第5話
いつになく夢見の悪い朝だった。まだ目覚めたという実感が湧かず、夢に囚われているような気がしてならない。寝ては悪夢に苦しめられ、逃げるように起きては、また悪夢に引きずり戻される。そんな酷い睡眠だったせいも大きい。
薄暗がりの中で枕元の時計に目をこらせば、時刻は午前四時。私はパン屋でも漁師でもないから、起きるにはまだ早い。それでもこれ以上寝直す気にもなれなくて、私はベッドから逃げ出した。ここで体を横たえていると、またあの悪夢に引きずり込まれそうで、恐ろしかったのだ。
悪夢を喰らうバクが、悪夢に絡めとられ、それを恐れるなど。とんだ笑い話である。
だがそれほどまでに、先日喰らったアーサーの夢は濃厚だった。バクとて生きているからには夢のひとつくらい見るのは当然だが、喰らった悪夢を追体験するなど滅多にない。俗に言う消化不良というやつだ。まだ悪夢を食べ慣れない子供のうちならいざ知らず、いい歳のバクである私が消化不良を起こすのは珍しい。日頃夢喰屋として悪夢を喰らっている身としては、複雑なものがあった。
悪夢も、記憶の遺産である。この世に生まれ出てしまったからには、簡単には消せない存在だ。夢主からその悪夢を無理に取り出せば、夢主は生活や記憶に何らかの影響を及ぼしかねない。最悪の場合、精神崩壊や死のおそれだってある。
それでもアーサーは、私に全ての悪夢を喰らって欲しいと言ってきた。私もそこそこ名の知れた夢喰屋なのだから、説明した上でそれでもと頼まれ、金も貰ったのならば、欠片も残さず悪夢を取り出して喰らう。私はアーサーの魂に食い込むほど根深い悪夢を、約束どおり全て取り出した。
人間の悪夢などパンくらいメジャーなものなので、取り出してみたところで特段なにも思わない。人間はどの悪夢も、まるでチーズのような塊になる。アーサーから取り出したそれは他人と比べるとやけにどっしりとした大ボリュームの塊だったから、私は数日に分けて昼食のクロックムッシュにして食べた。
そう、夢喰屋は悪夢を取り出し、食べて消化する仕事だ。取り出した悪夢をそのままにしておけば、元の場所へ戻ろうとしてしまう。それを防ぐ為には、悪夢を食物として食べ、消化する必要がある。
アーサーの悪夢の味は、六千オーレルも払った彼には申し訳ないが、まあどこにでもある人間の悪夢だ。苦しんだ分だけよく熟成されていて、熱すればとろりと伸びて美味い。食べている間に悪夢の内容がふわりと脳裏をよぎったが、それも他の悪夢を食べたときと同じ現象だ。
だがまさかアーサーの大ボリュームの悪夢を平らげて、こんな目に遭うとは思わなかった。たかが人間の悪夢と思っていたのに、なかなかやってくれる。
寝室に悪夢の残滓が漂っている気がして仕方なかったので、私は朝には早いもののキッチンへと向かった。その間も、ついさっき見た悪夢が脳裏にこびりついて、まだ離れない。
簡単に言ってしまえば、アーサーはひょんなことから教え子の女生徒――と言っても、まだ十歳にも満たない人間の子供だが――に懸想しているという疑いを、他の教え子たちから向けられていた。それだけならばまだよかったかもしれないが、よりにもよって性的対象として意識しているのではと疑われたのだ。
もちろん濃厚な悪夢を追体験してきた私は、アーサーの中にそんな感情など微塵もなかったと知っている。
だが事態はそう簡単ではなく、最初こそ「親に言っちゃおうかな」とからかう程度だった教え子たちは、そのうちどんどん調子に乗り始めた。最終的には「親にばらすぞ」という言葉を振りかざし、アーサーに対して陰湿な嫌がらせを始めたのだ。
気の弱いアーサーは、残虐なる子供たちのいい玩具になってしまったというわけだ。
ある日アーサーが子供たちから食べるように命じられたのは、一杯のミネストローネだった。それはアーサーが勤めていた学校で振舞っている、ごく普通の昼食に思えた。雑草や土が混入しているなどという代物にはとっくに慣れてしまっていたアーサーは、普段のように「食べたら満足なんだろ」と思いつつミネストローネを一口飲み込み、途端、激しくむせた。
自分を囲む子供たちの嘲笑。器を落として床にぶちまけてしまったミネストローネ。真っ赤な汁に混ざる、食物に入っていないはずのきらきらとした細やかなガラスの破片。
それが、アーサーの魂まで蝕むほどにまで根づき、心を満たしていた悪夢だった。
