第31話

 私がティルの依頼を断ってから、五日後。


「助けてください、エルクラートさん!」


 開店しようと店の入り口のドアを開錠するなり、裏返りそうな声を響かせて、ティルが飛び込んできた。ずっと外で待っていたらしい。飛びついてきたティルの外套が、すっかり冷え切っている。

 正面から思い切りぶつかってきたティルを受け止めきれず、そのまま二人して床に倒れ込んだ。

 受け身を取り損ねたせいで、背中を打って息が詰まる。バウンドするほど後頭部を打ちつけて、視界が激しく揺れた。目を開けられずに呻く。横になっているはずなのに酷い目眩がして、ちかちかと光がまたたいていた。


 朝からなんなんだ。もっと穏やかに入店して欲しい。たしかにうちの店は予約を取らず来店順に相手をしている。しかし先を争わなければいけないほど混雑はしない。


「す……すみません!」


 覆いかぶさっていたティルが慌てて起き上がる気配がした。


 ようやく入り口のドアが閉まり、ドアベルがからんからんと揺れる。クーアのせいで蝶番のネジがひとつ落ちた後、ドアは修理した。それなのにこんなに乱暴な扱いをされては、いよいよドア自体を交換しなければいけなくなる。今のドアの色合いが気に入っているのに。


 ゆっくり目を開けると、まだ視界が揺れていた。


「少しは落ち着いたか?」

「すみませんでした……」

「怪我をしていないのなら、なによりだ」


 なかなか起き上がれない。床に転がったままティルを見ると、彼は非常に申し訳なさそうな顔をして、膝を折りちょこんと座っていた。

 視界に星が散らばっているのでよく見えないが、以前見たときより明らかに憔悴している。そばかすが目立つ顔は、血色が悪いどころではない。頬がこけて、真っ青どころか土気色に近かった。目もおちくぼんでいて、まるで死人である。とても先ほど凶悪なタックルをしてきた者とは思えない。


 なにが起きればこの短い期間でそうなるのかと眺めていたら。


 ティルが勢いよく土下座した。床に彼の額がぶつかる痛そうな音が響く。


「お願いします、エルクラートさん! 僕の夢を食べてください!」


 今にも泣きそうな声で、ティルはそう言った。


 そんなことだろうと思った。ティルが茶葉の配達以外で来るとしたら、夢喰屋に用事があるときだ。私と彼は、友人と呼べるほど親しいわけではない。


 ようやく目眩がおさまってきた。ゆっくり上体を起こしながら、土下座したままのティルを見る。


「先日話していた人妻の夢か? それなら断ったはずだ」

「悪夢を食べて欲しいんです!」


 ティルの声は悲鳴に近かった。よほどの悪夢を抱えている。彼がやつれている原因はその悪夢で間違いない。


 だがこれほどにまで影響を与える悪夢とは、どんなものだ。今にも命を奪いかねない悪夢というものは存在するものの、それはじわじわと夢主を追い詰めるタイプのものだ。ここまで急激な変化は現れない。


 悪夢を喰らうのが私の商売ではあるが、すぐに引き受けるのはためらわれた。


「ティル、顔を上げて。なにがあったのか、順を追って説明してくれ。喰らうかどうかはその後の話だ」

「は、はい」


 いまだ立てない私の前で、ティルがぽつぽつと語り出す。


「実はエルクラートさんに断られた後、他の夢喰屋で夢を食べてもらったんです」


 思わず舌打ちしそうになった。誰だ、そんな余計な真似をしたのは。私が断った意味がないではないか。ティルにうまいことはぐらかされたか、それとも夢喰屋として経験の浅いバクか。どちらだ。


 いや、それよりも今はティルの話か。彼になにがあったのか知らなければいけない。


「夢を食べてもらった日の夜、僕が欲しかった夢が届きました」

「理想の恋人と星燈祭に行く夢か?」


 ティルが脱力したように頷く。


「僕が手紙に書いたとおりの夢でした。夢の中に出てきた子は、つやつやした黒髪で、笑うとほっぺが少しだけ赤くなるのが可愛くて、背は僕よりもずっと小さくて、でも胸はメロンくらい大きくて、僕なんかにはもったいないくらい素敵で」

「きみの異性の好みは訊いていないよ。それで? 望みの夢が手に入ったのに、いったいなにが問題だったんだ?」


 ティルの視線がさまよい、うつむいてしまう。手袋をはめた手が、外套をぎゅっと握った。


「……夢の中の彼女が、僕を離してくれないんです」


 そらみろ。依存性のある夢なんぞ求めるからだ。だから怪しい夢屋には関わるなと言ったのに。


 しかしそれを今のティルにいったところでなんの意味もないので、そのまま彼の話に耳を傾ける。


「夢が、終わってくれないんです」


 ティルの声がワントーン下がった。


「最初は同じ夢を繰り返し見て、ちょっと寝坊するくらいでした。でもだんだん夢を繰り返す回数が増えて、僕の眠りもどんどん長くなって、今じゃ昼過ぎにならないと目覚められないんです。家族が僕を起こそうとして色々してくれてるんですけど、なにをしても全然起きないらしくて……」


