偶然の中に幸せは転がっている

春風秋雄

女性のヒッチハイカーを見るのは初めてだった

浜名湖のサービスエリアで休憩し、本線に戻ろうと駐車場の中を徐行運転していると、本線の手前で段ボールに「京都」と大きくマジックで書かれたプラカードを持っている女性をみつけた。このサービスエリアではヒッチハイクの若者をよく見るが、女性のヒッチハイカーは初めてだ。俺はその女性のそばで車を止めて助手席の窓を開けた。

「名古屋までなら乗せられますけど、どうしますか?」

「じゃあ、名古屋までお願いします」

女性がそう言うので、俺はドアのロックを解錠した。女性は大した荷物を持っていない。小さなショルダーバッグを持っているだけだ。これでヒッチハイクをしているのか?

「荷物はそれだけですか?」

助手席に座り込んで荷物を足元に置く女性に尋ねた。

「はい。これだけです。ありがとうございます。助かりました」

俺はとりあえず車を発車させた。乗せる前は女性としか認識していなかったが、近くで見るとそれほど若くない。30代半ばといった感じに見える。ヒッチハイクと言えば学生とか若い人達がお金をかけずに旅行するイメージがあったが、これくらいの年齢でも女性ひとりでヒッチハイクをしているのか。それにしても綺麗な女性だ。こんな綺麗な女性とドライブができるのはラッキーだったかもしれない。

女性は奥田紗菜と名乗った。俺も簡単な自己紹介をする。

「行先は京都ですよね。どちらから来られたのですか?」

「京都です」

「ああ、京都から出発してどこかへ行かれて、その帰りということですか。どこに行かれていたのですか?」

「本当は主人と鎌倉に行く予定だったんです。でも、途中で喧嘩をして、浜名湖のサービスエリアで私は降ろされ、主人はそのまま行ってしまいました」

「ええ?おきざりにされたのですか?それはあんまりじゃないですか」

「もうあんな人とは離婚します」

これは大変な人を乗せてしまった。

「でも、ご主人はちょっと奥さんを脅かすつもりで、しばらくしてから引き返してくるのではないですか?」

「どうでしょうね。車から降ろされたのは上りの駐車場ですけど、私はもう引き返すつもりで下りの駐車場にいましたからね。車から降ろされてからスマホの電源は切っていますし」

浜名湖のサービスエリアは集約型で、上下線とも同じ施設を利用する。だから徒歩であれば上り線の駐車場から下り線の駐車場へ移動することは可能だ。

「戻ってくるのを待って仲直りしようとは思わなかったのですか?」

「いくら喧嘩したからといっても、やっていい事と、悪い事があります。あの人のやったことは遺棄です。そんな人と同じ車に乗りたくありません」

なるほど。気持ちはよくわかる。

「ひょっとして、荷物も車の中に置いたままだったのですか?」

「着替えなどはキャリーケースに入れて、車のトランクに積んだままです。支払いは主人がすべてするので、お金も財布には数千円しか入れてなかったのです」

なるほど、それでは京都まで新幹線で帰ることもできない。

「あのー、私ヒッチハイクは初めてなのですが、お礼はどうすればいいのですか?」

「お礼はいりません。下手にお金をもらうと、白タクと同じになりますので違法なんです」

「そうなんですか」

浜名湖のサービスエリアから名古屋インターまで1時間ちょっとだ。奥田さんは変な人ではなさそうなので、1時間のドライブを楽しもうと思った。


俺の名前は芹沢雄介。41歳のバツイチ独身だ。名古屋で総合サービスの会社を経営している。いわゆる便利屋だ。住宅の修繕や害獣駆除、車の修理や車検代行など、15年前に創業して以来、サービスの内容をどんどん増やし、今では7つの部署で展開し、社員数も100名近くいる。昨日は東京の業者との打ち合わせでお酒を飲んだので、ホテルで1泊し、今日名古屋に帰るところで休憩に浜名湖のサービスエリアに立ち寄ったというところだった。いつもなら新東名で帰るのだが、土曜日ということもあり、休日ドライバーが多いためか、新東名は事故渋滞のようで、ナビが旧東名を走れと指示していた。


