第十六話 陰り

 降り落ちる音は冷たく、鈴のような、雨。


 恵みの雨とは言えども、何処か儚く消える夢のよう。

 

 傘を拡げない限り、誰の下にも降り注ぐ。








 ガラス戸に打ち付ける雨の音が響き渡っていた。一線となった水の跡が影を作り、二人の頰に伝っていた。それ以外の何もかもが消えていったかのように、ここには若葉春流と皇月レノン以外の誰かもいなかったのだ。

 濡れた金色の髪を邪魔そうにかきあげたコウヅキは、私に手話で伝えたのだ。

『雨がふるなんてな……』

 コウヅキの指から流れ落ちた雫が行先を私は見ていた。いや、ただ何となく彼の顔に目を向けることができなくなったような感じ。何時ものコウヅキよりも影があるように思えて仕方がなかった。

「『……だね』」

 彼の手に触れて、指文字で伝える自身の手の先が熱くなるのを感じた。

 若葉春流、十歳。八月の夏の日だった。





 こうなったのは、図書館でグループ研究をした後のことだった。


 行きの時よりも幾分か軽く感じる鞄を肩に掛ける。大変になりそうだと思っていたグループ研究が思っていたよりも捗ったのだ。軽くスキップでも踏みたくなる程に気分が良い。

 終わった、終わった、今日の分は終わり! そうとばかりに、図書館から我先にと出ると、蝉の鳴き声が広がるように響き渡った。ちょっと前なら五月蝿いなと思うだろうけれど、夏休みの宿題が減っているのだ、今の私を迎えようとするオーケストラのようにも聞こえてしまうのはちょっと不思議、いや不思議ではないか。


 呼乃邉哲はリュックを片手で持ちながらも、今日の宿題のできに満足そうにしていた。

「結構、進んだよな」

「そうだよね、計画表と見比べてみてよ、ホラ」

 すぐさまに用紙を花江由希子は、耳あたりで切り揃えた黒髪を揺らしながら広げた。

「マジで⁉︎」

 このテツ君の驚き具合からして、本当の本当にできていっているらしい。


 私は両手を握りクゥ〜と唸る。勿論、喜びの唸りなのだ。

 そうするのも無理はない。適当にやれば直ぐに終わる程、器用な人間ではないのだ。だから、小躍りしたってバチくらいは当たらないだろう、きっと。

 ここまで、ウンと効率化アップを図ったのは私の隣にいるヤツなのだ。涼しげな顔をして、何事もなかった風にすましている皇月レノンのおかげなのである。

「『コウヅキ、れきしの本、みつけるの上手かったもんね』」

 私達班員、五班の驚愕とも言うべき喜びの悲鳴をコウヅキに伝えようと、指文字混じりの手話で伝える。知っている手話の単語をどうにか繋ぎ合わせて形付けながら、彼の手の平に伝えた。

『ここにあるぞうしょ、だいたいは点訳してあったから』

 得意気にもせずにぶっきらぼうに、わざわざ私の手話の熟練度に合わせた上で、彼はそう伝えて放つのだ。

「『また、そういうことを言う』」

 私は、相変わらず素直じゃないなぁとばかりに指文字混じりの手話を綴る。

「『どうせ、昨日までにどれが良いかしらべてたんでしょ』」

 だって、彼は夏休み前の社会の授業でのグループ研究の話し合いの時、月獅子伝説を知らなかったのだ。それが今日となってから最初から知っていますよといった風に、必要な蔵書の名を羅列し出したのだ。熱血じみた性格はしていないにしろ、努力をする人だって、私は知っている。

 私の言いたいことの意味を読み取り次第、コウヅキは目元に皺を寄せた。

『このFめ』

 ヤツは手話で吐き捨てたのである。

「『あっ、言ったな、その名を‼︎』」

 これに関しては絶対に許しておけない。確かに、そのあだ名が付けられた原因については私が悪い。こうやって、不名誉なあだ名でコウヅキが揶揄わなければの話だが。しかし、だれか誰彼構わずに言い続けると、誰だって疑問が湧くでしょ?

