第13話

 エヴァンス夫妻の営む金の小鹿亭は、今夜も繁盛している。狭いが賑やかな店内。そこのカウンター席の端に腰かけ、私はオニオンスープにふうふうと息を吹きかけて冷ましていた。この店のオニオンスープは絶品だ。腹具合など忘れて際限なくおかわりしそうになるほど美味い。

 もちろんオニオンスープ以外も外さない店だから、私は月に何度かここで遅い夕食を食べていた。バクだからといって、夢しか食べないわけではない。生きる為にはごく普通の食事も欲する。バクにとって夢とは、いわば嗜好品の部類だ。


 オニオンスープをのんびり完食した頃、注文していたフィッシュアンドチップスがやってきた。今日のおすすめがこれだったというのもあるが、やはりビールといえば塩気のある揚げ物が欲しい。夜の食欲をそそる暴力的なまでのいい匂いに、そばにいた茶トラの大きな老猫まで反応する。


「駄目だ、これは私のものだ。きみはきみの餌を食べただろう」


 手で制するも、猫もなかなか引き下がらない。なんとかマダイの切り身を一口でも貰おうと、大きな体をぐねんぐねん捻って、私の制止をかいくぐろうとする。


「食べたければ、その分料金を払え」


 この猫からは以前ティースプーン一杯程度の悪夢をいただいた過去があるが、それとこれとは別だ。第一、老猫に揚げ物なんて栄養過多にもほどがある。


 猫と格闘しながらも料理を口にして、一気にビールで流し込む。塩気の効いた旨味と苦味が一つに混ざり合って、最高に心地がいい。一日労働をした甲斐があったというものだ。


「なにか嫌なことでもありましたか?」


 エヴァンス夫妻の夫、マルセルがそう問うてきたのは、三杯目のビールを注文したときだった。


「なにかあったように見えるか?」


 質問に質問を返した私に、マルセルが頷く。


「ええ。エルクラートさん、いつもより飲み方が荒いですよ」

「ふむ。気をつけよう」


 悪酔いして困らせるつもりはない。ありがたい忠告として受け取っておく。


 ちなみにあの大きな老猫はというと、私がマダイを食べ終えるとさっさとどこかへ行ってしまった。きっと今頃、どこかの客席で愛想を振りまいて餌をねだっているに違いない。猫はめげない。自分の幸せを求めて、どこまでも突き進む。


 酒場の主人として幾多の酔っ払いを見てきたマルセルから忠告されたばかりなので、少しばかり上品になった気持ちでビールに口をつける。そうしながら今日の行動を振り返ってみるが、酒に八つ当たりをするほど嫌なものなど、特には思いつかなかった。


「俺でよければ聞きますよ、その嫌なこと」

「そんなに悩んでいるように見えるのか?」

「ええ、とても」

 カウンターの中では、マルセルが丸いチーズを削っている。専用の削り器で薄く削られたチーズは白いカーネーションの花びらのようで、皿にひとつずつ盛りつけられていくほどに、どんどん華やかさを増していた。

 そうか。そういえば、バク以外は本物のチーズを食べるんだった。酒肴として人気なのは知っているが、日頃夢喰屋としてチーズもどきをひたすら食べているバクの身としては、特別食欲は湧かない。


 ただなんとなく、目の前でチーズを削るマルセルは人間で、自分は魔物なんだなと思う程度だった。


「嫌なことというのは特にないのだが」


 どうも酒というものは、口を軽くしてしまうらしい。私は頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま発してしまっていた。


「人間と魔物はなかなかうまく共存できないこともあるのだなとは、考えている」

「そうですねえ」


 チーズでカーネーションを作りながら、マルセルが言う。


「人間と同じだけ税を納めさせて、人間のルールに従って暮らさせて。そのくせ肝心なところでは人間にしか権利がないから、エルクラートさんも不自由に思うときがあるでしょう」

「たとえば、出国許可証だな」

「おや、どこかへおでかけしたいんですか?」

「いや。なんとなく思いついただけだ。忘れてくれ」

「エルクラートさんがそうおっしゃるなら、聞かなかったことにしましょう」


 か弱いくせに数ばかりは圧倒的に多い人間の定めたルール。それに従っておとなしく暮らしていても、決して手に入らない権利。生きる為にその権利を必要とする者はたしかに存在しているのに、人間が定めたルールのせいで救われない者。

 魔物から見た世界では、『人間』という存在があらゆる方面で壁として立ちふさがる。それを解決するいい方法が金だが、それすらできない者がいるのも事実だ。


 だからといって、気軽に救いの手を差し伸べようとは思わない。私たちバクは自分たちの力で今の地位を掴み取り、こうして暮らしている。私の暮らしぶりはすなわちバクの歴史そのものであり、堂々と振舞っていればいいのだ。


