第8話
手早く作れる昼食といえばパスタだ。哀れな仔犬のようなクーアの腹にも溜まるだろう。二人分のペペロンチーノを作り、片方の皿を、食卓でじっと座るクーアへと差し出す。職業柄チーズもどきには困らない生活をしているので、我が家には普通のチーズといった気の利いたものはない。ついさっき手に入れたアイラの硬過ぎる悪夢は、私の皿にだけ削ってかけた。
そんな様子を見ながら、クーアがぼそっと呟く。
「悪夢って、美味しいの?」
「悪夢によりけりだ。食べるか?」
まだアイラの悪夢は残っている。私はそれをクーアに差し出してみせた。興味津々といった様子で、クーアが手を伸ばそうとする。
「あたしが食べても平気?」
「ああ。腹を下すだけだ」
「最低」
クーアがしゅっと手を引っ込めた。なんだ、そんなに気になるなら分けてやろうと思ったのに、いらないのか。
直後、食卓にやたら大きな腹の虫の鳴き声が響いた。
私のものではない。まるで自白するように、クーアが身を縮こまらせている。ひょっとして、こいつにも恥ずかしいという感情があるのか? 腹くらい誰でも鳴るのだし、気にするものでもなかろうに。よく分からない娘だ。
「無料にしておいてやる。おかわりはないが、食え」
「あなたってよく分からない」
「それはお互い様だ。私もきみのことなど分からない」
残りのアイラの悪夢をキッチンへと戻し、私もテーブルにつく。この家で誰かと食事を共にするのは、何年ぶりだろうか。昔は母が座っていた席にちょこんと座っているクーアを一瞥して、私は朝食兼昼食へと手をつけた。
そのままじっとしているのも気まずいのか、それとも空腹が耐えられなくなったのか。あるいは、そのどちらもなのか。ついさっき「最低」と評価した私の前で、クーアもまた、もそもそと食事を始めた。
特に話題もないので沈黙して食べていたら、
「なんでっ……なんで性格は最低な男のくせに、料理は上手なのよ……!」
クーアが突然泣き始めた。
なんだ、どうした。泣くほど美味しいのか。それならばよかったのだが。けれども頼むから、ずびずび泣きながら食べ続けないでくれないか。どっちかにして欲しい。見た目が忙しくて落ち着かないから、どちらかひとつに集中してくれ。
結局どう対応していいか分からなかったから、私はそのまま食事を続けた。そんな食卓で、クーアの方が先に食べ終わる。
「おかわりはいるか? あいにくこれしかないが」
よほど腹が減っていた様子のクーアに、まだ中身の残っている私の皿を差し出してみる。不倫と失恋でかちかちに硬いアイラの夢をまぶしてしまったが、食べられないことはない。だがそんな私に飛んできたのは、
「いらないわよ! だって悪夢食べたらお腹下っちゃうんでしょ!」
泣きながら半ギレるクーアの叫びだった。
なにもかもが分からない。帰る場所がないというから食事を食べさせれば泣くし、食べ足りないのかと気を遣えば怒るし。扱いに困る。どうやったらこの子は出ていってくれるんだ。
「で、帰る場所がないならこの後どうするんだ?」
差し出した皿を手元に戻すと、私はクーアに問うてみた。相変わらず嗚咽を漏らしながらも、クーアが答える。
「お金を貯めて、船に乗るの。ここじゃない別の大陸に行く船に」
「家出か?」
「家なんてとっくの昔になくなったわ。燃やされたの」
住んでいた場所が焼き討ちにでも遭って、一家離散したのかもしれない。そう考えた私だったが、すぐにそんなはずないなと思い直す。焼き討ちなんて物騒な出来事が起こるような戦争があったのは、私が生まれるよりずっと昔の出来事だ。私が生きている間。そんな不穏な話は噂とて耳にした覚えがない。
ということは、クーアの家は放火でもされてなくなったのか。そのときに負った火傷でも残っていて、それを人に見られたくないからとフードを目深に被っているのかもしれない。世の女性は、だいたいが見た目の傷に気を遣う。特に人間は美醜へのこだわりが強いから、ちょっとの傷でも大騒ぎだ。傷の有無で奴隷としての商品価値が下がるなんて話もあるらしい。
そんなクーアは、ここではない別の大陸に行きたいという。たしかに船はイリュリアから出ているが、それに乗るにはいくつかの手順が必要だ。
まず第一に、出国許可証を取得しなければいけない。人間が定めた面倒なルールのひとつだ。
「出国許可証は?」
「ないわ。あたしじゃ取れない」
初手から詰んでいる。クーアの言葉に、私は呆れ半分でため息をついた。
正規の出国許可証が得られないとすれば、あとは密航船くらいしか方法がない。到底泳げるような距離ではないからだ。だがそんなやましい船が、クーアをちゃんと目的地へと運んでくれるだろうか。
否、まずありえない。
