二章 魔物

第9話

 小腹が空いた。


 風呂に入って新しいパジャマに着替え、そろそろ寝ようかと思い、読んでいた本を閉じてからのことだった。普通の小腹なら我慢して寝たかもしれないが、わりと大きめの小腹が空いている。このままでは、さすがの私でもなかなか眠れそうにない。

 しかしもう歯磨きだってしてしまった。あとは枕元の明かりを消したら、朝までおやすみだ。今からなにかを作るのは、正直言って面倒くさい。エヴァンス夫妻が営む金の小鹿亭はまだ開いているはずだから、駆け込めばなにか食べられる。だが、今から着替えて外出というのもこれまた面倒だ。


 そんなときに、その匂いが漂ってきた。


 ああ……なんというタイミングで香るのだ。そんなに美味そうな匂いがしていたら、我慢できなくなるではないか。


 大きい小腹を空かせた私は結局耐えられずに、ハーフケットを肩に羽織ると、キッチンにあった小瓶を手に庭へと出た。


 春にしては少し冷える夜。庭では、ネムノキがなんとも香ばしい匂いを漂わせていた。

 鳥の羽根のような形状の葉をぴたりと折りたたんで眠るネムノキは、悪夢をみているようだ。植物も生きているからには眠る。そして眠るからには、時折悪夢を見る。しかし悪夢の匂いは、バクにしか分からない。


 バクとして生きるにしても、夢喰屋を営むにしても、この大きなネムノキは私にとって欠かせない存在だ。だがそれらを抜きにしても、ネムノキが嫌いだというバクはまずいない。この木はよく夢を見る。特に悪夢は、大きい小腹を空かせているこんな夜中には、もってこいだ。


 ネムノキに歩み寄り、目前に垂れている葉に片手をかざす。反時計回りにくるくると撫でるように手を回せば、ぴたりと閉じた葉からはもやもやと細い煙がのぼってきた。煙が拳大の量になったところで、手を止める。煙の下に小瓶を添えると、ぽたり、ぽたり、と雫が落ちてきた。淡い琥珀色のこれこそが、ネムノキの悪夢だ。採取しているそばから、香ばしい匂いで私の鼻先をいたずらにくすぐる。ああ、早く食べたい。


 やっと瓶の底にうっすらと琥珀色の層ができたところで、私は悪夢の採取を終えた。どんな悪夢とて、記憶の遺産だ。この家にずっと昔から植えられ、私よりも長い年月を過ごしてきたこのネムノキの、大切な心の養分である。多く取り過ぎてしまったら、木が内側から崩壊して枯れてしまう。


 もうこれ以上我慢できない。


 宅内に戻ろうとしたとき、


「……そんな恰好で、何してるの?」


 怪訝そうな物言いが、通りの方から投げかけられた。なんというタイミングで現れるのだ。こちらは今、とても忙しいのに。


「そういうきみこそ、こんな時間にほっつき歩いてどうした。イリュリアはそれなりに治安はいいが、きみみたいな小娘の夜歩きは感心しないな」


 ネムノキがよく見えるよう低くしてある塀の向こう。そこから私を見ているのは、先週私の作ったペペロンチーノを泣きながら平らげて飛び出していったクーアだった。目深に被ったフードも相変わらずだ。それでも洗濯くらいはしているようで、目立つ汚れは見当たらない。夢屋として商売をしているのなら、どこか宿に泊まる金くらいは持っているのだろう。


 というか、帰る場所がないと言っていた彼女は、宿を取るしかない。野宿なんてしていたら、まず衛兵に捕まる。


「まさか宿賃が尽きて、身売りか? それこそやめておいた方がいい。来るのは客よりも、衛兵が先だ」

「うるさい変態!」


 せっかく優しく忠告したのに、変態呼ばわりとは失礼な。そう言いかけた私の鼻を、香ばしい匂いがくすぐった。そうだ、今はこんな小娘の相手をしている場合ではない。


「悪いが、相手をしている暇はないんだ。早く宿に帰れ」

「待って」

「何だ? 私は急いでいるんだ。用件があるなら、明日にしろ」

「明日の何時ならいい?」

「前にも言ったはずだ。うちは予約制ではない。夢喰屋に用事があるなら、店が開いているときに来てくれ」


 それだけを伝えると、私は今度こそ宅内に戻った。


 クーアなら大丈夫だ。イリュリアの町は、衛兵がしっかり夜警をしている。もちろんそれはクーアが目指している密航者という存在を防ぐ為でもあるが、ついでに彼女が望まぬ身売りをするのも防いでくれる。一晩くらいは牢屋という低ランクの部屋をあてがってもらえるはずだ。


 ネムノキの悪夢を持ち、私は夜のキッチンへと急いだ。ランプに魔法で火を灯し、さっそく調理を始める。ネムノキの悪夢に、今日手に入れた人間の悪夢を細かく削って入れる。人間は傷つくと分かっている恋愛にすぐ手を出すから、この手の硬くて少量の悪夢は手に入りやすい。そしてそんな悪夢は、粉チーズ代わりに最適だった。更に、オリーブオイルを少々。植物の夢はさらりとした水状なので、油を足さなければサラダに絡みにくい。


 小瓶に蓋をして、思い切り上下に振る。激しければ激しいほどいい。数十秒ほど振り続けて、私は手を止めた。なんだか体が温まって、ちょっと目が覚めてきた。でも問題ない。このサラダを食べたら、必ず眠れる。

 激しく振られた小瓶の中には、乳化した液体があった。悪夢ドレッシングの完成だ。

 冷却魔術で冷え冷えの食糧保存庫からレタスを五枚ほど取り出し、さっと水で洗ってから、一口大に千切って皿に盛りつける。誰かに振舞うご立派な料理ではないから、雑で構わない。

 レタスの上に、悪夢ドレッシングを全部回しかける。たっぷり悪夢ドレッシングをかけたサラダに、私はその場でフォークを突き立てた。私しか住んでいない我が家では、私がマナーブックだ。そして私のマナーブックには、こうした食べ方は立食パーティーと記されている。


 しゃくしゃくとしたレタスの瑞々しさに絡まる。悪夢ドレッシング。ネムノキの悪夢の香ばしさが真っ先に鼻腔に抜けて、軽い酸味と卵のようなコク、それにかすかなスパイシーさが舌の上に広がる。そこを転がる、人間の悪夢。その風味はまさにチーズで、ネムノキの悪夢と絡み合って食が進む。

 ごく簡単なレシピではあるが、どれほど食べても飽きることがない。バクしか知らない。バクだけの絶品ドレッシングだ。ネムノキと共に生きるバクで、これが嫌いだと言う者はまずいない。よく夢を見る木というだけでなくこんな美味いごちそうにありつけるのだから、皆ネムノキと暮らすのだ。


 すっかり食べきってしまうと、またゆるゆると眠気がこみ上げてきた。ネムノキの見る夢には、強い睡眠効果がある。そのせいだ。


 そうかあ。ネムノキ、今夜は珍しく少し冷えたから、そのせいで悪夢を見ていたのか。明日は暖かくなるといいな。そうしたら、今度はいい夢が食べられるかもしれない。ネムノキの夢は、どれも美味い。


 食器を片づけるのは、朝でいいか。


 私はキッチンに食器を置きっぱなしにすると、歯磨きをしてベッドに向かった。

 今夜はいい夢が見られそうだ。

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