 それなのに。


 そうだと分かっているのに。


「気になって仕方ないものも、世の中にはあるのだな」


 クーアのことが、頭から離れなかった。


 あれからクーアは、一度も店に顔を出さなかった。私に「最低」という評価を叩きつけたきり、いつになってもあの悪夢を全て食べてくれと頼ってこない。あれほどの巨大な悪夢を全て上手く取り出せるバクは、イリュリア周辺では私程度のものだ。その自信はあるのに、肝心のクーアが私を必要としていないのだから、どうしようもなかった。


「エルクラートさん。それ、なんて言うか知ってますよ」


 チーズを削り終えたマルセルが、にやにやと笑っている。まるでなにかいたずらを思いついた子供のような笑みだ。


「何だ? 教えてもらおうか」

「恋煩いってやつですよ。あいよ、三番テーブル」

「はいよ」


 マルセルがカウンターに載せたチーズの皿を、妻のオリヴィアが素早く運んでいく。相変わらず息ぴったりの夫婦だ。


「そうかあ。それでお悩みだったんですねえ、エルクラートさん」

「恋、なあ。恋……うーん……」


 マルセルは完全に私が恋の虜だと思っているようだが、私としては実感が湧かない。何度心の中で呟いてみても、恋という言葉は目の前にただあるだけで、私にぴたりとははまらないような気がした。


「婚姻も細かいルールがありますからね。お相手については詮索しませんけど、応援してますよ」


 にっと笑い、丸い拳を握りしめてみせるマルセル。酒場は町の噂が集まる場所なのだから、もしも私が結婚でもしようものなら、マルセルの耳には勝手に話が飛び込む。今ここで詮索する必要がないというわけだ。


 人里でどんなに上手く暮らしたところで、バクにも魔物ゆえの制約はつきまとう。そのひとつが、婚姻だ。許可されないわけではない。ただ、相手をよく選べという話だ。


 間違っても人間の不利益にならないようにしろ。


 面倒なルールを一言でまとめると、そうなる。

 人間と魔物が結婚し、子を成した場合、生まれてくる子供は三タイプに分かれる。


 ひとつは、純粋な人間。

 もうひとつは、純粋な魔物。

 そして最後は、クーアのようなハーフ。


 種族の異なる魔物同士だったとしても、この法則は変わらない。ただし、夢が合わなければ子供は生まれない。夢は魂から生まれるものだから、その魂の波長が合わないのだ。どんなに仲がいい夫婦だとしても、こればかりはどうしようもない。

 たまに子供欲しさに夢屋を使って強引に夢を合わせようとする者もいるが、そういった者が辿る道はだいたいが離婚だ。大規模な夢の入れ替えをした結果、夢主の精神に影響を及ぼし、性格が変わって夫婦生活自体が成立しなくなるのだ。


 仮に、万が一、マルセルが言うように私がクーアに恋心を抱いていたとしよう。バクと夢が合わない魔物など滅多にいないから、その気になれば子供が生まれるはずだ。

 だがその子供は、純粋なバクであった場合以外は世間から存在を認められない。たとえほんの少しだったとしても、セイレーンの要素を人間が許容するわけがないのだ。


 つまり私とクーアは、結婚ができない。


 そんな実を結ばぬ結末が見えていて、どうして恋などといった浮かれたものを享受できるだろうか。


 残っていた三杯目のビールを流し込むと、やけに苦く感じられた。酒が不味くなってきた。つまり、私はご機嫌ななめという状態にある。これ以上無理に飲んでも、到底愉快な気分にはなるまい。私は引き上げることにした。


「今日はこれで終いにする。いくらだ?」

「三十オーレルちょうどです」


 三杯も飲んで満腹になるほど食べたら、妥当な外食の金額だ。理不尽な価格設定でないのも、金の小鹿亭のいいところだった。


「そういえばエルクラートさん、セイレーンの噂はもう聞きましたか?」


 席を立った私に、マルセルが釣銭と共にそんな話を渡してくる。


「セイレーンの噂?」

「あれ、まだ知らなかったんですか。昨晩、町に入り込んでいたセイレーンが捕まったんですよ。明日の九時に、大広場で処刑だとか。なんでもそのセイレーン、珍しいことに羽がないらしいんです。セイレーンって海の上を飛んでるはずでしょう? 羽もないのに、どうやって町に入り込んだんですかね」


 まれに行われる、大広場での公開処刑。それは罪人のときであったり、なにか人に害をもたらした魔物のときであったりする。


 人間のルールに従わなかった者はこうなるのだと見せしめる、野蛮な行為だ。


 公開処刑など、人間くらいしかおこなわない。一息に仕留めにかかるだけ、まだ野にいる魔物の方が優しい。

 人間にとってはスリリングな娯楽と化している公開処刑に処される、羽のないセイレーン。


 それは、あの小生意気なクーアではないのか?


 店から出るまでは平静を保っていたが、繁華街から離れる頃には自然と早足になり――完全に酔いの醒めた私は、いつの間にか自宅に向かって走り出していた。

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