「喧嘩の原因は何だったのですか?」

「つまらないことです。昼食に私はウナギが食べたいと言ったのに、主人は静岡にしかないハンバーグを食べると言い張るのです。それで喧嘩になって」

「本当につまらないことですね。それは犬も食わないというやつですよ」

「これだけ聞けばそう思うかもしれませんが、主人はいつもそうなのです。私がこれが食べたいと言って、それを食べようとなったことはないのです。せっかく浜名湖まで来ているのだから、ウナギを食べたいと思うじゃないですか。主人は仕事関係でウナギはちょくちょく食べているようですが、私は何年もウナギを食べてないのですよ」

「そうなんですか?それでお昼はどうしたのですか?」

「まだ食べてないです」

車の時計を見ると、12時半だった。

「じゃあ、名古屋でウナギを食べますか?名古屋は“ひつまぶし”が有名ですよ」

「私、お金持ってないですよ」

「それぐらいご馳走しますよ。浜松のウナギも良いですが、名古屋のひつまぶしも是非食べてもらいたいですから」


名古屋の“ひつまぶし”と言えば、熱田神宮の近くの店が有名だが、いつも並んでいて、30分から1時間待たされることはザラだ。ましてや今日は土曜日だ、どれくらい待たされるかわからない。栄のデパートの中に系列店があるので、そこへ行くことにした。

デパートに着いたときは、1時半を過ぎていた。時間が遅いこともあり、並ばずに店に入れた。

“ひつまぶし”の食べ方は、1膳目はそのまま茶碗に装って食べ、2膳目は薬味を乗せて食べ、3膳目はお茶漬けにして食べ、そのあとは好みの食べ方をするというのが正式な食べ方だ。俺は薬味を乗せて食べるのが好きなので、最初から薬味を乗せて食べ、最後に少しだけお茶漬けにして食べる。奥田さんは正式な食べ方で順番に食べ、その都度「美味しい」と言って喜んでいた。

「旦那さんに連絡しなくていいのですか?心配しているでしょう?」

「後で連絡してみます。今は“ひつまぶし”を堪能して、この幸せにもう少し浸っていたいです」

奥田さんはそう言って幸せそうな顔をした。


奥田さんがスマホの電源を入れると、すさまじい数の着信履歴とメッセージが表示された。

「旦那さん、そうとう焦ったんだろうね」

「いい気味だわ」

奥田さんはそう言いながら、メッセージを打っている。

すかさず着信音が鳴る。奥田さんは着信拒否をして「話があるならLINEにして」とメッセージを打った。

しばらくしてLINEが来たようだ。奥田さんはそれを読んで、顔色が変わった。そしていきなりカバンの中を漁りだした。

「どうかしたのですか?」

「鍵がない。家の鍵を車の中に置いてきたみたい」

奥田さんは今持っている小さなカバンの他に、少し大きなバッグを持っていたそうで、その中に家の鍵は入っており、車の後部座席に置いていたので、車に積んだままになっているそうだ。旦那さんがそれを知らせてきて初めて気づいたということだ。

「じゃあ、京都に帰っても家には入れないということですか?」

「芹沢さん、名古屋から三重県の松阪市って、遠いですか?」

「松阪ですか?車で1時間半くらいだと思いますけど」

「申し訳ないですけど、松阪まで連れて行ってもらうわけにはいきませんか?」

「今日は予定がないので大丈夫ですけど」

「松阪に妹がいるんです。ちょっと連絡してみます」

奥田さんはそう言って電話をかけるために店の外に出た。

しばらくすると、浮かない顔で奥田さんが帰って来た。

「妹は子供をつれて県外に行っているということで、明日にならないと帰ってこないみたいです」

「じゃあ、お金を貸しますので、新幹線で京都まで帰って、とりあえず今日は京都のホテルに泊まったらどうですか?」

「そんな、申し訳ないです」

「いや、貸すだけですから、ちゃんと返してください。口座を教えるので振込でいいですから」

奥田さんは少し考えていた。

「ありがとうございます。でも、家には帰りたくありません。お金を貸して頂けるのであれば、今日は名古屋に泊って、明日妹のところへ行きたいと思います」

そういうことなら仕方ない。俺はスマホでホテル予約を検索した。


奥田さんを一人にしても、やることがないだろうと思い、名古屋は初めてだというので名古屋城に案内した。名古屋の観光といっても近場では名古屋城と東山公園くらいしかない。名古屋市を出れば犬山城とか明治村、リトルワールドといった観光場所もあるが、短時間で行けるところではない。

