第10話
最近昼間はとても温かいから、私は営業中、店の窓を開けていた。そうしてロッキングチェアに揺られていると、ゆるゆると眠気がやってくる。読み終えた本を閉じて、優しい春風を浴びながら私はうたた寝をしていた。
春はいい。
いくらでも眠れる。
寝ている間は、何の邪魔も入らない。無敵の時間だ。
……いや、そうでもなかった。
人里で暮らすバクの悲しいところだ。入口のドアベルが鳴り、来客を告げる。夢喰屋として生活しているからには、ネムノキのそばで、いつでも好きなだけ眠っていられるわけではなかった。
「また寝てる」
聞こえてきた声はいつもの覇気こそないものの、若干の呆れをはらんでいた。
「バクはよく寝るものだよ。それが習性だ」
姿勢を起こさなくても分かるクーアの声に、私はそう応えた。
「きみにもそういった習性が、なにかしらあるんじゃないかい?」
「どういう意味?」
「そのままだよ。それにまつわる話がしたいから、ここに来たんだろうに。違うなら、帰ってくれ。きみと商売の話をするつもりはない」
私は立ち上がると、近くの窓を閉めた。こうしてしまえば、店内の音が外に漏れずに済む。ついでにカーテンも閉めた。クーアにとっては、この環境の方がなにかと都合がいいはずだ。
「『はい』もしくは『いいえ』くらい、言ったらどうだ? ここは黙する場所ではない。心の内をさらけ出す場所だ。夢喰屋に来てなにも語らないなど、無駄の極み」
店の真ん中に突っ立ったままのクーアに声をかけながら歩き回るが、彼女はなにも言い出さない。どちらかの返事がなければ、店内に張り巡らせた嘘探知の魔術も反応しようがないではないか。
他の窓のカーテンを閉めて入り口のドアに施錠をすると、私たちだけを閉じ込めた箱が完成した。これでもう、外部からの干渉は受けずに済む。ここならば、クーアはありのままの自分を出せるはずだ。
ここまでしてもなお、クーアは沈黙を保っていた。
いいだろう。こちらも更に手を打つだけだ。
「それともはっきり言われないと分からないか? 翼を持たぬセイレーンの小娘。いや、海の魔女という呼び名の方がお好みかな?」
言うなり、私はクーアの背後から彼女のフードを引っ張った。透けるほど白い手が端を掴むより早くフードが脱げ、頭部が露わになる。フードを掴み損ねた華奢な手が頭部を隠そうとするが、無駄だ。
低めの位置でくるくるとまとめられた髪は、薄暗くした店内でも分かるほど鮮やかな紅。そう、髪自体が淡い光を発している。髪が発光する存在など、多くはない。ましてその色が血を連想させるほど鮮やかな紅となれば、それはセイレーンのみが持つ特別な髪以外の何物でもないのだ。
バクである私の青い髪とは違う鮮やかな色に、暫し心を奪われる。知識として知ってはいても実際に見るのは初めてであったから、その美しさは私の心に強く焼きついた。
「……人の正体暴いて、満足した?」
ゆっくり振り向いたクーアが、大きな瞳で睨みつけてくる。背丈は私の胸元あたりまでしかない小柄な娘のくせに、燃えるように輝く紅の瞳で私を見てくるその姿に、私はぞくりとした。
セイレーンの悪夢など、口にしたことがない。私の記憶の遺産にも、そんなものはない。いったいどんな形状で、どんな味がするのだ。匂いはあるのか。
バクとして生きてきて初めて、私は夢主に魅了されていた。
さあ、ここに来たからには早くその悪夢を私に食べさせてくれ。ほんの少し、魂に傷をつけない程度でいいから、味見をさせてくれ。
未知の味を、私に教えてくれ。
「セイレーンの瞳が光るというのは、本当なんだな」
「バクの瞳が金色っていうのも、本当なのね」
お互い抱いた感情は違うが、私とクーアは暫し見つめ合った。
いけない。見れば見るほど、早く食べたくなる。
私は自分を分別のあるバクだと思っていたが、いまだ知らぬ味を求める気持ちは、見境のないバクのそれに近かった。夢喰屋をしているからには様々な悪夢を口にするし、お気に入りの悪夢は夢屋から買って日常でも口にしている。だがそんなものでは満たされない渇望が、私の中で渦を巻く。
「商売の話がしたくてきたわけじゃないのは、本当よ」
クーアの言葉に、嘘探知の魔術は反応しない。あのやかましい術が発動しないということは、クーアはやましい理由から私を訪ねてきたのではないと分かる。
「あたしの悪夢を、食べて欲しいの」
私の目をじっと見たまま、クーアははっきりとそう口にした。淡く紅に輝く瞳から覗く悪夢は、巨大だ。魂を飲み込みかけている。甘い夢で船を遭難させるセイレーンが、己の悪夢で遭難しかけていた。
そんなクーアの瞳が、じわりと水気をはらむ。浮かんだ涙に、紅の光が反射していた。
「料金が前払いなのも、高いのも知ってる。でもお願いだから、欠片も残さず食べて。有名なバクのエルクラートさんなら、全部食べられるんでしょ?」
「きみは別の大陸に行きたくて、資金を稼いでいたのではなかったかな」
「もう限界なの。このままだと、別の大陸に行く前にあたしの心が壊れる。だからお願い、あたしの悪夢を食べて」
甘い夢を振りまくのを得意とするセイレーンの悪夢。これ以上ない希少夢だ。ついにやけそうになる口元を、私は手で覆った。
いけない。
これ以上クーアの瞳を見つめ続けていたら、欲望に飲み込まれてしまいそうだ。
強い視線を避けるように、私はロッキングチェアへと向かった。
「こちらへどうぞ、セイレーンのお嬢さん。魔物のよしみで、初回は無料にしてあげよう」
「本当?」
「ああ、本当だ」
私の言葉にも、嘘偽りなどない。セイレーンの悪夢なんて珍味が食べられるのならば、むしろこちらが金を出してもいいくらいだ。
そんな私の腹の中など知らぬクーアは、無料という言葉につられてあっさりロッキングチェアに腰かけた。
ちょろい。
密航船などに乗ろうとしたら、あっさり騙されるレベルだ。この甘っちょろい思考で旅をしてきて、今までよく誰にも狩られなかったものだ。初めてこの店を訪れたとき、クーアはアーサーという人間と共にトラキア山脈を越えてきたと話していた。陸路を行くセイレーンなど、珍し過ぎる。よくどんな魔物や人間の手にかからず私のところへ到着してくれたと、私は彼女に対して心から祝福を送った。
……ん? でもなぜ誰もクーアを襲わなかったんだ?
野盗の人間ならまだしも、山に棲む魔物が襲わなかったのが引っかかる。セイレーンであるクーアの存在を、匂いなりなんなりで感知した者はいなかったのか? そんなはずはない。本来いないはずのものがそこにいたら、なにかしらの魔物が気づくはずだ。
それでもクーアを見逃したのは、なぜだ。
『本当にこの娘は、セイレーンなのか?』
そんな疑問が、私の中で首をもたげた。
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