ある公共施設の歴史

杉村雪良

ある公共施設の歴史

 その村の郵便局はロッジ風の建物だった。標高約800メートルの山間に踊り場のように広がる素朴な村の景観に、よく馴染んでいた。無垢材を一見無造作に組み合わせたような外見といい、ドアの上の飾り窓に施された素朴な装飾といい、現地の人々の好みにぴったりだった。

 19世紀に郵便制度が発達するに及んでこの村にも郵便局が建てられると決まった際に、地元の木材をふんだんに用いたこの工法が採用されることになった。落成式には村人が一人残らず集まったという言い伝えがある。本当に全員だったかどうか真偽は定かでないが、村史には「郵便局の始業を祝うため、過去に例がないほどの村民が集まった」と書かれている。

 シラカバやカエデの林を背にして赤い大きな屋根がよく映え、窓を覗けばそこにはいつでも、中で働く職員たちの姿があった。扉は庁舎のそれよりも立派な樫の木でできていて、誰かが開くたびに鈴が鳴った。大通りに面した側に休憩用のベンチがあり、いつも村人たちがおしゃべりに興じていた。反対側にあるあずまや風の物置には、配達用の自転車が出たり入ったりしていた。

 村の大通りは半日歩けば悪名高い郡街道へ出る。しかし郡都から村を訪ねる人間はほとんどいないと言ってよかった。村にはこれと言って人を呼び寄せるような魅力はなかった。特別な産業もなく、林業や平凡な民芸品で生活が成り立っていた。鉄道の発達に伴い、私鉄が村間で伸びた一時期には観光で景気が上がったのだが、当時珍しいとされた乳白色の温泉が、ほどなく起きた地震で突然透明になってしまったことは皆を落胆させた。

 その直前であったが、ある財閥が地域のホテルをいくつも買収して再開発をもくろんだ。だが、財閥幹部の収賄が発覚し、役員が総辞職した。その結果、計画全体が中止となった。

 この二つの事件が重なったことで観光産業は破壊され、地域の経済はむしろ悪化してしまった。結果、地域の住民たちには諦観と逆説的な郷土愛が残った。

 郵便局はこうした歴史を住民たちとともに経験した。壁には時代ごとの写真が所せましと貼られ、資料館か記念館の様相を呈していた。休暇を温泉宿で過ごすべく大挙して訪れた人々を映した写真も、彼らが来なくなって空っぽになった目抜き通りの写真も、等しく並んでいた。

 

 衰退したのは観光産業だけではなかった。そもそも人々が手紙を書く機会自体が減ってきていて、手紙を仲介するというだけの郵便局の仕事は著しく減少していった。最盛期には局長以下三十人余が働く大所帯であったが、ついには老夫婦が二人で切り盛りするだけの施設となった。

 国が運営する郵便局であるので、もちろん建物は郵便省の持ち物であり、郵便省の権限で運営されているものであるが、くだんの老夫婦ですら正式な国の職員でなく。臨時雇いの委託職員扱いであった。時の選挙で、保守政権は革新党に議席を大きく奪われ、革新党の意向を汲んだ法をいくつも通さざるを得ない状況だった。革新党は赤字部門(と党が断定したもの)を切り詰めることにやっきになっており、人件費削減、死蔵資産の売却を合言葉に、次々と大幅な切り捨てが行われた。

 このままでは、赤字の郵便局を閉鎖されことになるのではないかという恐れが人々の中に蔓延した。村人に長年慕われてきた建物の保存を巡って、互助会の会合が何度も開かれた。しかし施設の経営を黒字に戻すことは困難であることは誰の目にも明らかだった。赤字のままでも維持してもらうように政府に懇願しようという案も挙がったが、それが聞き入れられるかどうかは不明だった。

 村史には「彼らが何度会合を開いても事態が変わることはないだろうということは村民は百も承知だった。だが、何かをせずにはいられなかったのだ」と書かれている。

 

 郵便局の最後の職員であるおかみさんが転倒して仙骨と右小指の骨を骨折した。怪我自体はそれだけといえばそれだけだったが、彼女はショックを強く受けて臥せってしまった。夫も同じくらいショックを受け、彼女の世話でほとんど出勤できなくなった。つまり郵便局は開店休業状態になった。おかみさんの手術後の経過は思わしくなく、検査とリハビリを繰り返しているうちに時間が経った。二人に子供はいなかった。結局、彼女の復帰のめどが立たず、郵便局の存続は宙ぶらりんになった。このままではいずれにしても閉鎖になってしまうのではと誰もが思った。樫の扉が開かれて鈴が鳴る回数はどんどん減っていった。

 