 外套をぎゅっと握るティルの手が、小刻みに震えている。


「僕の夢は、二人でランタンを上げてキスをしたらそこで終わるはずでした。けれども彼女とキスをすると、また夢の最初に戻ってしまうんです」


 ティルの声が震え始めた。相当怯えている。


「待ち合わせ場所に彼女が少し遅れてきて、僕は彼女に『今来たところだよ』って笑うところから夢は始まります。その後は、二人で手を繋いで夜の港に行って、一緒にランタンを上げてキスをして、それで終わるはずだったんです」


 ティルの手の甲に、ぽつりとなにかが落ちた。泣いている。


「何度も、何度も、何度も、何度も繰り返して、全然終わってくれないんです。そしたら、一昨日の夢で彼女が僕に言いました」


 ティルがごくりと息を呑む。


「『ずっと一緒にランタンを上げようね。ずうっと一緒だからね』って。僕の腕にしがみついて、にやにや笑いながら言うんです。逃げ出したいのに体がいうことをきかなくて、彼女に連れられてランタンを上げて、それを繰り返して……。このままじゃ本当に目覚められなくなるんじゃないかって思ったら、もう、怖くて眠れないんです」


 典型的な悪夢の症状だ。夢に怯えるようになり、睡眠自体に恐怖を覚え、衰弱し、ふとした拍子に居眠りをしては悪夢を見る。悪夢により濁った魂はやがて悪夢に囚われてしまい、死に至る。


 ティルはまさにその状態にあった。


 だが、いくらなんでも進行が早過ぎる。


「ティル、目を見せて」


 声をかけ、私の方を向かせる。


 ティルの青い目の奥に見えた魂は、先日の状態が嘘だったかのように、濁りきっていた。まるで何ヶ月も同じ悪夢を見続けた者のように、どろどろに濁っている。魂の輪郭はあまりにも曖昧で、どんなに探しても悪夢との境目が見つからない。

 ティルの魂は、まとわりついているどろりとした大量の悪夢に溶けかけていた。


 魂に影響が出るほどの悪夢を故意に見せる原因は、まずはナイトメアを疑う。

 しかし、ティルの状態はナイトメアに憑かれた者のそれとは明らかに違っていた。

 悪夢を餌にするナイトメアは、捕らえた獲物をすぐには殺さない。ぎりぎり死なない程度の状態を保ち、少しでも多く悪夢を作り出し、貪る。どんなに食い意地が張っている個体でも、それは変わらない。

 例外はバクに憑いた場合だ。バクの魂はナイトメアにとって最高に美味いものだから、鼻息を荒くしてあの手この手で喰らおうとする。

 それ以外の場合はただ餌場がなくなるだけなので、ナイトメアにはなんのメリットもない。


 ティルの魂は、限界一歩手前だ。このままでは数日と経たずに、悪夢が原因で死ぬ。バクでもないのにこんなにも進行が早いのは、ナイトメアではありえない。


 目の奥を覗きながら思案していると、ティルがぼろぼろ泣き出した。ティルは小さな頃から少し気が弱い性格で涙ぐむこともあるにはあったが、さすがにこんなに泣いたことはない。それだけ精神が弱っている証拠だ。


「ティル、夢に他の変化はなかったか? それまで夢に登場しなかった者が増えたり、知らない場所に行ったり」


 手袋の甲で涙を拭いながら、ティルが首を横に振る。


 夢主に悪夢を植えつける方法として、心地いい夢で表面をコーティングした悪夢を入れるというものがある。悪夢をそのまま入れるより魂の抵抗が少ないそれは、戦争をしていたほどの大昔に、拷問の為に編み出された魔法だ。


 しかしそれを使ったとしても、ティルの状態は説明できない。


 風船が弾けるようにコーティングを破った悪夢は、すぐに魂を濁らせるわけではない。夢主をとことん苦しめるのが目的の方法だから、ゆっくりと魂を蝕むように魔法の内容が調整されている。すぐに濁らせては、夢主があっという間に弱ってしまう。そうなれば、この魔法で苦しめる意味がない。


 残る可能性は、ティルの魂に定着した夢が変質してしまったというものだ。それならば魂を浸食してもおかしくない。しかしそんな夢、通常の夢屋が入れる夢ではまずありえない変化だ。夢屋が扱う夢は、夢主の中でその内容を変えたりはしない。もしそんな変化が起こるのだとしたら、誰も夢を買おうとは思わない。

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