第12話

 クーアの魅力的な悪夢の残りである艶めいた黒い煙を、胸元に押しつけるようにする。すうっと吸い込まれるように、悪夢が彼女の中へと戻っていった。


「目を開けて」


 声をかければ、クーアがゆっくりと目を開く。紅の淡い光が、再び瞳から溢れ出した。焦点が合っていないぼんやりとした彼女の瞳から、悪夢と魂の状態を確認する。私が食べた量はさほど多くないが、それでもクーアの魂は、その姿をはっきりさせていた。少なくとも、輪郭ははっきりと見える。ただし魂に深く食い込んだ悪夢の芯には手を出さなかったから、熟成した悪夢のせいで魂は濁ったままだった。


「……終わり、なの?」


 クーアの目がしっかり私を捉える。

「初回無料は、ここまでだ」

「あたし、もうあの夢を見なくていいのね」

「いや、きみはまだまだあの夢を見るよ。何度でも山中の家に母娘で閉じ込められて、村人たちに火を放たれる。きみを逃がす為に、母親は生きたまま焼かれ、それでも村人と戦うんだ。そんな夢を、これからも見続ける」

「なんでっ……!」


 クーアの表情が険しくなった。


「なんで全部食べてくれなかったの!」


 ロッキングチェアの反動を活かして勢いよく立ち上がると、クーアは私の胸ぐらに掴みかかってきた。燃える瞳が、私を見上げてくる。小さな口が必死の声を上げていた。


「あたしは、あんたが悪夢を根こそぎ食べられるバクだから来たの! ちゃんと全部食べてよ!」

「最初に言ったはずだ、『初回は無料』だと。どうしてもこれ以上食べて欲しければ、出すものを出せ」

「そんなのいくらだって出すわよ! だからあたしのこの悪夢を」

「本当に食べてしまってもいいのかい? 家族との大切な思い出である記憶を、全て」


 クーアが悔しげに口を閉ざした。悪夢を喰らわれたからには、クーアの秘め事は私には筒抜けだ。


 人間とセイレーンが、人里でまともに暮らせるはずがない。クーアたち家族は、とある山中で隠れるように居を構え、そこで暮らしていた。

 だがセイレーンという魔物にも愛という感情があるとは、普通の人間には理解し難いものだった。時折父親が下りていた村の人間たちは、セイレーンという魔物に恐怖した。それは人間からしたら正しい感情かもしれないが、その感情が巻き起こした悲劇は常軌を逸していた。


 村からの帰り道で後をつけられていた父親は、家の前で村人に捕まり、首を刎ねられた。家族三人が住んでいた小さな家は取り囲まれ、全ての出入り口を塞いだ状態で火が放たれたのだ。燃え盛る家からなんとかクーアだけでも逃がそうと、母親は戦おうとした。しかしセイレーンが得意とする風の魔法は、火との相性が良過ぎる。それでも母親は己の魔法で勢いを増した炎に生きて焼かれながらも家の裏口を壊し、見張っていた村人たちの集団とたったひとりで戦い、そしてクーアを逃した。


 着の身着のままでクーアが旅に出るしかなかった理由が、この悪夢だ。


 だがこの悪夢には、あまりにも多くの記憶が紐づいている。母親の子守歌。頭を撫でてくれる父親の大きな手。クーアが一身に受けた両親の恵愛。


 この世で生を祝福してくれる存在は、両親だけであったクーア。そんな彼女の完熟した悪夢には、家族との思い出が全て紐づけられていた。


「悪夢も記憶の遺産だ。夢屋のふりをするしかなかったきみでも、悪夢を根こそぎ喰らえば何が起こるかぐらい知っているだろう?」

「……記憶の、喪失っ……」

「そうだ。なかなかに賢いな。きみの悪夢は食べ頃で魅力的ではあるが、それを喰らい尽くせば家族の記憶を全て巻き込むほどに成長している。私は夢主の希望と報酬さえあれば悪夢を欠片も残さず喰らうが、それはつまり、夢主が記憶の遺産を全て失うということだ」


