第3話
私以外誰もいないテーブルでのんびり昼食を食べ、片付けをしてから居間で少し読書をして、こみ上げてきた眠気に任せて窓辺のソファでまどろむ。
平日の何ら変わりない日常だ。窓から差し込む春の陽射しが、毛布のように温かい。まるで猫になったかのように心地よかった。
猫。
そうだな。もしもバク以外になれるのだとしたら、猫になってみたい。幸せな生き物の暮らしぶりがどんなものか、ちょっと気になる。
そうやって午睡を堪能してから、私は店へと出た。今思い出したが、そう言えば強引に取らされた予約がある。店を開けないわけにもいかないだろう。軽く欠伸をしながら入口に向かい、『休憩中』の看板を回収しようとドアを開ける。
そこで、私はクーアと名乗ったあの女の子にまた会った。
「ねえ、今何時だと思ってるの?」
声色からするに、えらくご立腹のようだ。
「今? ちょうど三時だ」
壁にかけている時計を確認して、私はそう答えた。自分から時間を指定したからにはクーアか連れの男が懐中時計くらいは持っていると思ったのだが、違うようだ。だとしたら、太陽の加減で時を知ったというのだろうか。もしそうであれば、クーアは私の想像をはるかに超えた賢さの持ち主だ。
「あたしの予約は、午後二時じゃなかったかしら?」
相変わらずの様子で、クーアが言う。そういえばそんな言葉を残していたような気がしなくもない。しかし私のルールからは大きく逸脱した無効な約束だ。
「うちは予約制ではない。待つのが嫌なら、他の夢喰屋に行ってくれて構わないよ」
別に私としては、クーアが待たされたと腹を立てていようが、どうでもいい。私の店は、こういう店なのだ。突然押しかけてきて、勝手に予約時間なるものを決め、それで逆ギレされても知ったことではない。なんならそういうタイプは相手をするのが面倒だから、他の夢喰屋に行って欲しい。この大きな町には、私以外もバクはいる。選び放題だ。
「……まあいいわ、予約の件は許してあげる。それより営業再開なんでしょ? 早速頼むわ」
「客入りには困ってないから、他に行ってくれ」
それだけ言って、私はドアを閉めた。施錠してしまおうかと一瞬考えたが、他の無害な客がかわいそうだ。結局そのままにして、私は店内にあるロッキングチェアに腰をおろした。昼寝前に読んでいた本を店に持ち出していたから、その続きに手をつける。
この本は何度読んでも面白い。読むたびに印象が変わって、まるで読者の心持を映す鏡のようだ。子供の頃から幾度もめくったページは、私がよく触る場所の紙が擦れて少し薄くなってきている。その些細な感触に気づくたびに新しいものに買い替えようかと思いはすれども、本に蓄積された傷みは私の歴史そのもののように感じられて、なかなか踏み切れなかった。
それにしても、今日はいい天気だ。こうして椅子に揺られていると、また眠くなってくる。どうせ誰か来たらドアベルが鳴って分かるし、少し寝てしまおうか。
「いい加減にしてよ!」
そんな大声と共に、入口のドアが乱暴に開けられた。取りつけていたドアベルが、狂ったように鳴り響く。その金属的な堅い音は、春めいた温もりで満ちていた店内の静寂を、刃物のように切り裂いた。
ああ、うるさい。
私はため息と共に、本のページに栞を挟んだ。母の形見である、薄い金属製の栞だ。母が亡くなったときに、この栞は私のものになった。以来、ずっと使っている。
私がそんな小さな思い出に浸る時間すら、クーアにとっては許しがたいものだったようだ。
「何時間待ったと思ってるの? こっちはあんたの噂を頼りに、はるばる山を越えてまで来たの! ちょっとくらい真面目に対応してくれてもいいんじゃないの? あんた夢喰屋なんでしょ? だったら夢を食べてよ!」
床を踏み抜かん勢いで靴音を響かせ、小さな怪物と化したクーアが店に侵入してくる。
いや、一応これも入店にはなるのか。彼女は私に用があるらしいから。
それにしても、随分と荒々しい入店だ。これから夢喰屋を利用しようという落ち着きといったものは微塵もない。
