っ込んでごそごそする。
ティルが差し出してきたのは、五百オーレル札の束だった。
白い帯封がついているから、全て新札だと分かる。そんな高額紙幣、日常では滅多に使う機会がない。
「父さんが、全部エルクラートさんに渡しなさいって」
「その金額がなにを意味するか、父さんは教えてくれたか?」
「いえ……」
意味を理解もせずにうちで大金を使わせるわけにはいかない。特に深刻な悪夢を見ているティルには、きちんと大金の意味を知ってもらう必要がある。
「きみの命を奪おうとしている悪夢を全て喰らうのは、通常の夢喰いとは比べ物にならない危険を伴う。それを知っているから、父さんはきみにその大金を持たせたんだ」
ティルは相変わらず泣いているが、説明をしなければならない。
あくまでも他人のティルを救う為に、私は己の命を懸けなければならないのだ。その危険を理解してもらわなければ、「怪しいものに気安く手を出しても、金さえ積めばどうにでもなる」という誤った考えをティルに植えつけてしまう。それでは意味がない。
「まず、きみの中から悪夢を全て取り出すのに関する危険について。きみが喰らって欲しいというその悪夢は、記憶の遺産として魂に根深く定着してしまっている。それほどの悪夢だから、きみの命を奪おうとして、眠りをどんどん深くしているんだ」
札束を差し出していたティルの手を押し戻し、話を続ける。
「魂を飲み込もうとしている悪夢を全て取り出すには、細心の注意を払わなければならない。普段の夢喰いのように取り出しては、魂に取り返しのつかない傷が入ってしまう。そうなればきみはよくて廃人。最悪の場合は死ぬ」
ティルの状態はかなり悪い。以前悪夢に飲み込まれかけたクーアが私を頼ってきたが、そんなものとは比べ物にならないほどだ。
「次に、私に及ぶ危険。きみが死にかけるほどの悪夢だ。取り出した悪夢を喰らい、消化する私とて無事で済むとは言い難い。喰らった悪夢に引っ張られて、死ぬかもしれない」
夢主を殺そうとするほどの悪夢を喰らうなど、並のバクなら嫌がる。イリュリアには多くの夢喰屋がいるが、それほどの悪夢に手を出せるほど経験豊富な者は多くない。
「最悪なのは、悪夢に囚われた場合だ。一生抜け出せなくなるから、死ぬより酷い」
バクは魂の性質上、夢に溶け込んでしまう場合がある。だからこそ、リスクの高い夢喰いは皆避けようとする。私だって、本当はしたくない。
「軽率な行動で死にかけているきみを助ける為、私の命を懸けろ。きみの父さんはそう言っているんだ。それは『きみの魂の安全を確保した上で、問題の悪夢だけを取り出して、きみに二度と戻らぬよう全て喰らって欲しい』というむちゃくちゃな注文だ」
私なら、どんな悪夢でも喰らえる。私ほど受け継いできた記憶の遺産が豊富なバクは、なかなかいない。
だからこそ、どんな相手にも正当な対価を求める。
「きみときみの父さんの希望に、私がいっさいの嘘偽りなく応える対価として、私はきみに四万オーレルを求める。納得できるか?」
いくら常連とはいえ、値引きするつもりはない。
少しでも値引きしたという話が漏れてしまえば、同じサービスを求める者が次から次に湧いてきりがなくなる。そんなにほいほい相手にできるほど、私の命は軽くないのだ。
私は家の名誉だけでなく、たったひとつしかない命も懸けて商売をしている。
それが、『悪夢を全て喰らうバクのエルクラート』なのだから。
札束を握っていたティルが、ひきつるように泣き出した。ここにきてようやく自分がなにをしたのか完全に理解したようだ。遅すぎるが仕方ない。怪しい夢屋を利用しようと決めたのは、ティル自身だ。
「僕、死んじゃうんですか?」
「このままならな」
怪しい夢屋に頼ろうとしたときのように、最終的な決断はティルがしなければならない。たとえ私のもとへ行くように指示して金を出したのがティルの父親でも、ティル本人が条件に納得して夢喰いを望まなければ、私はたとえ夢主がどれほど命の危機にあったとしても、悪夢を喰らわない。
夢喰屋にとって、夢主の意志は絶対だ。第三者の言葉で動いてはいけない。失いたがっている悪夢だとしても、それは夢主が持つ記憶の遺産なのだ。勝手に手を出すわけにはいかない。
「僕……父さんが金庫からこのお金を出したとき、なんでだろうって思ったんです。こんな大金、触らせてもらったこともないし」
ティルが下唇を噛んで、嗚咽をこらえる。
私の記憶の財産に、ティルの父親に関するものがあった。
私の父は、ティルの父親が持ち込んだたちの悪い悪夢を、一度だけ全て喰らった。
その体験を覚えていたから、ティルの父親は息子に大金を持たせて、私の店に行くように言ったのだ。ただ単に金の力で解決しようとしたのではない。息子を死なせたくないという親の愛である。
