第十七話 あっても

 そんな話をする月の王子様と道化師のまえに、いじわるなこえがとどきました。

「そんなことをいったって、すべての花はみにくくかれゆくんだ!」 

「そんでもって、風がかけぬけてちってしまうのさ、ぜーんぶ!」

 かれない花をしんじる道化師は、その声をきいて、あおざめてしまいました。


 『月の王子様』 弓弦・作の一節








 辺りが急に薄暗くなるのを見ると、ここら辺は雨雲に覆われているらしい。なぜ見てもないのに分かるかって? そんなの、私達二人を鼻で笑うように加減の知らない雨は、頭を上げることができない位に降り続けているからだ。

 さっきまで蝉の鳴き声だって聞こえていた筈なのに、ツバメが生暖かい風を切ったかと思えば、勢い良く降ってきた雨が遮っているのである。手で触れられる程にも近い筈なのに、皇月レノンとの間に御簾でも掛かったかのように遠く感じてしまう。


 私は、コウヅキが伝えたあることに驚いていた。

「えっ、あの御屋敷がコウヅキの家⁉︎」

 何時もショートカットする出会い頭の道に沿っている森の中には、物凄い館があるだとか噂されている。ツル植物の……例えばへデラ類が張り付いたような煉瓦造りの洋館だとか、白い漆喰と黒瓦のコントラストが訪ねる者の身を引き締める日本家屋だとか……とも囁かれているアレのこと⁉︎


 雨の簾の先には金糸の髪が額に張り付いたコウヅキが頭を手向けた。

『ぬれねずみになるくらいなら』

 彼は指文字を紡いでいく。ありがたいことに、私の習得レベルに合わせてくれているようで! だって、濡れ鼠だとか、〜なるくらいならだとかの手話は未だ知らないもの‼︎

『来い』

 右の人差し指を立てて手前に引く仕草、来る、の意味の手話。


 コウヅキは私の腕を探り当て、掴んだ。

「あっ、えっ、ちょっと!」

 急ぐように彼は白杖で地べたをカツカツと鳴らし、一本の樫の樹に当てた。予め、手首に杖のストラップを掛けていたコウヅキは、白杖を離した後、その樹に触れた。横に傷つけられた一線の跡になぞると、彼は私の腕を再び引く。


 そして木々のアーチをどれだけ進んで行ったのだろうか。


 黒い金属に所々オリーブ色の斑点がついた門は屋敷がある場所を森から隔てている存在らしい。なかなか見られない面構えの構造に、私はあんぐりと口を開けた。

「本当にコウヅキん家だ……」

 西洋風の門にあった金属板の表札には皇月と刻印されていたのだ、人づてに囁かれていたあのお話は嘘ではなく本当にあって、都市伝説レベルのものだと夢幻の持ち主が徘徊するとか言われていたけど、ちゃんと、此処には住居人がいる。それも、今、私の手を繋いで仕方なしに連れて行こうとする人、その少年が目の前に‼︎

 当の噂は、洋館の方が近かったが、少なくともツル植物による侵害はされていないようだった。煉瓦調の造りではないが、漆喰の壁が美しくさめた藍色の屋根が濡れて光り広い緑の芝の中に厳かに鎮座していた。


 こういうところ、日本でもあるんだ……。

 敷き詰められた芝の中にある通り道で雫を撒き散らして、コウヅキに連れられて歩きながら思ったのである。





 四季の花があしらわれたデザインのステンドグラスは四枚並び。そこに水をやるかのように、水滴が落ちて垂れていく。綺麗に手入れされているダークブラウンの組子細工と白い大理石で構成された広々とした空間。玄関と呼んで良いのか分からないくらい鮮やかながらも、何処となく厳かな雰囲気を携えているのは、多分だけれども、私が場違いに思えるくらいの立派なエントランスホールだからだ。

 グッショリと濡れた靴で大理石の土間を踏み付けている今だって、冷や汗か雨に降られた所為かどうか分からないくらいだ。いや、急な雨が降ってきたからなんだけれども!