山を越えてきたというからには、このクーアという小柄でやかましい生き物は、イリュリアを西から南にかけて囲むようにそびえているトラキア山脈を越えてきたのか。それは随分ご苦労な話だが、私には関係ない。
「夢喰屋は夢喰屋だが、私にも客を選ぶ権利がある。少なくとも、きみのように自分の都合で鼻息を荒くしているような人間の夢は、たとえ夢屋が買い取るような代物でも食べたいと思わないね」
「あたしじゃないわよ! この人の夢を食べてって言ってるの!」
この人とは、クーアが連れていた男だろう。けれどもそれが分かったところで、なにかが変わるわけでもない。
というか、なぜ夢主でもないクーアが「夢を食べてくれ」などと言ってくるのだ。何だか面倒そうな話の予感がするから、できたら店から出ていってくれないかとつい考えてしまう。
「今日はたった今閉店することにしたよ。帰ってくれ」
考えていたら、言葉がぽろりと出てしまった。ああ、私のうっかりさん。正直にも
ほどがある。
「閉店前に滑り込んだからいいわよね。悪夢、食べて」
私がかけているロッキングチェアの前まできて、腰に手を当てたクーアが圧をかけてくる。おお、なんと怖い。最近の人間の女の子は、無害なバクをそうやって脅しにかかるのか。ゆらゆらと椅子で揺れながら、私はクーアを観察した。
目深に被ったフードのせいで、全く顔が見えない。せいぜい見えて、口元あたりだ。歩きにくそうだなあ、と当たり前の感想を抱く。
水色を基調とした服装は山越えをするほどの旅を経てくたびれてはいるものの、旅装束と考えるには色が鮮やか過ぎる。山野で暮らす魔物やろくでもない人間の類は、旅人を襲う場合があるのだ。そんなに目立つ色で歩いていたら、狙われるだろうに。旅装束として用意したというよりは、まるで着の身着のままでどこかから逃げてきたような、そんな印象を覚えた。
それにしても、彼女の手は白い。まるで透けてしまうかのような白さだ。バク特有の褐色の肌をしている私とは、随分と違う。そんな色の白さと、華奢な体躯。そのわりに強い語気。
巣を追い出された弱々しい獣が、精いっぱい威嚇している。そんな様子に感じられた。
「悪夢をどうにかしたいのなら、他の夢喰屋に行けばいい。幸いこの町には、私以外にも夢喰屋がいる。それに夢屋だっているから、取引先は選び放題だ。私にこだわる必要などなかろう?」
「あるのよ。あなたが悪夢を全部食べてくれるバクの『エル』だから」
エル。私の愛称だ。ほぼ初対面の相手を愛称で呼び捨てるとは、なんたること。
「きみに呼び捨てにされる覚えはないよ。呼ぶならばちゃんと『エルクラートさん』と呼びなさい」
ロッキングチェアで揺れながら、私はそう諭した。初対面の人間に対する態度ではなかろう。それくらい言ってもいいはずだ。
そんな私に対し、クーアがなにかをこらえるような声を漏らす。
「……『エルクラートさん』」
「なんだね」
「あなたに食べて欲しい悪夢があるの」
「お断りだ」
だんっ、と大きな音を立てて、クーアの足がロッキングチェアの脚を踏んだ。前につんのめりそうな角度で、椅子が固定されてしまう。これでは椅子が揺れないではないか。せっかくとろけそうな眠気で、気持ちよくなっていたのに。
「きみがそのフードを脱いで正体を明らかにするというのなら、話を聞いてもいいよ。まあどうせ、今そうしているからには、どうしても脱ぎたくない事情があるのだろうが」
「あんた、綺麗な顔してるくせに性格は最低」
「そりゃどうも」
特に美意識が高いわけでもない男である私の顔を褒められたところで、特段嬉しいという感情も湧かない。それに私の店で蛮行に及ぶクーアに「最低」の二文字をつけられたところで、痛くも痒くもないのだ。脚を固定されたロッキングチェアから落ちないよう注意しながら、私は鼻で笑った。
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