夕食も付き合いますよと言うと、段々遠慮がなくなってきた奥田さんは笑顔で「ありがとうございます」と言った。

夕食は名古屋名物がひと通り食べられるチェーン店の居酒屋に入った。

「人によって好き嫌いはありますが、とりあえず名古屋名物の手羽先を食べてみてください」

名古屋の手羽先は、から揚げが定番だ。店によってタレで味付けしてあるところもあるが、この店は塩コショウで味付けしてある。

「美味しいです」

奥田さんは嬉しそうに食べている。

「京都の家には帰らないというのは、本当に離婚するつもりなのですか?」

「ええ。私は後妻なんです。主人には亡くなった奥さんとの間に二人のお子さんがいて、その面倒を見てくれる奥さんが欲しかったのです。私は大阪のクラブでホステスをしていたのですが、主人はそのときのお客さんで、見染められて結婚を申し込まれたのですが、最初のうちは断っていたのです。でも、どうしてもお金が必要になったので、主人に条件を出して、それを飲んでくれるのなら結婚してあげると言ったら、条件を飲んでくれたのです。でも結婚してもう5年になりますけど、二人の子供は大学生になって家を出たし、私が世話をすることもなくなりました。何より主人の会社の経営がうまくいってないらしくて、最初の約束を守ってくれていないので、もう結婚生活を続けていく意味がないなと思っていた矢先に、今日のことがあったので、もう限界だと思いました」

「ご主人に出した条件というのは何なのですか?」

奥田さんは返事をためらった。

「まあ、それはちょっと込み入ったことなので」

それ以上は聞かない方が良いなと思った。

「5年前に結婚されたということですけど、奥田さんは今おいくつなんですか?」

「こんなオバサンに年を聞くのですか?今年36歳になりました」

「じゃあ、31歳のときに結婚したということですか?」

「そうです。ですから上の子供とは14歳しか違わないので、二人の子供には舐められっぱなしで、苦労しました」

大変だったのだろうなと思えた。


翌日俺は仕事が休みだったので、奥田さんを松阪まで車で送っていくことにした。

「本当に何から何までありがとうございます。お借りしたお金は必ずお返ししますから」

「慌てなくていいですよ。都合がついたときに昨日渡したメモの口座に振り込んで頂ければ結構です」

松阪のインターを下り、ナビの指示通りに進むと、10分程度で妹さんの家に到着した。古い一軒家だった。

奥田さんを降ろし、俺は帰ろうとすると、妹さんが出てきてお茶でも飲んでいってくださいというので、家に上がらせてもらうことにした。妹さんもお姉さんの紗菜さんに劣らず綺麗な人だった。

居間に座っていると、奥からご主人と思われる男性が現れた。歩き方が、右足を引きずっている。「遠くまでありがとうございます」と、ご主人は丁寧にあいさつをしてくれた。俺が右足を気にしていることに気づいたようで、「これは5年前に現場の事故でやってしまいましてね。何とか足はつながっているのですが、このありさまです」と説明してくれた。

奥田さんが5年前にお金が必要になったと言っていたが、妹さんの家族のことだったのかもしれない。俺はお茶を一杯飲んで、辞去することにした。


奥田さんから連絡が来たのは、それから1ヶ月ほど経った日の夕方だった。

「今名古屋にいるのですが、お会いできませんか?」

「いいですよ。7時には仕事が終わるので、それからでもいいですか?」

「はい。お願いします」

7時半に待ち合わせ場所に行くと、奥田さんが待っていた。1か月前より少し痩せたような気がする。

俺たちは近くのファミリーレストランに入った。

「これ、お借りしていたお金です。ありがとうございました」

奥田さんが封筒を差し出した。

「わざわざ持ってきてくれたのですか?振り込んでくれれば良かったのに」

「私、離婚しました」

「やっぱり離婚したのですか」

「それで、妹のことも気になるので、松阪に引っ越して、松阪で仕事を探そうと思ったのですが、松阪では良い仕事がなくて、それで名古屋で働こうと思ったら、松阪から名古屋まで通うのは結構厳しいみたいで」