 ええ、そうですよ。コウヅキのヤツなんかはお似合いですよ、落ち着いていますよ、そりゃ自宅ですもんね、彼の‼︎


 そう思いつつ、私は、上り框の奥から階段を降りてくる誰かを見る。白いリボンブラウスに黒のロングスカートが揺らめかないように上品に歩く女性が静々と歩み寄ってきたのだ。

 その人は二十代くらい。翠に輝く黒髪をキッチリと夜会巻きにしている所為か、歳月よりもたいへん奥ゆかしく思えた。

「何方のお嬢さんで……?」

 こういう人、ドラマくらいにしか見たことがないので、本当に焦ってしまう。身近で言うところだと、高嶺の花だと称される叶愛花がおそらく近いのだろう。

 彼女は、放課後にコウヅキを迎えに来る人だと思う。そのほっそりとした腕にコウヅキの手が置かれ夕日の中に溶け込んでいく二人のシルエットを見たことがあるからだ。


 大人に対する、それも保御者というか、同窓者の親に挨拶をするのは滅多にない。気の置けない遊びに行きあっている友人は別だけれども。

「あ、あの!」

 ダンマリを決め込んでいたって、何も進まない。私は、声に出した。

「コウヅキ……君のクラスメイトで、同じ班の若葉春流です」

 上手くできたかどうかについては、思い出したくない出来だということは重々承知だが、何者かも分からない濡れ鼠の小娘が黙って居続けるよりはきっとマシだ。

「そう」

 一言だけ発した彼女はコウヅキに向き直ると、スラスラと綴った手話を彼に触れさせていた。

「雨に降られたから近いここに来た、と、あの子が申し上げました」

 彼女は背を向けると、何処かに行こうとしていた……多分一階の奥だ。

「濡れたままでは風邪を引きます」

 横目でジロリと見てきた彼女に私は、肩がビクリと動く。

「御風呂にでも入って来なさい、客室用のがありますから」

 その一言に私はホッとした。何だ、仰々しそうな方だと思ったけれど、意外と優しいんだ。


 雨ざらしのままのキチンとした格好ではないけれども、礼は直ぐに言わなくちゃと私は頭を下げた。

「お気遣いを……その、ありがとうございます。えっと、コウヅキ君のお母さん?」

 コウヅキのお姉さんにしてはちょっと歳が離れているし、学校の送り迎えも彼女がしているらしいから、恐らくそうなのではないかと思っていたのだ。そもそも、会って間もない女性に対して、それも幾らクラスメイトの保護者だからといって、おばさんだとかおばさまは戴けない。失礼である。


 急に場の空気が凍てつくようにひんやりとした。目の前にいる女性が侮蔑するよな眼差しを向けてきたのだ。

「私をその子の母だと……」

 まるで、泥まみれになった汚い何かとでも言うように。

「……思わないでくれない」

 彼女は吐き捨てたのである。


 気づいてしまったのだ、軽蔑するようなその視線の行き先を。自分を通して、私を此処に招いた彼の方に行き着いていたのだ。

「あの、何か、その……」

 私は言いたかった。私が発した言葉が原因だとしても、コウヅキに剣呑な目で差すのは違うのではないかと。

「何です?」

 眉をキッとして洗練された姿勢で佇む彼女の一言が、言おうとしていたことを掻き消そうとした。でも、口に出さなくてはならない時もあるのだ。

「私が変なことをしたのなら謝ります、でもコウヅキ……君は」

 その先を。


 目の前にいる女性は、噤ませた。

「私はね、皇月杏こうづき きょう

 一つ噛んでは。

「あの子の叔母」

 吐き出すように。

「だから、あの子の母だと思うのは辞めて下さる?」

 彼女は感情を押し殺すかのように微笑んだ。





 あの後、結局のことなんだけれども、私は何も言い返せないでいた。ご厚意に預かる手前だし、何より、コウヅキは知らないようだったからだ。あのような言われようでも、彼はそれを聞き取ることができない。あんな形相をした叔母の姿を彼は見ることだってできないのだ。その上で、そんな嫌な扱いをアンタはされているんだよ、なんて言われたら、どう思う? だから、妙にことを荒立てたりしたら、この家でのコウヅキの立場を危うくしてしまうかもしれない。そう考えると、隣に立っていたコウヅキの横顔が陰りがかってみえた。


