第21話

 クーアに贈るのなら、何がいいだろう。キールが言っていたように、季節の花でも送るか?


 いや、それはなんだか違う気がする。それはある程度の関係を築いた者同士がするからこそ、意味のあるプレゼントではないだろうか。

 同じように考えると、アクセサリーも違うように感じられた。身に着けるからには、思い出にしたいほど素晴らしい記憶と共にあらねばならない。


 じゃあ、結局は大盛りのラザニアか? 一応クーアは食事時にドアを開けると出てきたから、食欲はある。ただ、口はきいてくれない。沈黙を苦手とするクーアにしては珍しく、忍耐強かった。

 それにキールにも、食べ物で釣るなと忠告された。私よりも甘い夢に縁のある彼が言うのだから、間違いなかろう。たしかによく考えると食べ物で釣るのはなんだか子供扱いしているようで、余計にクーアを怒らせそうだ。


 当然、旅に役立つものなど論外だ。そもそもその話をしようとしてこんな気まずい事態になったのだから、それだけはいけないとさすがに分かる。今まで夢喰屋として、散々恋愛における失敗談の悪夢を喰らってきた。失敗談の展示会を開いたら、キールにだって勝てる自信がある。


 違う。キールに勝つ方法を考えているのではない。クーアとの仲を修復する方法が欲しいのだ。


 「恋愛の前には理屈など無意味」というキールの言葉が、私の肩に重くのしかかっていた。こういうときどうしたら正解なのか。喰らってきた悪夢の中に、それに対する答えなどない。


 午後は店を閉めて市場を巡ってみたものの、いい案が思いつかない。結局日が暮れるまで色々と見て、花屋で元気そうなルドベキアを含めた花をいくつか包んでもらい、とぼとぼ帰宅した。こんなに時間をかけたのに、なにも思いつかないとは。我ながら情けない。


 テーブルに買ってきた花を活けて、夕食の用意にとりかかる。ジェノベーゼはいけない。クーアは同じメニューが続いても文句など言わない子だが、昨日の気まずい雰囲気に繋がりそうなものは極力避けたい。

 だったらどうしようかと考えて、最終的にペペロンチーノにした。私の記憶違いでなければ、クーアに初めて食べさせたものがこれだった。あのときクーアは、泣きながら食べていた気がする。よほど美味かったに違いない。


 そうしていたら、ふとある記憶が浮かんできた。私のものではない。これは――両親の記憶だ。

 父が初めて母に贈ったものは、薄い金属製の栞だった。母がいつも使っていたものだ。私の両親は共に読書家であったから、栞という大切なものをお互い交換して、それを初めての愛情の印としたのだ。


 大切なものなら、ないこともない。

 私はそれをテーブルに用意すると、クーアを呼びに行った。


***


 ドアの向こうから姿を現したクーアは、いつものフードを被っていなかった。そんな無防備な姿のまま食卓へと姿を現したクーアが、椅子に座ろうとして活けてあった花に気づく。紅に輝く大きな瞳が、花をじっと見つめていた。店に花を飾ることはあっても、家には飾らない。そんな私が飾った花を、クーアが珍しがるのは当然だった。何気なく買ってきた花だが、それがクーアの心に触れたのかと思うと少し嬉しい。


 テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、私は用意していた本を彼女に差し出した。


「私の持ち物の中で、最も大切にしていたものだ。きみに貰って欲しい」

「どうして?」

「きみが、私にとってかけがえのない存在だからだ」


 私と古い本を交互に見ていたクーアが、そっと手を伸ばしてくる。彼女が本に触れたとき、お互いの指先がぶつかった。クーアに触れたのは初めてではないが、心を通わせたいと願ったのは、これが初めてだ。偽りのない私の気持ちを古い本に込めて、彼女へと渡す。


「その本は、読者の心持を表す鏡のような本だ。私は子供の頃から、それを何度も読み返してきた。同じ本をきみに買い与えるのは簡単だが、きみには私が幾度も読んだこの本を貰って欲しい」

「なぜ?」

「その本に刻まれている痕跡は全て、私が歩んできた歴史そのものだ。私の記憶の遺産であるものだからこそ、きみが受け取ってくれ」


 クーアが沈黙したまま、本の表紙をそっと撫でる。ややあってから、今度は彼女の方から口を開いた。


「あたしのこと、大切なの?」

「そうだ」

「じゃあ、なんであたしをこの家から追い出すの?」

「追い出すのではない。真の意味で守る為だ」


 イリュリアの片隅で私が作った魔法の鳥籠は、クーアが一生を過ごすには狭すぎる。迫害から逃れる為に作っただけの、仮の居場所なのだ。それは、クーアが本来求めている場所とは違う。