そうだろうな。松阪から名古屋まで特急でも1時間ちょっとかかる。会社が特急料金まで出してくれるとも思えない。

「それで、名古屋に拠点を構えて妹のところには時々行く程度にしようと考えたのですが、名古屋だと土地勘がないので、相談に乗ってもらえないかと思って」

「なるほど。それで、離婚した際に財産分与とかはある程度もらえたのですか?」

「主人の会社はかなり厳しいみたいで、財産分与といっても引越し費用がやっとで、はやく働かないと生活費がなくなってしまいそうなのです」

「わかりました。だったら、私の会社で働いて下さい。働ける部署は色々ありますので、自分でやれそうな部署を選んでもらえばいいです。住むところは県外から入社する社員には半年間は借上げ社宅を用意できますので、至急私の方で手配します」

「いいのですか?履歴書も何も見てないのに」

「履歴書なんて見ても、その人のことはわかりませんよ。私は奥田さんと二日間過ごして、人となりは充分わかっていますから、私の会社で働いてもらうことに何も心配はしていません。それより、この前聞けなかった結婚する時の条件って何だったのか教えてもらえませんか?」

それから奥田さんは静かに話し出した。


妹さんの息子さんは、先天性心疾患で、何度が手術もしているそうだ。治療費自体は国や自治体の助成金などがあるのでそれほどかからないが、大阪の病院へ行っているので、その交通費と宿泊費で結構な負担になっているそうだ。そして、妹さんは息子さんの面倒をみなければいけないので、一日数時間のパート程度しか働けず、旦那さんの収入だけが頼りだったのに、5年前に事故で足を負傷し、それまでの仕事が出来なくなってしまった。すると、途端に収入が減り、生活がかなり苦しくなったそうだ。それで、結婚するにあたって、毎月10万円ずつ妹に仕送りすることを条件にしたということだった。


「なるほど。じゃあ、奥田さんはこれから働き出したら、今度は自分の給与の中から10万円は妹さんに仕送りするつもりなのですか?」

「給与をいくらもらえるのか分かりませんが、出来る限り妹に送金したいと思っています」

「わかりました。それなら、奥田さん自身にはそれほど生活費がかからないように考えましょう」

奥田さんは驚いたように俺の顔を見た。


奥田さんはパソコンは得意だというので、データー入力や顧客管理、売上管理の仕事をしてもらうことにした。住居に関しては俺が離婚する前に同じマンション内に仕事部屋として借りていた部屋を空けて、そこに住んでもらうことにした。俺は奥田さんに、奥田さんの分も含めて食費はすべて俺が出すので、夕飯を作ってくれないかと提案したところ、快く引き受けてくれた。これで奥田さんの生活費は多少助かるだろう。

最初のうちは奥田さんが自分の部屋で作った料理を俺が部屋に帰ると持ってきてくれていた。奥田さんが使っている部屋は少し広めだがワンルームで、台所もそれほど広くない。それに比べて俺の部屋は3LDKでキッチンも広い。それにいちいち料理を持って来るのは大変だろうということで、料理は俺の部屋で作ればいいということで、部屋の鍵をひとつ渡した。

俺が早く帰る日は奥田さんと一緒に夕飯を食べる。俺の帰宅が遅い日は、奥田さんは一人で夕飯を食べて、俺の分はテーブルにおいて鍵をかけて帰っている。そんなパターンが出来上がった。


ある日、食事をしながら俺は奥田さんに聞いてみた。

「妹さんが住んでいる家は持ち家なのですか?」

「そうです。旦那さんの亡くなった両親が住んでいた家で、今は旦那さんの名義になっています」

「どうして松阪なのに大阪の病院へ行っているのですか?名古屋でも良いのでは?」

「妹も以前は大阪に住んでいたのです。私が大阪にいたので、妹も高校を卒業してから大阪に出てきて、事務の仕事をしていました。そこで旦那さんと知り合ったのです。だから結婚して息子が出来たときは大阪で生活していました。ところが、旦那さんのお父さんが亡くなって、お母さん一人になってしまったものだから、仕事をやめて松阪に戻って松阪の建築会社で働くことになったんです。そのお母さんも3年前に亡くなりましたけど」