 コウヅキの叔母のキョウさんからお風呂場に案内され、冷たいタイルに足を進めた。熱いシャワーを浴びても、降り落ちてきた雨は流れても、先ほどのコウヅキが知らぬ内に降り落ちてきた理不尽なことは流されてくれなかった。


 温まった身体を真っ白なフワフワとしたタオルで包む。

 ご入浴中にお召し物を用意いたしますので、そうキョウさんが言っていたけど。

 棚の中にあったのは、ふみ結びの紋様が織られた淡い色合いの……。

「綺麗な浴衣だな……え、コレ、本当に着て良いの?」

 他の棚の中にあるのはバスタオルとフェイスタオルと真新しい下着類のみ。浴衣一式を目の前に、私は佇んだ。

 浴衣なんて一人で着たことがない。夏祭りでも、動きやすくて着やすい甚平派だ。偶に気を利かした家族が特に祖母か母辺りが甚平から浴衣に取り替えてくれるが。

 これしかないというなら仕方がない。そもそも、真新しい下着だって用意してくれているのだ。おまけに、濡れ鼠となってしまった衣服を洗ってくれているみたいだし……。

「こんなもんかな?」

 確か、羽織って腰紐で締めて胸紐で結んで……、確か私に着せようとしていたおばあちゃんもこうしていたはず。何とか形になったけれども、最大難関に突入してしまった。帯ってどう結べば良いの⁉︎

 赤い帯を手に持って震えている私の姿はきっと滑稽だ。でも、客室用だろうが人の家の脱衣所に居座り続けるのもどうかと思うが、ちゃんと衣服を着れないで出るのも女の子としては嫌すぎる……‼︎


 そう頭を抱えていると、ドアを軽く叩く音が聞こえた。

「はい、え、えと……」

 返事をしないという選択肢は無作法だ。

「御支度をなさいましたか?」

 研ぎ澄ましたかのような氷の音のような声。ドアをノックする主はキョウさんだ。妙に背筋が伸びてしまう。

「あの、その、多分もう少しで……終わるのかな、きっと……?」

 右手に持つ帯がいっこうに巻けずにいるので、こうなったら適当に結ぼうかと思ってしまう。希望がなさそうな私の声色に溜め息を吐いたらしいキョウさんは、「入りますよ」と口に出し、入ってきたのだ。


 私の浴衣を纏った姿をその目に捉えた瞬間、彼女は眉間に皺を寄せた。やっぱり、着方が何処か合ってないんですね、すみません。

 心の内にそう謝ると、キョウさんは私の背後に回った。

「貸しなさい」

 そう一言だけ呟くと、纏っていた浴衣が覚えのある形に綺麗に均してくれたのだ。

「基本は多少できているようですが、おざなりです。整えることを覚えなさい」

 蝶結びをキュッと縛ったキョウさんは、ジロリとこちらの様子を見てくるので、タジタジになりながらも私は「……はい」としか返事ができなかった。というよりも、それしか許されないような雰囲気を醸し出していたんだもの、コウヅキの叔母は。





 キョウさんは一仕事終えたとばかりに、さっさと行ってしまった。つまり、廊下でポツンと一人でいるわけなのだ、私が。

「コウヅキの叔母さん……キョウさん、冷たいんだか優しいんだか判らない人だな」

 組子細工の施された廊下には私しかいない。私の家と違って、人がいるというような雰囲気なんて一切感じないのだ。だから、思わず呟いてしまう。コウヅキに対して冷たい目つきで睨むかと思えば、ずぶ濡れの私にお風呂を貸してくれるし、浴衣の着付けを手伝ってもらったし、小言を貰ったけど。

 あっ、連絡もなしにいきなり見知らぬ子を連れてきたから、コウヅキにも怒ったのかな? それも世話も洗濯だって必須な姿で来ちゃったから……。

 帰る時に、コウヅキの叔母に謝ろう、彼は親切にも家に招いてくれただけですのでどうか責めないようにお願いしますって。そんでもって、後日コウヅキに菓子折りでも持たせようか……、いや自分で持って行った方がいいだろうな……礼儀的に。


 ウンウンと唸っていると、肩をトンッと軽く叩かれた。この何時もの調子は……!

