第19話

 店の営業や日常生活の合間を縫い、クーアに簡単な家事や初歩的な魔法を教える。そうして過ごしているうちに、季節は移ろっていった。クーアと初めて出会った頃は春めいた香りがほんわかと漂っていた町も、強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ季節を迎えた。


 そろそろあの翼を持たないひな鳥も、旅立たせる頃だ。


 クーアが望む海の向こうへと羽ばたかせるなどさすがの私にもできないが、それでもこの港町から出してやる必要があった。私の作った空間で匿い続けるのは容易だが、それではクーアの為にならない。それでは、彼女の両親となにも変わらないのだ。


 もし私になにか起きても、クーアひとりで生きていけるように。


 そう考えて、家事も、生活に役立つ簡単な魔法も、教えた。もうそろそろ安全な鳥籠から解き放つ頃合いだ。


 それにあたって、私は友人の来訪を待っている。とっくに手紙は出したのだが、いったいどこで何をしているのやら、一向に音信はない。国境を越えられない彼のことだから、そのうちどこかの町で手紙を受け取るはずだ。もしも受け取ったのなら、なにか反応をして欲しいのだが。


 まあ、気ままに生きているのは友人も私も同じだ。ぼやいたところで、仕方ない。


***


 日も長くなった、夕方。店の営業を終えて片付けを済ませ、夕食を作り終えると、私は店と家の間にあるドアをゆっくり七回ノックした。これだけゆっくりノックしたのだから、「急に開けないでよ!」と怒鳴られることもなかろう。それにしても、女の子というものは扱いが難しい。


「エル!」


 ドアを開けると、まるで主人を待っていた犬のように、クーアが飛び出してきた。最近買い与えた夏用のワンピースも、目深に被ったフード付きのマントも、よくお似合いだ。買ってよかった。


「ちゃんと『エルクラートさん』と呼べ、『エルクラートさん』と。私はきみと友達になった覚えはないぞ」


 ここ数日ずっとそう言っているのだが、クーアは態度をあらためる気配がない。


「別にいいじゃない。呼び方ひとつでなにかが変わるわけじゃないし」


 クーアの生意気さは、相変わらずだ。むしろ共に暮らす時間が出来た分、図々しさが増している気がしなくもない。


 私は一応、きみの魔法の師匠なんだぞ。少しは敬意を払え。


 そう思う一方で、クーアに愛称で呼ばれるのが嫌ではない自分もいた。


 まさか、これが父性というものか?

 まだ子供どころか相手すらいないというのに、そんなものが芽生えてしまうとは。生きていると、不思議な経験をするものだ。


「ねえ、今日のご飯は?」

「ジェノベーゼだ」


 テーブルで二人分の水とフォークを用意するクーアに、皿を運びながら答える。


「クーア、明かりをつけてくれ」


 すっかり日が長くなったものの、カーテンを閉めているから明かりなしでは不便だ。私は窓を閉めているので室内は冷風を起こして冷やしていたものの、ランプには火を入れなかった。初歩的なものではあるが、練習の機会は多いに越したことはない。今日もクーアに明かりをつけさせようとしたのだ。


「任せて」


 自信満々の顔をして、クーアが手を動かす。すっかり慣れたという手つきで、ランプに無事火が灯った。うん、合格だ。

 最近のクーアは火を使って少量の炒め物もできるようになってきたから、料理で困ることはないだろう。水の扱いはちょっと雑だから洗濯ではたまにそのへんを水浸しにしているが、洗えないわけではない。元々風と相性のいいハーフセイレーンだけあって、風の扱い方は一番苦労しなかった。洗濯物がよく乾いていいことだ。地に関しては苦手そうではあるものの、地脈を読んで自分の居場所を確認したり、方角を知るといった程度はなんとかできる。


 巣立ちの頃だ。


「クーアも、もう一人前だな」

「少しは大人になった?」

「ああ。立派なものだ」


 私が教えたのは初歩的なものばかりだが、これから先はクーアが実際に生活をして、何が必要なのかを考えて体で覚えるのが一番だ。この家で教えるべきことは、なにもない。


「もう、エルのお嫁さんになれる?」

「そろそろこの家を出るにはいいだろう」


 クーアと私の言葉が、重なった。


 ……今、クーアはなんと言った?


 目の前で起こった出来事に理解が追いつかず、私は次の言葉が出てこなかった。その間に、クーアが目深に被っているフードの下から、ぽたり、と雫が落ちてくる。涎ではない。それくらい、私にだって分かる。


 クーアを、泣かせてしまった。


「あたし、邪魔だった……?」

「あ、いや、そういうわけでなくてだな」

「じゃあどうしてあたしを助けたの? なんで今まであたしを守ってくれてたの? 全部全部、エルがあたしを少しくらい好きだから、してくれてると思ってたのに……!」


 クーアは、間違いなく泣いていた。瞳は紅に輝いていても、流す涙は普通なんだな。ついそんなことを思ってしまう。


「最低!」


 言うなり、クーアは走り去ってしまった。店へと繋がるドアの方から、素早く七回ノックする音が響いてくる。続いて、勢いよくドアが閉まる音がした。


 私は、何を間違ってしまったのか。


 処刑されそうになっていたクーアを助けたのは、純粋に心配だったからだ。


 たぶん、そうだと思う。


 マルセルに「飲み方が荒い」なんて言われたあの晩の私は、クーアをその程度にしか意識していなかったはずだ。


 だったらなぜ、あの晩、私はあれほどクーアの悪夢を必死で探したんだろうか。


 もしかしたら犯人が私かもしれないとばれるような危険を冒してまで『羽なしセイレーンの呪い』をでっち上げ、七回ノックしなければ繋がらない特別な世界にクーアを匿ったのは、なぜなのか。


 自分の心の問題のはずなのに、何ひとつ分からなかった。


 子供はいつか成長し、大人になる。だからこそクーアの心は成長したというのに、私ときたら己は大人になったと思い込み、立ち止まったままだ。クーアはずっと子供のままだと、そんなありもしない幻想を抱いていた。

 クーアに抱く感情は、父性などではない。そんな成熟した大人が持つものを、私はまだ持ち合わせていない。私はクーアに尊敬されたいわけでもなければ、感謝されたいわけでもなくて、もっと別の感情で、とっくの昔から行動していた。


 もしもそれを言葉にするのだとしたら――私は今、生まれて初めて『恋』というものをしている。

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