見ているかぎり、クーアは金目のものをもっているようには思いにくい。世の中には金さえ詰めばいくらでもいいなりになるタイプもいるが、そんな者を手玉に取るような方法は取れなさそうだ。
何らかの方法で、クーアが密航船に乗れたとしよう。
確実に、そのまま奴隷市場行きだ。
夢屋をしているということはクーアはなんらかの魔物であるのだが、それでも女の子というだけで、付加価値のついた奴隷になる。もしもクーアの容姿が端麗であれば、更に高値が期待できる。
しかしどんなに高値の奴隷になろうが、結局クーアは別の大陸へは辿り着けない。想像の中で色々と可能性を探るが、成功する未来が見えなかった。
「出国許可証は取れないけど、それでもあたしは、行かないといけないの。ここじゃない、別の大陸に。その為に、夢屋でお金を貯めながらここまできたの」
「別の大陸ねえ」
残っていたパスタを食べ終え、水を一口飲む。
「過去に何があったのかは詮索しないが、きみが思い描いているほど、現実は甘くない。せっかく金をかき集めても、密航船はそれをふんだくるだけふんだくって、きみをどこかへ売り飛ばすかもしれないんだ。もしも仮に無事別の大陸に着いたとしよう。そこできみがうまく生きていける可能性はどれくらいだ? 塩ひとつまみ分もないように思えるのだが。諦めて家族のもとへ帰るのをお勧めするがね」
「あなたには分からないわ。だってあなたはバクとして、何不自由なく生きてるじゃない。どんなに平穏に生きていたくたって、それが許されない者もいるの。そういう場所なのよ、ここは。あたしは生きる為に、この土地を出たいの。出なきゃいけないの」
だから、とクーアが言葉を続ける。
「お願い、エルクラートさん。お金貯めるの手伝って。とびきり儲かりそうな悪夢を見つけてくるから。ね? あなたにも悪い話じゃないと思うの。いいでしょ?」
「ひとつだけ、忠告がある」
「何?」
「『うまい話には、罠がある』、だ。これから先、役に立つ。覚えておくといい。ちなみに私は、うまい話には乗らない主義だ。金など生活に困らない程度あればいい。ただ静かに生きていたいんだよ」
食卓に舞い降りる、静寂。
私が水の入ったコップをテーブルに置くのと、クーアが勢いよく立ち上がるのは、ほぼ同時だった。彼女のあまりの勢いに椅子が倒れて、耳障りな音を生む。私はつい顔をしかめた。
「分かった。もういい、頼まない」
硬い声でそう言い放ち、クーアが部屋を出ていこうとする。
「パスタ、美味しかった。じゃあね」
そんなクーアを引き留める理由などこれっぽっちもなかったから、私はそのままクーアを見送った。
見送ってから、今見た光景の中になにか違和感があったなと思い返す。
クーアが立ち上がったあの一瞬、少しだけ彼女の顔が見えた。はっきりとは分からなかったが――その目は、鮮やかな紅の輝きを放っていたような気がする。
綺麗に完食された皿を眺めながら、クーアの目を何度も思い返す。
当たり前だが、人間の目は発光しない。もし発光するなら、照明器具など不要だ。
ちなみにバクである私の目は金色だが、もちろん光を放ちなどしない。目は物の喩えで光りはすれども、実際に輝くなどまずないのだ。
では、クーアのあの目は何なのか。
「……海の魔女、か」
海の魔女の二つ名を持つ魔物、セイレーン。海上を背中の翼で自由に舞い、航海する者に甘い夢を振りまいて、遭難させる魔物だ。その瞳は抉り出してもなお鮮やかな紅に輝くので、一部では『燃える宝石』として珍重されるという。
クーアの目は、セイレーンのそれとしか思えなかった。
もしもクーアがセイレーンだとすれば、フードで姿を隠しながら夢屋をしているというのも納得がいく。セイレーンは自由気ままな振る舞いで船を遭難させるものだから、人間からは疎まれている。そんなセイレーンが町を歩くには、目立つ外見は邪魔になる。
そしてセイレーンは、甘い夢を作り続ける。いい夢はよく売れるから、金を稼ぐのにはもってこいだ。
しかしセイレーンは、悪夢を取り出すことには向かない。そもそも悪夢になど興味はなく、甘い夢を作り続ける種族だ。それゆえに、夢を採取する方法を知る必要がない。だからクーアは甘い夢を売る代わりに、悪夢を綺麗に喰らい尽くす私を頼ってきたのだろう。
だが、なぜ海の島などに生息するセイレーンが、このイリュリアにいるのか。トラキア山脈を越えてきたとクーアは話していたが、海と山は当然方向が逆だ。海の魔物が、なぜ陸にいるのだ。
それに、肝心の翼はどうした。陸に住むハルピュイアのように背中から生えている、大きな翼。あの華奢な体には、そんなものついていなかった。
己の持つ記憶の遺産を総動員して考えてみたものの、さっぱり答えは出なかった。
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