「そうだったんですか。妹さん夫婦は、あの家に執着があるのですか?名古屋に出てくる気はないでしょうか?」

「名古屋にですか?」

「名古屋に出てくる気があれば、うちの会社で働けばいい。足が悪くても出来る仕事はいくらでもあります。息子さんの病院も名古屋に移れば便利になると思うんです」

「本当ですか?名古屋に出てきたら芹沢さんの会社で雇ってもらえますか?」

「いいですよ。妹さんもパートで働いてもらって構いません」

「妹に聞いてみます」


紗菜さんが妹さんに聞いたところ、ネックになるのは住居だった。今の家は家賃がいらないが、名古屋に出てくれば家賃が発生する。家族三人で住む住居となれば、名古屋だと最低でも12万円くらいはする。いくら給料がよくなってもプラスにはならないということだった。


「そうか、そこまで考えてなかったな」

「せっかく考えて頂いたのに、申し訳ないです」

「いやいや、奥田さんが謝ることではないです」

俺は、何とか妹さんの力になれないか考えてみた。どうしてそこまで考えるのだろう?おそらく俺は、紗菜さんのことが好きなのだろう。浜名湖で車に乗せた時から綺麗な人だとは思っていた。それが一緒に働くようになり、一緒に夕飯を食べるようになり、俺はこの人といつまでもこうしていたいと思うようになった。だから、紗菜さんのためにも妹さんに何かしてあげたかった。


その日は金曜日で、翌日は休日だった。マンションに帰ると食事が作ってあった。紗菜さんと一緒に夕飯を食べながらビールを飲む。休日前に一緒に食事をするときは紗菜さんも一緒にお酒を飲んでくれる。

「今日はピッチが速いですね」

食事が終り、ビールからウィスキーに切り替えたが、紗菜さんは、いつも以上に飲んでいる。

「なんか、今日は調子がいいみたいで、お酒が進みます」

かなり飲んだところで、紗菜さんが片づけをして帰り支度をする。

「じゃあ、おやすみなさい」

そう言って玄関に向かう紗菜さんを見送ろうと、後を歩いていると、紗菜さんがふらついて躓きそうになった。俺は慌てて手を伸ばし、紗菜さんを抱きとめる。手に紗菜さんの柔らかさが伝わって来た。

「ごめんなさい」

紗菜さんがそう言って振り返り俺の顔を見た。その顔がとても綺麗だった。俺は思わず顔を近づける。紗菜さんは何も言わず目を瞑った。俺は唇を合わせ、きつく紗菜さんを抱きしめた。


俺の腕の中で紗菜さんがつぶやくように言った。

「いままで、何もしてこようとしなかったから、私には興味がないのかと思ってた」

「紗菜さんは、こうなることを望んでいたのですか?」

「そりゃあ、これだけ色々してもらって、一緒に食事もして、好きにならない方がおかしいでしょ?」

「紗菜さん、私と結婚しませんか?それとも、もう結婚は懲り懲りですか?」

「そんなことないです。私と結婚してくれるのですか?」

「私は紗菜さんとずっと一緒にいたいです。紗菜さんが結婚してくれるなら、そろそろ家を建てようかと思っているんです」

「家を?」

「はい。それで、紗菜さんさえよければ、二世帯住宅の家を建てて、妹さん家族と一緒に住みませんか?そうすれば家賃の問題は解決します」

「本当ですか?」

「はい。それを私と結婚する条件にしてもらってもいいです」

「芹沢さんとの結婚に条件なんかないです。ただ、ひとつだけ約束してください」

「何でしょう?」

「絶対に、私を置いてどこかへ行ってしまわないでください」

俺はもう一度紗菜さんをきつく抱きしめて、耳元で言った。

「私は、あなたを置いてどこかへ行ったりしません。約束します。だから、結婚しましょう」

紗菜さんは俺の耳元で「ハイ」と返事をすると強く抱き返してきた。


浜名湖でヒッチハイクをしていた紗菜さんを乗せたのは、俺のきまぐれだった。しかし、その気まぐれで、俺が乗せたのはとてつもなく大きな幸せだったようだ。

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