第14話
寝室のクローゼットを開け、白と黒のツートンカラーのローブを取り出す。マントのように羽織ると、ローブの留め具を胸元で留めた。そしてフードを被れば、誰の目にも映らぬ、バクとしての本来の私になる。
バクは夢の匂いを頼りに、闇を渡る。
魔法はあれこれ習得しているものの、今は己の魔物としての特性に懸けるしかなかった。
クローゼットの中に入り、目を閉じ、嗅覚に集中する。
多くの者が眠りにつくこの時間帯、バクが渡る闇では様々な匂いが入り乱れる。濃厚なチーズのような匂い、瑞々しいレタスを思わせるしゃきっとした匂い、キャラメルのように甘くとろみのある匂い……この世のありとあらゆる夢が混在する中で、私はクーアの悪夢の匂いを探していた。
うたた寝でもいい。何らかの方法で眠らされているのでも構わない。どんな状態でもいいから、夢を見てくれ。きみが見るのは、あの魂を飲み込まんばかりの巨大な悪夢なんだろう? きみは他の夢を見ない。もしも他の夢を見る余力があるのならば、私に悪夢を喰らって欲しいなどと頼みはしなかったはずだ。あの輝く妖艶な瞳に涙を滲ませてまで頼んできたからには、悪夢に囚われ続けているのだろう?
家族との大切な思い出である、あの悪夢を見てくれ。頼むから。
匂いをひたすら探っていたら、ふと、果実のような、花のような淡い甘さが鼻先をくすぐった。雑多な夢の中に消えてしまいそうなほど儚い、けれども他とは明らかに違う匂い。
間違いない。クーアの悪夢だ。今まさに、彼女は悪夢を見ている。今しか彼女の場所を特定できるチャンスはない。何度も深く呼吸を繰り返して、薄い匂いが漂ってくる方向を探る。
そうして、私は一歩を踏み出した。
バクが渡るこの闇は、全ての夢と繋がっている。そしてこの闇には道など存在しなければ、障害物もない。己の求める匂いだけを頼りにして、ひたすらその方向へと向かうだけだ。
ともすれば消えてしまいそうな儚い匂いを、私は追いかけ続けた。ハーフセイレーンの悪夢の匂いは、青白い炎の姿のとおり掴みどころがなく、薄い。他の夢が少しだけ鼻先をかすっただけでも、見失いそうになる。だが、この地方で名を馳せるバクとしては狙いの獲物を逃がすわけにはいかない。
クーアの小さな悲鳴を拾い上げられるのは、その悪夢を知る私しかいないのだから。
そうして、どれほど歩いただろう。私は淡く香る匂いの源を突き止めた。
闇を抜けたそこは、じめじめとした場所だった。照明の類はない。ただ照明とは違うほのかな光のおかげで、かろうじて周囲の様子が見えた。案の定そこは牢屋だ。やはり捕まったセイレーンは、クーアで間違いなかった。
手枷に繋がれ、クーアが壁際でうずくまっている。いつも被っていたちょっとぼろいフードつきマントは、剥ぎ取られていた。かすかな呻き声と漂う匂いから、彼女が深い悪夢の中にいると分かる。長いまつ毛が、涙でしっとり濡れていた。
いや、涙だと思ってしまったのは私の先入観かもしれない。
それほどここは、湿気が多い。罪人や魔物を入れ置くこの場所は、海辺の地下に造られている。ここに入れられるような者は、身の安全など確保しなくていいとされた者たちであるから、町外れの余っている場所で構わないのだ。だからこんな雑な造りをしている。
イリュリアに住まう私たち魔物には、当番制で牢獄に術を施す作業が課せられている。魔法が使えない人間に代わりにおこなう、人里で住むからには逃れられない義務というやつだ。牢獄内での転送魔法の類を全て封じ、他にもなにかしらの魔法を使った際は、国に登録されている術者固有の術痕が残るようにする。そういう術をかけた覚えが、何度かあった。
魔法の使えない人間からすれば、威嚇の意味もあるのだろう。
人間に歯向かえば、おまえたちもここの奴らの仲間入りだ、と。
私に当番が回ってきたのは、いつだったか……いや、今はそんな記憶を振り返っている場合ではない。そんな目的でここに来たのではないのだ。
クーアが繋がれている牢屋の外の気配を探る。ここでは魔法を使うわけにはいかないから、己の五感に頼るしかない。暫く耳を澄ませてみたものの、何の息遣いも感じられなかった。クーアがいるこのエリアは、無人のようだ。無用心だとは思うが、ありがたい。
あらためて、クーアの状態を確認する。マントは剥ぎ取られていたが、それ以外に乱暴をされたような形跡は見られない。もちろん、服の下がどうなっているかは分からない。あくまで今見えている場所に傷がないだけだ。セイレーンとして扱われているからには、捕まる際衛兵にそこそこ痛めつけられた可能性だってある。
貞操の面では、無事なはずだ。日頃疎ましく思っているセイレーンを抱きたがる人
間などいない。むしろそんなゆるい倫理観の衛兵がいたら、魔物よりよほどたちが悪い。クーアを公開処刑にするより先に、その衛兵をどうにかした方が町の為になる。
数日会わなかっただけなのに、クーアは衰弱して見えた。クーアがずば抜けて色白というせいもあるが、それ以上に、髪の燐光だけでも分かるほど明らかに顔色が悪い。それなりに時間稼ぎとして悪夢を喰らったつもりだったが、根深い悪夢は彼女の魂を再び飲み込もうとしているようだ。
私が記憶の喪失について考えるよう、彼女に言ったせいかもしれない。思い悩めば悩むほど、悪夢の浸食は進む。そんなになるくらいなら、私の店に飛び込んでくればよかったのだ。強引に店を開けさせるほど、きみは遠慮のないやかましい小娘だったではないか。なぜ、肝心なときに私を頼らない。
苦悶の表情を浮かべるクーアがあまりにも憐れで、私はその悪夢を少しだけ取り出して食べた。クーアが助かるまで持てばいい。強烈な熱を一瞬だけ感じさせる、冬の星のような青白い炎。それを喰らった直後またしても軽い酩酊感を覚えて、私は彼女の前にひざまずいた。被っていたフードを脱ぎ、頭部だけ視認できるようにする。
「クーア。おい、クーア」
ぺちぺちと軽く頬を叩いてみる。目覚めない。深い悪夢に落ちている。
仕方ない。
私は彼女の小さな鼻をつまんだ。ついでに、もう片方の手で口も塞ぐ。
見る間に彼女の顔が紅潮し、やがて、かっと目を見開いた。輝く瞳に涙を浮かべて、なにかもごもご言って暴れている。
「静かにしろ。誰か来たら面倒だろう」
クーアに言い聞かせて、私は手を離した。
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