第15話

荒い呼吸を整えたクーアが、私を見てくる。


「うっわ、ちょっ、気持ち悪いっ」


 頭部だけ見えている私へくれた最初の言葉は、それだった。牢屋マジックとでもいうのだろうか。クーアは弱っているように見えたのだが、実際は元気そうだ。そんなに心配するほどでもなかった気がする。彼女に対する申し訳ないという感情が、すっと消えた。


「もっと他に言うことはないのか」

「お酒臭い」

「すまなかったな。帰るよ」

「待って、行かないで」


 フードを被り直そうとした私に、クーアはすがりつくような声を出した。


「お願い助けて、ここから出して」

「なんだ。まともな言葉も話せるじゃないか。それで? なぜ捕まった?」

「それは……」


 クーアがごほごほと咳をする。彼女の視線の先を辿れば、牢屋の入り口付近に水の入ったぼろっちい器が置いてあった。私が想像していたよりも、この施設は非人道的な扱いを常としているらしい。この様子では、まともな食事も出ていないだろう。


 もっとも、私もクーアも人間ではないのだけれども。


 もしここに繋がれるのが人間の罪人であったら、もう少しましな扱いを受けられたのかもしれない。クーアひとりでは到底手が届かない位置に置かれたその器を持つと、私は一応匂いを嗅いでみた。普通の水っぽい。咳がおさまった彼女の口にあてがった。おそらく普通の水であろうそれを、クーアがごくごくと喉を鳴らして飲む。


「もっとゆっくり飲め。吸収されないぞ。それにそんなに飲んだら、誰か来たとばれる」

「水くらい魔法で出したらいいじゃない」

「それこそ足がつくだろうが。今魔法を使えば、ここに私の術痕が残る。きみのように間抜けな目には遭いたくないのでね」


 バクが闇を渡るのは、どの魔物も習得できる魔法とは違う。バクという種族の単なる移動手段なのだから、魔法を使ったときのような術痕など残らない。


「最低」

「なんとでも」


 だいぶ中身が減ってしまった器を、元の位置に戻す。水の減り具合に気づかれないことを願うのみだ。


「それで、なぜ捕まった?」


 クーアのそばに戻って問うと、彼女は気まずそうに口を開いた。


「密航船に乗ろうとしたときに顔を確認されて……それでばれて、衛兵に突き出されたの」

「それはまた随分とご立派な捕まり方だ」


 いくら密航船とはいえ、自分たちの安全の為にも乗客を調べる。どんなに金を詰まれたところで、セイレーンを船には乗せたくないというわけだ。町に入り込んでいた魔物として衛兵に突き出せば、密航の件はさておきクーアの扱いが優先される。クーアひとりを突き出せば、業者側は善良な者を演じつつ、自分たちの仕事からは衛兵たちの目を逸らせるから、結果的に仕事がしやすくなる。それならばセイレーンを売るに決まっていた。


「念の為確認するが、余罪はないだろうな?」

「あたしはなにもしてない。あいつらが悪いのよ。だってあたしは、ちゃんとお金だって払ったのに!」

「甘い話にほいほいつられた勉強代だ。諦めたまえ」

「……それで、なんであなたはここにいるのよ」

「なんでって、そりゃあ、捕まったまぬけなハーフセイレーンの様子を見る為だ」


 怒りを満面に浮かべたクーアが私に殴りかかろうとするが、あいにく彼女の両手は手枷で壁に繋がれている。それに気づいたクーアがならばともぞもぞ脚を動かすが、蹴りをお見舞いしてくることはなかった。私が素早く離れたせいもあるだろうが、こんな環境ではろくに食事も貰えていないはずだ。口を開くだけの体力はなんとか残っていても、素早く立ち上がれないほど弱っているとみえる。


「落ち着け。様子を見に来たと言っただろうに。きみが他になにも罪を犯してないというのなら、魔物のよしみで助けてやる」


 クーアが密出国をしようとした件は、密航船の持ち主が絶対にばらさない。そんなことをしても、自分たちにはデメリットしかないからだ。今頃他の客を乗せて海上に出ているか、クーアから巻き上げた金を使ってどこかで酒宴でも開いている。


「あたしは本当になにもしてない。信じて。汚い手段でお金を稼いだりもしてないし、誰かに危害を加えてもない」

「いいだろう、信じよう」


 クーアの表情が、初めてぱっと明るくなった。そうか、このハーフセイレーンは、人間からの迫害さえなければ、こんなあどけない素直な顔もするのか。当たり前のことのはずなのに、初めて見たクーアの表情は私にとって新鮮すぎるものだった。彼女が私を信頼してくれた証拠のような表情に、心がくすぐったくなる。


 でも、今すぐ彼女を助けるわけにはいかない。


「今はまだこのままにしておく。なぜか分かるな?」

「あなたの性格が歪んでいるから」

「……帰らせてもらう」

「待って! 嘘! 今のなし! なんでか教えて!」


 今度こそ姿を消そうと思ったが、クーアが慌てる様子は演技には見えない。どうやら本当に理由が分からないようなので、私はフードを被るのをやめた。


「あいにく私はきみにつけられている手枷や牢の鍵などは持っていないから、きみを助けるにはなにかしらの魔法を使わなければいけない。だが、この場所には術痕が残る術が施されている。人里で暮らす魔物は全員、術痕を国に登録されているんだ。だから、私は今すぐに手出しができない」


 クーアは助けてやりたいが、私まで危険に晒されてはせっかく助けても無駄になる。私は私で、自分の穏やかな生活を守りながらクーアを助けなければいけない。たとえどんなに調べられても、猫の悪夢入りの紅茶から始まるあの家での暮らしを続けていて、クーアの脱獄とは無関係だと思わせる必要があった。


「きみは明日、大広場で処刑される。助けるのはそのタイミングだ。いいか? たとえひとりごとでも、私の名前を絶対に口にするなよ。一度口にすれば、どこから綻びが出るか分からないからな。理解したか? したのならば頷け」


 私の確認に、クーアはしっかり口を閉じたまま強く頷いた。クーアは人から疎まれる魔物として生きるには甘っちょろい思考の持ち主ではあるが、馬鹿ではない。自分が助かるには方法が限られていると、理解できているはずだ。


「よし、そのまま憐れなハーフセイレーンを演じていろ。明日までの辛抱だ」


 そう言い残すと、私は今度こそフードを被った。私の姿が見えなくなったクーアが視線をさまよわせるが、声は発しない。いい子だ。そのまま明日まで待て。


 クーアの髪や瞳が発する光はあったものの、それはこの暗い牢屋においては些細なものだ。私が闇に潜る邪魔にはならない。

 目を閉じ、暗闇の中で匂いを探る。ちょうど漂ってきた甘い匂いを辿りながら、私はバクが渡る闇へと入り込んだ。そのまま闇を歩き、いくつか適当に悪夢を採取する。最終的に眠る街路樹まで辿り着くと、私は帰還魔法を使った。

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