チョコレートが溶ける距離で
だれが悪くて、何が悪かったのか。
わたしが悪くて、言葉にしなかったのが悪かった。
侑香は喋るのが好きで、わたしはそれを聞いているだけでいい。
そんな、ミルクチョコレートより甘い幻想。思い込みはチョコレートファウンテンのごとく流れ落ちて、底に溜まっていました。
あふれかえってようやく、わたしはわたしの過ちを知ったのです。
同じだと、わかっていたはずでした。言葉の不自由さに縛られていると。それこそが、約束の理由だったのに。
憧れを抱き続けていました。いつだって遠くに見えた背中に、そうなりたいと夢見た姿を、捨て去れずにいました。
侑香は、言葉と上手に付き合えているのだと、勘違いしていました。
その行き違いの理由は、明白です。コミュニケーション不足。わたしたちの間には――わたしが喋らないから、あまりに会話が少なかったのです。
空白を埋めるように言葉を尽くせば、きっと、元の距離に戻れるでしょう。
ですが、それが可能であるのなら、そもそもこの断絶は起きていません。
わたしも、侑香も、言葉の力を信じていません。自分の思いが相手に伝わっているか。そんな疑念を取り払えません。
相手の心の中を読み込むことなんてできないのに。底のない暗闇に小石を投げ込んでその深さに怯えるような、無意味な恐れを抱えて生きています。
その場所から立ち去ればいいのに。忘れてしまえば楽に生きられるのに。
相手の中にいる自分を、想像せずにはいられません。
わたしと侑香が言葉をもって行っているのは、コミュニケーションの真似事です。意思の疎通ではなく、相手の言葉に自分を見いだしているにすぎません。
だから、本当の姿を見誤ったのです。伝えられてようやく、思い違いに気づいたのです。
それこそが初めてのコミュニケーションでした。わたしたちの間に大きな壁を作る結果となりました。
本音を吐露して断絶するなら、この交友関係は、そもそも間違いだったのでしょう。
侑香はわたしには届かない星でした。それが真実で、絶対の真理なのでしょう。
それでも。
諦めるわけにはいきません。
伝えたい思いがあるのです。言葉にすれば原形を失うでしょう。正しく侑香には響かないでしょう。
それでも、この思いが存在すると証明するには、言葉にするしかないのです。
抱いているだけでは伝わりません。少しでも正しく伝わるように、言葉を尽くすしかないのです。
不自由です。でも、同じ不自由を抱えているのなら、同じ世界に生きています。届かないはずがありません。
走り出します。ひとりぼっちの放課後を駆け抜けます。約束なんてありません。ただ、その場所を目指します。
侑香はわたしの星だから。今はもう、見上げません。手を伸ばします。まっすぐ、前に。
ドアの開け方は知っています。教えてもらったから。ノブを斜めに下げて回します。今日が終わったら、直すように先生に伝えましょう。けど、今日だけは。
わたしたちだけの秘密。いつだって侑香はそれを教えてくれます。ミルクチョコレートのように甘い現実。彼女の好きな味。
わたしたちを隔てるものの開け方を、侑香は教えてくれます。
だから、わたしが踏み込むかどうか。
ドアを開いて、屋上に足を踏み入れました。
風が吹きつけます。唇をかすめる冬に、わずかな太陽の温度を感じました。
柵のこちら側。侑香がいました。
こちらを振り向きません。背中を見つめます。距離よりも遠い。走ったって届かない。けれど、言葉なら心にふれるから。
「ゅ……ゆ、か!!」
わたしの叫びに、侑香は答えません。彼女の瞳は、わたしを見ません。
柵越しの空。それこそがわたしたちの間にあるものだと示すように、背中を見せ続けます。
「ご、めん! ……わ、ぁ、わた……し、ちゃんと、侑香と、お喋り、してなかった!」
それでも言葉にします。その先が底のない暗闇でも、果てのない青空だって。
思いはここに息づいています。この胸の高鳴りを伝えるために。
「わたし! た、楽しい、よ。侑香と、一緒に……いて、お喋り、して……楽しいよ!!」
舌の根っこで言葉が渋滞しています。呼吸はとうに詰まっています。心臓だけが急いて、自分の声は耳に届きません。
それでも、この言葉だけはちゃんと伝えなければいけません。間違わないように。正しくなくとも、この声が心の音をしていますように。
震える舌に、力を込めて。ゆっくりでいいと言い聞かせて。唇を、動かします。
「友達になろう、侑香!」
言い切ります。肺の空気をすべて吐き出しました。吸い方を思い出せずくらくらします。
でも、それでも、伝えたかったことを言葉にしました。この言葉を、ずっと、ずっと前から伝えたかったのです。
「……意味、わかってる?」
ようやく聞こえた侑香の言葉に、わずかに力が抜けて喉を酸素が通ります。
「友達になるってことは、いつか関係が終わる日が来るって、受け入れるってことだよ」
頷きます。
それは、訪れないかもしれません。ただの杞憂でしかないかもしれません。
それでも、放課後がいつか終わるように、かたち作られた関係はその消失を内包します。
なあなあのまま、過ぎていく日々に身を任せれば、終わりに怯える必要はありません。終わったことにすら気づかずに生きていけます。
でも、そのことが耐えられませんでした。この一年のなかでわたしたちは、互いを結ぶ関係を求めていました。
交友関係を越えて。
交わっては流れていく。この日々はきっと思い出になります。そんな刹那の日々を共にしています。
けど、その交わった場所を永遠と呼んでもいいはずです。時間の流れのなかで分かたれるとしても、結んだ手だけが繋がりではありません。
「あ、愛は、どこにあるんだろ、うって、ずっと、考えて、た」
「……見つけたの?」
「わ、わからな、い……から、呼びたい、ものを、愛って、呼ぼうって、思ったよ」
「それがわからなかったから、私は」
「う、うん……だから、さ……そう、呼べる日々を、いっしょにつくろ?」
わたしは、手のなかに持っていたものを侑香に差し出すべく、歩きました。
侑香は、それを受け取るために、歩きました。
距離が埋まっていきます。
手と手が届く、そんな場所でわたしたちは立ち止まりました。
「ほ、わいとでー」
「……ありがと」
それはかつて、バレンタインデーにもらった包み紙。包装を解いて、侑香はその中身を見つめます。
「少し溶けてんね」
そう言って、侑香は困ったように笑います。
箱のなかに並んだチョコレートは、わずかにかたちを崩しています。
その甘い味に比例するように、苦い気持ちが湧き立ってきます。
調子よくはいきません。
「けど」
「けど」
わたしの言葉と侑香の言葉が重なります。
なんとなく確信がありました。
きっとこの先の言葉も、同じだろうと。
「溶ける、よね」
「溶けるよね」
春を予感します。
芽吹き、そして舞う花びらのように、あなたの心は掴めないかもしれません。
でも、それに怯えたりはしません。
わたしたちには、言葉があります。
不自由で不確か。けれど、そこには思いがあると知っています。
正しく伝わらなくて、正しく受け取れなくて。それを埋めるために、コミュニケーションはあります。
そんな友愛関係を、わたしと侑香は紡いでいきます。
「これからよろしくね、雪菜」
わたしからの贈り物を食んだ唇に、溶けたチョコレートを残しながら侑香は言うのです。
それがおかしくって、わたしの唇は笑みをかたち作りました。
「よろし、く、侑香。……チョコ、ついてる、よ」
ゆーあいちょこれーと~わたしと侑香のセツナログ~ 綾埼空 @ayasakisky
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