「父さんがこれを持たせてくれたのって、こうして使って、助かれってことですよね」
「そうだな」
「……食べてください」
呻くように、ティルは言った。
「生きて、働いて、父さんにこのお金以上のものを返す為に、僕の悪夢を全部食べてください」
ティルの意志は決まった。それならば、あとは問題の悪夢を喰らうだけだ。
「最後にひとつ確認させてくれ。きみが夢屋に注文した結果手に入れたその悪夢は、犯罪に関するものではないな?」
ティルがしっかり頷く。その顔には、先ほどまでの頼りない雰囲気は微塵もなかった。
「僕の欲望は詰まってますけど、犯罪には関係ありません。誓えます」
「いいだろう」
いつもとは違う夢喰いだ。ティルが怖気づいてしまう前に済ませてしまうのがいい。
ティルが震える手でもう一度差し出した札束を受け取る。四万オーレル間違いなく数えて、残った分をティルに返した。残りは、また別の場所で必要になる。
ようやく目眩もおさまった。それにしても朝から酷い目に遭った。
……私は今から更に酷い目に遭うのだが。
棚に代金を置き、ペーパーウェイトを載せる。
「こちらへどうぞ、お客様。あなたの悪夢、全て喰らいましょう」
ロッキングチェアのそばから声をかければ、ティルがゆっくり立ち上がった。
もう何度も座った経験のある椅子に、今回ばかりは緊張した面持ちでティルが腰を下ろす。死の淵に沈みかけているティルを安心させるように、椅子が静かに揺れた。
「目を閉じて」
ティルが両目を閉じる。顔には涙の痕があった。
「喰らって欲しい悪夢を、思い出して。ゆっくり、ひとつずつ、明確に」
息の浅いティルの胸元に右手をかざし、反時計回りにくるくると撫でるように動かす。少しずつティルの呼吸のペースが落ちて、深くなっていく。
ティルの胸元から、通常の悪夢とは比べ物にならないほどどろりとした、泥を思わせる黒い煙が立ち上った。全ての煙が出尽くすまで手を動かし続けるが、なかなか終わらない。私の周囲が、大量の煙で埋め尽くされていく。
少しでも気を抜けばすぐにティルの中に戻ろうとする粘性の高い悪夢を、魂を傷つけないよう、慎重に取り出し続ける。
三十分ほどそうしていただろうか。ティルから立ち上っていた煙が、ふっと途切れた。ようやく全ての悪夢を取り出せた。
周囲でぐるぐると渦を巻いていた黒煙が、私の掌の上でひとつにまとまっていく。ぎゅうっと凝縮した黒煙は、やたらと重量のあるチーズもどきに変じた。青かびのようなものが混ざっていて、強い独特の匂いが漂っている。
どっしりとしたチーズもどきを棚に用意していた皿に載せ、ティルが覚醒するのを待つ。命に関わるほどの悪夢を一度に取り出したのだ。他の悪夢のときのように、すぐ目覚めるわけがない。
暖炉で薪がはぜる音だけが響く店内で、ティルの様子を観察しながら待ち続ける。細心の注意を払いはしたが、万が一という場合もある。ティルがしっかり呼吸をしているか、痙攣を起こさないか、観察し続けた。
ティルが目覚めるまでに、たっぷり一時間はかかった。
やつれた顔にうっすら血が通って意識が戻っても、ティルはどこかぼんやりしていた。魂に詰まりに詰まった悪夢を取り出して隙間が空いているティルは、今日一日こんな調子だ。
「ティル、気分はどうだ? 気持ち悪くないか?」
「あ、ああ、はい」
のろのろとした返事だが、それも想定内だ。
「きみの中から、悪夢を全て取り出した。大量の濃厚な悪夢だ。しかし命を奪いかけたほどの悪夢のせいで、きみの魂は疲弊しきっている。このまま回復しなければ、待っているのは死だ。助かる為には、仕上げとして魂を回復させなければいけない」
「はあ」
「ロラッシュ通りにあるマースルイスの店に行くんだ。私のところから来たと言えば、分かるはずだから。そこで残りの金を使って、ありったけの夢を詰めてもらうんだ。そしたら、今日はもう家で休むように。いいな?」
「はい」
ティルのようにたちの悪い大量の悪夢を取り出した後は、魂を回復させる為にとびきり幸せな夢を詰め込む必要がある。それができるのは、幸せな夢を無限に作り出せるハルピュイアの夢屋だけだ。
そういう客を、マースルイスの店に頼んでいた。私の父の代から世話になっている上に、腕利きの夢屋だ。どこの店よりも信頼できる。
少しよろめきはしたが、ティルは自分で店の入り口のドアを開けて外へと出た。ベージュ色の外套姿のティルが、雑踏へと踏み出す。
その姿が二つ目の角を曲がるまで見送ってから、私は店へと引っ込んだ。
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