第23話

 魔術空間で日常を過ごしているクーアの所持品は、非常に少ない。僅かな着替えと、キールに頼んであらかじめ買い集めて貰った基本的な旅道具程度だ。荷造りなど、あっという間に終わってしまう。


「またお腹が空いたら来るから」


 出発は、家の裏口からだ。まだクーアを表通りに面している店の入り口から出すには、不安が残る。そんな私の思いを知ってか知らずか、真新しいリュックを背負ったクーアが開いたドアを押さえながら笑っている。


「なんだ、空腹にならないと帰ってこないのか?」

「だってこれから、ちゃんと世の中を見るんだもん。もしかしたら、エルより素敵な相手に会っちゃうかもしれない」

「旅立つ前から浮気する気満々とは、私も随分な花嫁と婚約を交わしたものだ」


 私の率直な呟きに、クーアがまるで石像のように固まった。


 先に表に出たキールはというと、またしても盛大に笑っている。ハルピュイアは陽気な性格の者が多いが、その中でもキールは特に笑いのツボが浅いと思える。子供のときからそうだ。私のなんでもない一言で、彼の笑いが止まらなくなることなど珍しくもない。食事中にフォークを落とした程度でも笑い出す、そんな男だ。


「えっ、待って! それって、ねえ……もう一回! もう一回言って!」


 ようやく現実に戻ってきたクーアが、私にすがろうとする。それを抑えたのは、まだ笑いが収まらないキールの手だ。彼の手が、クーアのリュックをしっかり掴んでいる。肝心なところでは隙のないキールだったから、クーアを任せられる。そう考えた私の行動は正しかったらしい。


「ああもう、これだから鳥どもはうるさくて仕方ないんだ。ぴいぴい鳴いてないでさっさと行け。どこに行くかは知らんが、日が暮れるぞ」


 私へと必死で手を伸ばすクーアに、追い払うように手を振る。


「おい先輩鳥、早くこのひよっこを連れて行ってくれ。うるさくてかなわん」

「へいへい。痴話喧嘩を眺める趣味はねえから、連れていきますよーっと」


 キールにリュックを掴まれたクーアが、ずるずると引きずられる。透けるほど白い手は私を捕まえることなく、離れていった。


「ねえちょっと! もう一回だけ言って! もう一回だけでいいから!」

「うるさい、早く行け! 暫く帰ってくるな!」


 力でクーアがキールに敵うはずもない。私に再宣言を願う必死の声は遠のき、やがて細い通りの角を曲がって消えていった。


 私たちの別れは、これくらい雑でいい。しんみりとした悲劇的なものは、お互い不要だ。クーアはこれから希望に満ちた旅に出るのだから涙する必要はないし、私だってそんなしみったれたものは不要だ。散々夢喰屋として悪夢を食べて知っているから、今更自分が体験したところで、何の面白味もない。

 それに、別れは少し寂しいくらいでいいのだ。あまり悲しんでは、辛い思い出になってしまう。だから少しで構わない。

 クーアが私のところへやってきたときのような、日常のちょっとした変化。その程度の軽い別れでよかった。

 相変わらず天の太陽はクーアの瞳のように燃え盛っているが、吹き抜ける風は涼風だ。旅好きなハルピュイアほど風にこだわりはないが、たしかにこの風ならば旅立ちにはちょうどいい。


 まさかクーアは、この風が吹くのを知っていて、昼食を食べたいと言ったのだろうか。


 いや、それはないか。クーアはイリュリアの夏を知らない。私は彼女を助け出した後、外の穢れに触れてしまわないよう、特別な鳥籠にずっと大切にしまっておいたのだから。

 次に会うとき、クーアはどんな性格になっているだろう。


 今と変わらず、生意気か。

 それとも、少しは落ち着いて大人っぽくなるか。


 もしかしたらキールの陽気さがうつって、更にやかましくなっているかもしれない。


 ただひとつたしかなのは、たとえ彼女がこの旅でどんな成長を遂げようとも、私が彼女を好いているという気持ちは変わらないという事実だ。


 バクは変化を嫌うから、一度気に入ったものはなかなか手放さない。ネムノキを植えて定住し、なかなか離れないのは、その習性によるところが大きい。

 そんなバクである私はクーアを愛しているから、たとえ彼女がどう変わろうとも彼女に拒絶されることさえなければ、いつまでも愛する。

 私はクーアを愛しているから、彼女の悪夢を喰らった。彼女の匂いを、味を、過去を、全てを私に刻みつけて、彼女と結ばれたかったのだ。

 ただし、クーアを鳥籠に閉じ込めて悪夢を喰らい続けるような趣味はない。私が悪夢を喰らうのは、彼女に望まれた場合か、もしくは彼女の成長の妨げになっている場合だ。


 クーアがそばにいてくれるのは、私としても嬉しい。しかし私に依存しなければ生きていけないという、そんな不安定な状況下に彼女を置いておきたくなかった。

 彼女は、翼を持たない。しかし二本の脚で立つことはできる。そして立てるからには、歩ける。ハーフセイレーンという過酷な運命を背負って生を全うできるだけの強さを、身につけさせたかった。だからこそ私は覚悟を決めて、彼女を旅に出したのだ。


 居間に戻り、窓辺のソファに腰かけ、吹き込む涼風に目を細める。手元には、新たに買い直したあの本があった。読者の心を鏡のように映すこの本は、クーアにどんな世界を見せるのか。それは次に会うときまで、クーアしか知らない。


 ただ時折でいいから、同じ空の下で同じ本を読んで、私を思い出して欲しい。


 それくらいの甘い夢を願うのは、わがままにはあたらないはずだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る