 まず最初に、引退した炭焼き屋夫婦が職員の代理を務めた。公的な依頼があったわけではない。多くの村人が、郵便局の受付台の向こうに誰も座っていないのはまずいと思い、特に炭焼きの夫婦がそう強く思った、というだけだった。正規の労働ではないため、夫婦に給料を支払う者はいなかった。それでも夫婦は預かった鍵を使って樫の木のドアを毎朝開けた。一日に数通の手紙を受け付け、見よう見まねで宛先別の仕分け袋に入れた。何枚かの切手を売った。長年使われていない私書箱の利用記録に0と書き込んだ。

 この地域では、困ったことがあれば気づいた者が率先して対応するという価値観が根付いていた。この夫婦が特別という訳ではない。しかし真っ先に行動したという点で村の全員から尊敬を集めた。たいていの村民たちはそんな選択肢があるということすら気づかなかった。夫婦がいなければ、郵便局は森に消え忘れ去られていたかもしれない。

 しかし、この夫婦も高齢でそれほど長い間郵便局員の代理を務められるわけではなかった。自分の生活もあった。しばらくして、郵便局に誰もいない日が戻った。ある日乾物屋のおかみさんがやってきて、受付台の事務椅子に座った。乾物屋の旦那はとっくに亡くなっており、おかみさんが郵便局にいては、乾物屋の店番は誰もいないはずだった。それでも、彼女は郵便局を存続させなければならないと感じていた。しかし、彼女が思ったよりも郵便局員の仕事は暇だった。彼女はある日、郵便局の受付台に座り、その片隅で缶詰や乾燥食品を置いた。人々は一度乾物屋に行き、留守なのを知ると郵便局に行った。乾物屋のおかみさんは何日かに一度はそこにおり、わずかな手紙を受けつけながらインゲン豆の缶詰やタラの干物を売った。

 次に、薪屋の主人がその椅子に座った。彼は抜け目なく、乾物屋のおかみさんが何日かかけて気づいたことに初日から気づいていた。すなわち、彼は最初から薪を受付台の隅に置いた。一日目は誰も手紙を持ってこず、薪だけが売れた。二日目も三日目も同じだった。

 

 ある日小学校教師の男が散歩の途中で何げなく郵便局の樫の扉を開いた。特に用事があったわけではないが、久々に昔の写真でも眺めようと思ったのだった。しかし扉を開けていつものように鈴が鳴った時、彼が見たのは意外な光景だった。郵便局の受付台前は、大勢の人であふれかえっていた。これほど混んでいる郵便局を見たのはここ数年で初めてだった。郵便局の中にいる人々は皆受付台に並んでおり、三つの列ができていた。台の上を見ると、雑貨屋、果物屋、酒屋が受付台を分け合ってそれぞれ店を開いていた。

 「便利でいいな」誰かが言った「ここに来ればいくつかの用事が一度に住むから」

 なるほど、とその教師の男も思った。

 彼は次の日も気になって郵便局を覗いた。受付台の向こうには、ソーセージ屋、雑貨屋、医者が座っていた。昨日よりも更に大勢の客が訪れていて、身動きも難しいほどだった。以前の郵便局にはなかった、待合の順番を示す番号札が導入されていた。

 

 それ以降、村民が代わるがわる受付の椅子に座った。皆思い思いの物を売った。そこに行けば何かしら買えるし、また思っても見ないものが隣で売っていたりするので 皆がそこに買い物に行った。その建物はいつでも混んでいた。

 そんな光景を中央政府の役人が見たかどうかはわからないが、その施設を廃止しようとする行政の動きはなかった。

 

 ある日樫の扉を開けてみると、受付台に雑貨屋と本屋と見慣れない男性が座っていた。

 見慣れない男性は、弁護士とのことだった。「この村には弁護士がいないそうで」男は誇らしげな表情で語った。「だから私が呼ばれたのです。なるべく職業に偏りがないようにということでしょう」


 ある日、何か楽しいことはないかと考えた誰かが樫の扉を開いた。鈴が鳴った。そこには誰もいなかった。いや、よく見ると、小柄な男がひとり座っていた。訪れた男が、座っていた男に、どんあ商売を開いているのかと尋ねた。

「手紙をお預かりして、指定した場所へ届けます。もっとも私が最後まで届けるのではなく、近くまで持って行ってくれる人へ仲介するだけですが」と男が答えた。

「変わった商売を考えますね。そんなことを仕事にするなんて聞いたこともない」尋ねたほうの男は笑った。「それに、この村には手紙を出す人間なんかいないんじゃないかな」

「わかります、どこでもそうですから」と小柄な男はため息をついた。「だけど、たとえわずかでも、手紙を書きたい人と受け取りたい人はいるのです。そういう人たちのために私はここで座っています」

 訪ねたほうの男は、なるほどと言ったが、本当に理解したかどうかはわからなかった。

 古いロッジ風の公共施設の中には、様々な商売を営む人たちがいる。それらの人気のある商売人たちに挟まれて、手紙を仲介する商売は今でも続いている。

 村史には、「この建物が何のために建てられたのかよくわかっていないが、とにかく村の役には立っている」と書かれている。

  終わり

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