追想バレンタイン→カカオニブ
侑香とわたしの人生は、交わるはずのないものでした。
流れ星が頭にあたるような、不可能と呼ぶべき奇跡が降らないかぎりは。
ぽつりと、しずくが脳天にあたりました。雨かと思いました。見上げた空には雲ひとつだってありはしません。
勘違いかとも思いました。ふれた指先がぬるく濡れます。
真昼の星は見えません。だから、見つけたのは奇跡なんでしょう。
どうやって入り込んだのか。高くそびえる柵をどう超えたのか。
屋上の縁に腰かける、少女がいました。
逆光で顔はよく見えません。スカートから伸びる脚の細さで性別を判断します。
立ち止まるわたしは、放課後のひと波の障害物です。いつもはふよふよと流されるまま、歩いているのに。
目を奪われた――いいえ、その視線に縫い留められたのです。
わたしの視線を追うだれもが見上げる先に人影がなくても、動けずにいるくらいには。
どうしてなのか。いつ振り返ってみても、答えは出ません。
理由を見いだすなら、きっと、予感があったのです。
白飛びした風景で、それでも見たことのある冬の装いが、何度も見送った背中に似ていると。
はつらつとした喋りに、憧れた。彼女になりたい。そう願い、思うだけ。決して人生が交わることのない少女だと。
その現実はあっけなく、眼前に姿を見せました。
「
「ほ、し……かわ、さん」
逆光のなかに描いた像と変わらない顔です。
ぶら下げた手のなかに、小さな箱のようなものを握っています。緑の包装で中身は窺えません。
「こっち見てたよね。何?」
そう問われてしまうと、言葉が喉に詰まります。
言いたいことは胸まであふれてくるのに、それを音にするのは怖い。
だから黙り込んでしまって、反感を買います。
なのに逃げ出す勇気もなく、あるいは、星川さんとお喋りできるこの機会を手放すのが惜しくて、彼女の前に立ち続けています。
沈黙がどれほどの秒針を押し進めたでしょう。
「答えない、か」
星川さんがわたしの横を通り過ぎていきます。当然です。言葉を返さないわたしは、他者と接続できません。何度となく繰り返してきたこと。
遠のく背中を、何度となく見てきました。この邂逅は奇跡なのです。間違いのようなもので、距離以上の断絶がわたしと星川さんにはあります。
「ちょうどいいや」
だから、足音が止まって、そんな言葉が聞こえ。
「ちょっと付き合ってよ」
振り返った先にいる星川さんに、自分でもわかるくらい目を丸くしました。
「喋らないくせに、表情はよく動いておもしろいね」
跳ねた心臓から放たれた熱が、首筋をせり上がって頬を燃やします。
言い返そうとして、やっぱり言葉にはなりません。ただ開閉するだけの口は、冬の空気を取り込んでも、感情を冷ましてはくれませんでした。
進む背中に二歩分距離をとって、追いかけます。駅に着き、改札を通り抜け、家とは真逆に進む電車に揺られて、ようやく声を絞り出します。
「ど、どこ、行くの……?」
「ん? さあ、どこ行こうか?」
星川さんは座っています。隣は空いているけれど、そこに自分の体が収まる気がしなくて、わたしは正面に立っています。
「好きな場所とかないの?」
「夜の……海、とか……」
「いいね、採用」
それ以外の答えがなかったので考えず口にしたら、目的地が決まりました。
「今から行けば、ちょうど夜になるでしょ」
日没はまだまだ早いです。
夕景に目を細めながら乗り換えて、海を目指します。
「奥下さんって音楽聴かないの?」
「音楽は……に、苦手……」
「どうして?」
「つ、伝えようって、力が強くて……自分が、ものすごく、みじめな気持ちになる、から」
「そんな考え方もあるんだね」
つり革が揺れます。
窓が夜に染まっています。建物から漏れ出る光の粒が、時間に逆らおうとしています。
「海にくらげいるかな?」
「……どう、して?」
「水族館でさ、いちばん落ち着くのがくらげコーナーなんだ。きっと好きなんだと思う」
「い、るけど、見えない……んじゃ、ないかな」
「いるならいいよ。光って見えなくてもいいんだ」
背中に発車のベルを聴きます。潮の香りが鼻を覆います。
改札を抜けて、すぐ。波の音が鼓膜を揺らしました。
「はー、来ちゃったよ、海」
たしかに、来てしまったという感想が胸を満たします。いったい、何をしているのでしょう。
道なりに進むと、堤防にたどり着きます。遠くに灯台の灯りが見えるだけで、一面はまっくらです。
「どうして夜の海が好きなの?」
「……静か、で、何も見えな、くて……だから、な、何も言わなくても、許される、気がする、から」
「何も言わなくても、か。そうだね」
星川さんは、堤防の端に足をかけました。
「言葉がなくても、思いだけが伝わればいいのにね」
まるでそのまま飛び込んでしまいそうで、わたしは追いすがるように言葉を吐き出します。
「ど、どうして」
「ん?」
「な、ぁ、泣いて……たの?」
絡まった舌が時間を巻き取ります。この旅路の、そもそものはじまり。頭上に落ちてきた、体温より熱いしずくの正体を、わたしはそう結論づけていました。
「泣いてないはずだけど?」
「あ、頭に、あたった」
「……そんなことあるんだ」
こぼれた涙のひとしずくが頭上に降る確率は、どれほどなのでしょうか。
「チョコレートを作ってきたんだ」
夜の海に感情を溶かすように、星川さんは言いました。
そんな言葉で思い至ります。今日はそう、バレンタインです。