「きみは海の向こうへ行きたいと願っていた。それはハーフセイレーンであるきみが、きみらしく生きる為だ。私はきみを海の向こうへと送り出せはしないが、代わりに、きみの両親が教えられなかった生きる為に最低限必要な知識を教えたつもりだ。ここから先は、きみがその目でまっすぐ世間を見つめて、必要なものを伸ばしていくといい。それこそが真にきみを守るということであり、きみの幸せだと、私は考えている」

「あたしの幸せは、あたしが決めるわ。あなたのそばにいたいと願うこの気持ちは、誰にも変えられない」

「イリュリアにいなくても、私たちは繋がっている」

「どうやって?」

「悪夢で、だ」


 果実のような、花のような淡い甘さ。ともすれば消えてしまいそうになる儚いその匂いは、私を魅了し、私の中に深く刻まれ、もう忘れようがない。


「私が知るセイレーンの悪夢は、ハーフセイレーンであるきみのものだけだ。バクは、この世の全ての夢と繋がる闇を渡り歩ける。きみがどこかで悪夢を見続けるかぎり、私はきみのもとへ辿り着ける。牢屋のときだって、私はきみに辿り着いてみせただろう?」


 そう、私たちの関係が明白になったあの日、あの瞬間。私がバクで、クーアが悪夢を見ていなければ、私たちは永遠に再会できなかった。


「だったら」


 本をそっとテーブルに置き、クーアがじっと私を見つめる。まるで私の魂まで溶かしてしまいそうな、紅に輝く大きな瞳。その奥には、いまだ消えない巨大な悪夢の気配が濃厚に漂っている。


「あたしの夢を、食べれるだけ食べて。あたしの記憶の遺産を、あなたに受け取って欲しいの」

「いいのか?」


 クーアがこくりと頷く。


「他の誰でもなく、エル、あなたに食べて欲しいの。その代わり約束して。あたしの悪夢の匂いを、絶対忘れないって。あたしがどこにいても、必ず助けに来てくれるって」

「約束しよう」


 そう言い、私はクーアの手を取った。暗い店内へと向かい、ロッキングチェアにクーアをそっと座らせる。きい、と椅子が軋んでゆっくり揺れた。


「さあ、目を閉じて」

「前払いで三万オーレル払わなくてもいいの?」

「いらないさ。私は愛しい者の悪夢を喰らう為なら、喜んで危険を冒そう」


 クーアの両目が閉じられ、薄闇の中、紅の長い髪だけが光の粒子を振りまいている。その幻想的な光景はすっかり私を飲み込んで、悪夢の匂いと共に忘れがたいものになっていた。

 静かに上下しているクーアの胸元に片手を当て、悪夢を取り出そうとする。


「ねえエル、お願いがあるの」

「何だ?」

「全部食べないで。必ず少し残して。私がまた悪夢を見られるように」

「分かった」


 またクーアが、悪夢を見てくれるように。


 そう願い、私はクーアの中から取り出した青白い炎のような彼女の悪夢を口にした。

 舌の上で溶けるように広がる、上等なチョコレートを思わせる味わい。ナッツ系の味わいがほどけて、内側からジャスミンに似た鮮烈な花の香りがガナッシュのように溢れ出す。以前よりも大量に喰らったせいか、強い酩酊感を伴い、悪夢が私を飲み込もうとする。


 ハーフセイレーンの悪夢は、猫の悪夢などよりもよほど忘れがたい。体がそのままとろけてしまいそうなふわふわとした心地いい感覚を味わいながら、私はその場でくずおれた。


 喰らえるだけ喰らった。だが、クーアの魂に突き刺さった部分は、ちゃんと残した。きっとまたこの欠片から、甘美な悪夢が生まれる。それはクーアが家族と過ごした記憶の遺産であり、彼女と私を結びつけるただひとつの手がかりだ。私がこの匂いと味を忘れることは、永遠にない。


 椅子の肘掛けに掴まって浮遊感を味わっていたら、クーアが体を起こす気配がした。彼女が、そっと私の頭に触れる。その細い指が髪を梳いてくれる感触を味わいながら、私は暫しまどろんでいた。

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