 私の胸ぐらを掴んでいたクーアの手が、ぶるぶると震えている。苦しみからの解放が幸せばかりとは限らない。記憶の大半を失ったクーアは、もう二度とあの幸せだった日々の思い出に浸れなくなるのだ。


「決して人里には降りられずとも、両親の愛情で溢れていたきみの記憶。それを失ってでも悪夢を根こそぎ喰らって欲しいのかと、私は問うている」


 クーアが別の大陸に行きたいという理由は簡単だ。セイレーンを疎まない場所、ハーフセイレーンでも受け入れられる場所が欲しいのだ。


 残念ながらこのイリュリアがある地域一帯――いや、世界で最も大きな島と言った方が正しいか――では、海洋国家しかない為セイレーンは疎まれている。クーアの両親がどんな経緯で結ばれたかなど私には知る由もないが、この環境下でそれは非常にまれな関係だった。人間が悪魔と結婚するようなものだ。人間を食い物にすることを好む悪魔との婚礼など、祝福する人間はいない。


 だがクーアは、渡航に必要な出国許可証は絶対に手に入れられない。それどころか、同じ島内にあっても別の国に行くことすらできない。


 魔物に出国許可証は与えられないのだ。


 あれは国家という枠組みでエリアを勝手に分けた人間用のものであり、魔物はいくら税金を納めたところで一生手に入れられることなどできない。

 人権とは、人間にしか与えられない権利なのだから。

 たとえ良心的な密航船と縁があって別の大陸へ行けたとしても、そこがクーアを受け入れてくれる場所だという保証はない。むしろ海沿いの地域ならば、ここと同じように苛烈なセイレーン差別を受けるだけだ。

 クーアが選択できる道など、最初からひとつしかない。


 人にばれないよう、息を潜めて生きる。


 それだけだ。


 母親がその命と引き換えに逃がした大切な娘として、生きていかなければならない。もしもクーアが自ら命を絶とうとすれば、それは母親の命を無駄に散らせたことになってしまう。まるで呪縛のような生に、クーアは囚われていた。


 この事実は、クーアもよく分かっているはずだ。しかしそれを受け入れられるほど、彼女の精神は頑強ではない。ずっと大切に守り育てられてきた存在に、急に「強く生きろ」と言うのは残酷だ。だからこそクーアはこうして、私を魅了するほどの悪夢に悩まされている。


「家族と決別する覚悟が出来たら、また来るといい」


 大きな燃える瞳に涙を滲ませたクーアに、私はそっとフードを被せた。私の服を掴んでいた小さな手から力が抜け、だらりと下ろされる。

 店中のカーテンを開け、入り口のドアを開錠する。


「次回の料金は、三万オーレルだ」


 もう私の用は済んだ。ハーフセイレーンの悪夢というレア物をもっと食べたいという欲はないわけではないが、ここから先はクーアの記憶の喪失に繋がる危険な領域だ。私は構わないが、クーアにはまだ迷いが残っている。

 私の欲をそれなりに満たす代わりに、クーアがこれから暫く生きていける程度には悪夢を喰らい、精神的な負担を取り払った。ここから先に進みたいのならば、まずはクーア自身が覚悟を決めてもらわなければいけない。その為の時間稼ぎはさせてもらったつもりだ。

「最低! あんたなんか、最低!」


 そう叫び、クーアは午後の街へと飛び出していった。

 私はこの店の中で、彼女に一度も嘘をついていない。「最低」という評価は、あまりにも彼女の主観に寄り添い過ぎている。だがまあ、誉め言葉として一応受け取っておく。なにも評価がないよりは多少なりとも反応があった方が、未知のものに手を出した甲斐があったというものだ。


 そう。たとえ「最低」だとしても、それはクーアが私につけた評価だ。


 なのに、なぜだろう。この虚しさは。先ほどハーフセイレーンの悪夢を口にして満足感を覚えたはずなのに、なにかが虚しい。


 私は、なにかを間違ってしまったのだろうか。


 教えてくれるような記憶の遺産は、私の中にはない。

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