 どうして若葉春流がFって呼ばれてるのって‼︎ 

 珍しく素直になったヤツは皆に解るように手書き文字で放つだろうね、初対面でお腹に一発貰ったからだって。私がコウヅキが階段を踏み外したのを見て助けようとした、その部分は蝶々結びにして見えないようにして、そうやって面白そうにするに違いないのだ。

 目を光らせておかなくちゃ。


 私がコウヅキにむくれていると、含み笑いをしたユキコちゃんがこちらを見ていた。

「何、話してるのよ、お二人さん」

「そうだぞ、楽しげだな」

 ユキコちゃんに続いてテツ君も、コウヅキと私の間にやってきたのだ。私のとって不可解な言葉を携えて。

「どこが‼︎」

 何てことを言うのだろうと私が憤慨する中、ユキコちゃんはテツ君に耳打ちした。そして、テツ君もなんとも言いようがないユキコちゃんがしているのと同じような笑い方をしてきたのである。

 何なんだ、一体。一体、何なんだ!


 そうしている内に、別れ道に着いたのである。ちょっと遠回りの大通りの方か、近道ができる森へと続く出会い頭の道か……。

 そのどっちかに進もうとユキコちゃんは足を向けたのだ、大通りの方へと。

「じゃぁ、私こっちだから」

 ナチュラルカラーのスニーカーをコンクリートの地面に着けたユキコちゃんは、商店街を通り抜けようと考えているようだった。だって、鞄からエコバックが覗いている。大方、ユキコちゃんのお母さんから頼まれたのだろう。

 ショルダーストラップを片手で持ちながら肩に掛けたテツ君は、軽快に大通りの方へと駆けて行った。

「オレは自主練がてら走って帰るわ」

 空いている手の方を振りながらランニングしようとするテツ君を、ユキコちゃんは注意した。

「ちょっと気をつけなさいよね」

 眉間に皺を寄せたユキコちゃんの方に、テツ君は振り向きつつ。

「何にだよ」

 走り出した身を止めつつ、足踏みをしていた。

「車とか!」

 ユキコちゃんがそう言うと、「分かってるさ」と返しながらテツ君は去って行った。





 そして、オレンジ煉瓦の図書館の前に残ったのは私達だけ。コウヅキと私だけなのである。

 何処となく居心地悪さを感じて、私はコウヅキの手の平に手話を作る。

「『さよなら』」

 右手の手の平を前に向けて左右に振らした、バイバイの手話。

『ああ』

 私が打ち出した手話に、彼は返事をして折り畳んでいた白杖を地面に軽く叩きながら、出会い頭の道へとスッと進んだ。

 え、アンタもそっちから行くんかいと思いつつ、私は後に続こうか躊躇った。

 だって、出会い頭の道の方に行ったら恰も彼のストーカーのようになってしまうし、そうならないように足早く通り抜こうとするものならコウヅキにぶつかってしまうかもしれない。大通りの方は遠回りで、何だったら、ユキコちゃんと搗ち合うかもしれない、運が悪ければテツ君もいる状態で。

 それは気不味い。ユキコちゃんとは友達だし、テツ君ともくだらない話をする仲ではある。二人に途中に出会っても大丈夫。しかし、彼等は夏休みを境にして、間に纏う雰囲気が何処か変わったのである。もしかするとそうかもしれないのだ、後から来た私がお邪魔虫の可能性が……。

 何時もドジを踏んでしまう私だけれども、空気の読めぬバカという烙印は押されたくはない。

 残された道は、事実、一つしかなかったのである。


 出会い頭の道が始まる階段からトンッと一歩毎歩いていく。

 目の前を歩いていく、コウヅキも白杖を階段の縁に当てて一つ一つ進んで行く。

 初めて会ったのもこの階段、コウヅキは踏み外していたっけ。私は、あの時と同じにならないように、上って行く。

 やっと、階段を上り切った私はホッとした。コウヅキも白杖を上手い具合に使って踏み外さなかったし、ここからはただの一本道なのだ。そう、ただズラ〜とした一本道……。それも左側の森に沿っていて右側には軽い崖に落ちないように丸太でできたガードレールの、狭い道。


 私はあることに気付いたのである。

「『ちょっと、これじゃ、私がアンタのあとをつけてるみたいじゃない‼︎』」

 コウヅキの肩を軽くポンッと叩き、彼の広げられた手に綴る。

『……そうなのか?』

 彼は、F、と続けた。心底軽蔑をしたとでも、伝えるかのような表情を向けてきたのだコイツは‼︎

「『また言ったね、Fだなんて……、ちがくて、そんなことしません‼︎』」

 私は目を釣り上げて、指文字混じりだけれどもきちんと伝える。こんなことは定着したくないのだ、自分が不審者キャラとしてFという冠を被らなければならない事態だけは避けなければならない。