『ワカバか……?』

 私もそうだからまさかかと思ったけど、コウヅキも浴衣だ。群青色の空の中にポッカリと三日月が浮かぶ、そんな風に織られた布地が彼の身を包んでいた。何時も上品な白い洋服を身に纏っていて王子然とした風貌だが、こういうのを着ると雰囲気が変わるので、私は驚いた。

「『コウヅキも、ゆかたなんだ』」

 彼の手に指文字を綴ると、彼は鼻を鳴らした。

『ウチは、そういうのならくさるほどあるからな』

 洋風なのに和服とかがたくさんあるのって不思議だなと思いつつ、私はコウヅキを見る。あ、耳の先が赤い。

『へん、か……?』

 和服だなんて普段から着ないものだし、彼の今の姿は見慣れないけれど。

「『ううん、にあってるじゃん』」

 すっと背筋を伸ばしたコウヅキに、落ち着いたその濃い蒼い色合いが溶け込んでみえた。夜のお月様といった風情に思えてしまうのだ。


 その時、切り裂くような声が耳に届いてしまったのだ。

「本当、あの子の側に居なくてはならないのは、もうたくさん‼︎」

 荒げた声が廊下に響く。それは私達がいる廊下の二つ先にあるドアからだ。電気を点けずに降り注ぐ雨のせいか薄暗い廊下に伸びる光の中。

「兄さんの子ではなければ、あんな子のお世話係なんてしなくても良かったのに!」

 コウヅキの叔母、キョウさんの叫び。

 私は思わず、コウヅキがいる方に振り向いてしまった。キョウさんの顔に張り付いた表情の意味は、自分の頭の片隅に最初に過ぎっていた方だったのだ。こんな所に、彼を置いていけるはずがない。


 私はコウヅキの手を取った。彼は、握られた手に目を大きくしていた。

「え……? あの冷徹女にも似て……」

 コウヅキの叔母の声を背にして、私達二人は走り出す。こんな話が聞こえない所へ。


 その時、ドアが軋む音がした。よく磨かれた床のその艶が室内の光で反射した。

「誰もいない、あの子のわけないわ、一人で早く走って逃げれないもの……」

 キョウさんの声からすると、なんとか撒けたらしい。良いタイミングで角のところに隠れられたのだ。

「それに聞こえないしね」

 コウヅキの聴覚を逆手にとって、八つ当たりするかのように、生きていることだけでさえ責め立てる。そんなコウヅキの叔母に私はどうにもできない怒りを覚えた。





 握っていた手を離したコウヅキは綴る。

『何かあったのか?』

 私はコウヅキの顔をまともに見られなかった。キョウさんが言っていた言葉が幾度も頭の中で反芻していく。それを抑えるかのようにした。

「『何でもないよ』」

 私はそうとしか言えなかった。多分、ヘラッとした平気そうな呑気そうな表情も取り繕えない。


 恐らく、今思うと、彼は知っていたのだ。

『あそこ、キョウさんの部屋だろ?』

 手の平を壁に見立て空間を区切る動作、部屋という手話の単語だ。

『アジサイのにおいがしたから……』

 この時期になるとキョウさんの部屋の前には紫陽花が生けられてあるんだ。彼は、無理に笑みを浮かべていた。それがやけに苦しそうだった。








 道化師はこえたかだかではありませんでしたが、いいました。

「ひどいことをいわないで!」

 いじわるなこえは、道化師のひっしなこえをかきけしてしまいます。


 『月の王子様』 弓弦・作の一節

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シルバームーン 〜絵本『月の王子様』に触れた少年少女の物語〜 利人 @rihito6

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