「どうすれば愛が手に入るのかって思っていた。だれかを好きになればいいのかって考えて、今日、好きなひとを作ろうとしたんだ……でも、だめだった。チョコレートを渡したい相手なんて、決められなかった」
「……」
「愛が手に入らないんだって、悔しくなって……泣いたわけじゃなくて、けど、ひと粒だけ涙が出た」
星川さんがどうしてそんな考えにたどり着いたのか。わからないし、聞けるわけもありません。踏み込めるなら、もっと上手に生きられています。
でも、そうできないから、今この場所にわたしはいるのです。
上手にはできなくても、できることはあります。
海へと振りかぶった星川さんの手を、後ろから握ります。投げ捨てようとした小包を、諦めてほしくないから。
「……重たいよ、奥下さん」
「す、捨てちゃ、だめ」
「どうして? こんなのごみでしょ」
「ち、ちがう……!」
「じゃあ、愛はどこにあるの?」
「そ、それは、わから……ない」
「なら、関係ないよね」
「わた、し、も同じ、だから」
「……愛が、欲しいの?」
「そ、それは……べつに」
「は? じゃあ何?」
「思い、が……言葉にしなくても、伝わってほし、い」
言葉は不自由です。思っていることの、これっぽっちだって伝えてはくれません。
それが嫌で口を閉ざして、いつの間にか上手く喋れなくなりました。
そんなわたしと真逆だと憧れた星川さんも、同じ思いを抱いているなら、
「わ、わた、しが……力に、なる……!」
手を差し伸べたい。諦めてしまった自分自身をさげすむより、健全な行いのはずです。
「ほ、星川さ、んのほしいもの、手に入る、ように……絶対、する」
彼女の手から小包を奪い取ります。包装はテープで簡単に止められているだけだったので、綺麗にほどくことができました。プラスチックのケースに転がる感触。夜と同化して細かな意匠は見えません。
口に含むと、それはたしかにチョコレートでした。
「にひゃ、い……」
それもとびきりのビターチョコレート。
「苦いチョコ好きじゃないんだよね……だから、最初から諦めてたんだ」
わたしの蛮行に憤ることなく、星川さんは疲れたように言うのでした。
「ねえ、ほんとに私のほしい愛をくれるの?」
「が、がんば、る」
「努力じゃなくて、約束して」
ぐい、と顔が寄せられます。圧です。チョコレート味の言葉が舌の奥で詰まります。
酸素が足りなくなって距離をとろうとして、わたしはそれを見つけました。
「星?」
「ん? ああ、こんな暗いのによく見つけたね」
わたしの視線は、星川さんの瞳に吸い込まれています。そのなかに、光らない星を見つけたのです。
「カラコンだよ。よーく見なきゃわかんないんだけどね」
それはどこか、彼女のかたちの一端を垣間見たような、そんな気持ちになりました。
その喜びに押し出され、わたしは唇を震わせます。
「する、や、くそく。星川さん、に、愛をあげる……って」
「期限はホワイトデーね」
「え?」
「食べたじゃん、バレンタインチョコ。だから、お返し」
「み、みじか、い……」
「えー……わかったよ……じゃあ、来年まで待つよ」
「あ、ありが、とう」
「奥下さんって名前なんて言うの?」
「ぇ……え、あの……雪菜」
「そう。ねえ雪菜、あなたの放課後を私にちょうだい」
「……? な、なん……で?」
「放課後を一緒に過ごさないのに、私の大切になるものに手が届くと思う?」
理屈がよくわかりません。けど、校内で時間を共にするよりは、越えるべき壁は低いと思われます。
頷くと、星川さんは得意げな表情を見せました。よくわかりませんが満足したようです。
「私たちのこの関係って、友達でいいと思う?」
その定義は、敷居を踏み越えていると思われます。
目標の共有のために繋がって、共犯と言うには罪を犯すわけではありません。言うなれば、
「……交友、関係……?」
「交わってる、か……うん、そうかもね。その交わった一瞬の点が、私たちのコミュニケーションだ」
そうして、夜に溶けるチョコレートのように、だれに知られることなく約束は交わされました。
帰りの電車で「侑香」と名前を呼ぶように言われ、しばらくは慣れなかったものの、今ではすっかり口馴染みしています。
逃避のように思い出す、約束。その記憶の実在を確かめなければ、わたしは今にも崩れ落ちそうでした。
破綻は、前触れなく訪れました。
「わかんないよ、雪菜が何を考えてるのか」
ぷつりと切れてしまった
気づかずに、ひとり安心しきって渡っていたわたしは、足場を失います。
「言葉にしてくんなきゃ……伝わんないよ……」
侑香の言うことは、正しいです。
楽しいことも、悲しいことも。
きっと、伝えなければ、伝わらないのです。
でも、だからこそ。
わたしは怖いのです。
口に出した言葉が、わたしのかたちをしていないことが。
「……ゆ、か」
「ごめん、雪菜……けど、やっぱり私は怖いよ。言葉にしなくても伝わる関係が欲しいのに、言葉にしてもらえないことが、怖いんだ」
わたしたちは同じです。伝わらないことを怖がっています。
それでも鏡写しではありません。無言に逃げ込んだわたしと、暗闇の迷路を進むように言葉を紡いだ侑香。どちらの精神が先に限界を迎えるかなんて、火を見るより明らかです。
ビターチョコよりよっぽど苦い現実は、わたしたちを甘い約束の日から遠ざけます。
侑香の背中が離れていきます。
愚かなわたしは、立ちすくむ以外の行動が思い浮かびません。
ホワイトデーが間近です。
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