『じょうだんだ』

 コウヅキはケロッとした様子で指文字を綴る。

「『アンタねぇ……』」

 私は頭を押さえた。コウヅキの手の中で転がされている気がしてならない。ちょっと突いたら面白い反応をするおもちゃとして扱われているような……。いや、きっとそれはパンドラの箱だ。知らない方が良いことだってある、多分。

 澄ました顔をしながら、彼は手話で言うのだ。

『じゃぁ、かえればいいだろ』

「『かえればいいだろって……』」

 私は突っ込む。ただ帰る帰らない問題でもないのだ、コレは。

 そうを知ってか知らずか、ヤツは手話を綴るのだ。

『ふしんしゃになりたいんだったら、僕のあとについていけばいいだろう?』

 コイツ、何てことを言うのだ‼︎

「『からかってんのかい、それに私はあやしい人じゃありません!』」

 指文字混じりだけれども私は啖呵を切る。何故コウヅキはここまで私を不審者キャラとして仕立て上げたいのだろうか、何故そうやってまでもFにしたいのか。

 怒りでヒートアップしそうになっていくのを感じながら、肩で息をする。


 彼は私がいる方に顔を向けた。

『だから、ワカバ』

 私は彼に、ちゃんと名を呼んでもらえてドキリとする。苗字だけどね。

 コウヅキは指文字を空に綴る。

『僕のとなり、歩いたら?』

 彼は、両手の人差し指を立てて顔の横を交差してから右手人差し指と中指を足に見立てる、歩くという手話の単語を手で形付けていた。

 普段の様子からして言わない、思いがけないことを、彼は伝えたのだ。

 コウヅキの顔は何時ものように涼やかな表情でいようと努めていた。しかし、彼の耳元は赤く染まっていた。

 私は何処かむず痒く感じた。彼は、こういうことは言わないタイプの少年だ。ぶっきらぼうでツンッとして、それでいて嫌味なことを言う、クールな性格、若しくは気難し屋だ。そんなコウヅキがこういうことを彼がする時、良い意味で爆弾位の威力を放つのだ。

 それは、彼の顔が整っているからだとか、絵本の月の王子様に似ているからとかではない。きっと、きっと、何処か寂しそうなコウヅキは殻を被っていて、時節、彼の素直さが垣間見えているのではないだろうか。私は、そう思った。





 コンコンと心地良いが地面を鳴らす音を聞きながら、コウヅキの隣を歩く。進んで行く毎に、出会い頭の道の右側は景色が開けていく。相も変わらず街並み良く見えるな。

 そう思いながら歩いていたが、私は気付いたのだ。

「『いつものむかえのひと、どうしたのコウヅキ?』」

 艶やかな青みがかった黒髪を後ろに油断一つもないとばかりにきつく結び、黒いスーツを颯爽に着ている女性。一重の目元がキリッとした美人さんが、何時もコウヅキを学校の登下校が安全にできるように付き添っていた。

『あの図書館から、ちかいから』

 コウヅキはそう手話で綴った。

 確かに、コウヅキとは出会い頭の道の階段で出会ったっけ……。ふぅん、ここから近いんだ。

「『へぇ、ちかいって、この森をぬけたら?』」

『いや』

 私が尋ねた後、彼が返事した時に、ポツリと何かが額に降ってきたのだ。

 そして、それを皮切にして何かが身体に勢い良く押かかってきたのだ。

「雨!」

 テレビの天気予報でも今日の午後から雨になるだなんて聞いてない。それもこんなに、ザァザァ振りになるだなんて‼︎

「『ど、ど、どうしよう⁉︎』」

 コウヅキを置いて急いで家に帰ろうだなんて人としてありえないし、雨ガッパも折り畳み傘さえも持ってきてないのだ。ずぶ濡れのまま、立ち往生なんていうのも嫌である。

『ここらへんに、家、ないか?』

 白がかった線のようにも見える雨粒の羅列が私と彼の間を隔てている。


 だが、彼の手話を見ても、疑問に残る。

「『え? 家といっても……』」

 ここら辺は森しかないのだ。あると言ってもまことしやかに囁かれている御立派な洋館しかないらしい。

「『おやしきしかないけど』」

 噂だとしても、強いて言うなら位の代物だ。私は眉を顰めた。


 一つ間を開けた彼は確かに言ったのだ。

『それが僕の家だ』

 涼やかに手話で答えたのだ。








 雨が降り落ちた先で、鈴のような音を鳴らす。


 儚く消えゆきながらも、一心に降り注ぐ恵みの雨。


 二人の下にも、傘がない限り降り注ぐ。

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