問題があったとすれば、その質と量だろう。あまりにも熟成されたアーサーの大ボリュームの悪夢には、大勢の他者から向けられた悪意と、彼の魂を濁らせるほどの絶望が、濃厚にしみついていた。夢の内容など大して変わったものではないものの、悪意にさらされ続けたアーサーの悪夢は、私を逆に喰らおうとしてきたのだ。
そんなものを小分けにしたとはいえ馬鹿みたいな量摂取すれば、いい歳の私だって消化不良を起こしてもおかしくない。頭では分かっているのだが、そこそこ名の知れた夢喰屋としては、やはり情けないという気持ちが拭いきれなかった。
悪意をそのまま具現化したようなスープを飲み込んだときの突き刺さる痛みが、まだ喉に残っている気がする。私はつい自分の喉を撫でた。
大丈夫、なんともない。
さっきのは、アーサーの悪夢を追体験しただけだ。私自身には、何の危害も加えられていない。頭では分かっているのに、心が怯えている。
寝室から逃げてきた暗いキッチンで突っ立っていたら、少し体が冷えてきた。
そうだ、こんなときはあれだ。子供の頃、私が悪夢の消化不良を起こすたびに祖母が作ってくれたものがある。あれを飲もう。
近くにあったランプに魔法で火を灯し、冷却魔術で常時冷えている食糧保存庫をあさる。瓶に入った牛乳が、まだ少し残っていた。ティーカップ八分目、といったところだろうか。それを取り出し、小さな鍋に入れる。使い慣れた短い呪文で調理用の火を起こすと、私はその上に鍋をかけた。量が少ないおかげで、牛乳はすぐにふつふつと煮えてくる。
ぐらぐらと煮え立つ前にと、私は自分の右手を左手の甲にかざした。そうして右手を、反時計回りにくるくると撫でるように回す。左手の甲から、うっすら煙が上がった。見たばかりの悪夢だから、まだそんなに黒くはない。薄いグレーといった程度だ。それでも匂いはバクの悪夢らしく、苦味がある粉っぽい薬に似た匂いがする。
煙の塊がちょうど握れそうになったところで、私は右手を止めた。そのまま煙の塊を右手で握り、温めた牛乳へと放り込む。しゅわっとかすかな音を立て、煙は綿飴のように溶けた。
取り出す悪夢は、全てでなくていい。今日のこの消化不良分さえどうにかできたら、それでいいのだ。喰らった悪夢もまた、私にとっては夢喰屋としての大事な経験なのだから。
仕上げに、本物の蜂蜜をひと回し入れる。虹色の蜂蜜のような猫の悪夢は、たしかに美味い。だがそれよりももっと強い甘味が欲しかった。なにより、あれは朝の特別な一杯に使う悪夢だ。ここで使ってしまうのはもったいなかった。
バクの悪夢は苦い。そのまま食べると、苦瓜を五百倍くらい苦くしたような味がする。牛乳と蜂蜜でごまかさなければ、到底口にできたものではない。世の中には手っ取り早さを優先してそのまま食べ直すバクもいるかもしれないが、私はごめんだ。
火を消し、お気に入りのティーカップにホットミルクを注ぎ入れる。それを手にすると私は居間に向かい、窓辺のソファに腰かけた。
柔らかな匂いを含んだ湯気を吸い、そっと一口啜る。懐かしい味に、祖母との思い出がよみがえった。
『ばあちゃん、どうしてバクは悪夢を食べるの?』
『それはね、悪夢も誰かに美味しく食べて欲しがっているからだよ』
幼い私にこのホットミルクを飲ませながら、祖母はそう答えた。
どうしてバクは、悪夢を食べるのか。
悪夢を食べずとも生きていけるのに、消化不良を起こしてまで体を慣れさせ、悪夢を食べる意義とはなにか。
誰かに問われたら、私はたぶんこう答える。
『誰かには不要なものでも、それらは全て記憶の遺産だ』
と。いい夢も、悪い夢も、夢という経験を積み重ねて、バクは成長していく。そういう魔物なのだ。本能が、夢を欲する。だからこそ悪夢に体を慣れさせ、お気に入りの悪夢を仕入れ、夢喰屋を生業にしながら、バクは悪夢を喰らう。いい夢はもちろん美味いが、経験値からすれば悪夢から得られるものの方が多い。だから、悪夢を喰らうのだ。
ホットミルクを子供のようにちびちび飲んでいると、喉の異物感が少しずつ薄れ始めた。温かでまろやかな液体が喉を滑り降りるほどに、私を飲み込もうとしていた怯えという感情が薄れ、代わりにうとうと心地いい眠気が湧き上がってきた。
今度は寝ても、消化不良を起こさない気がする。
ソファで眠気を味わう私の耳が、牛乳屋が玄関先に瓶を入れるかすかな音を拾う。
もう少しだけ、このまま。
温かい思い出に包まれながら、私はソファでまどろんでいた。
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