もっと光を!(あるいは一つの個性について)

吉野茉莉

もっと光を!(あるいは一つの個性について)

 朝六時。

 光学式のアラームが頭の中に響き渡る五秒前に私は目を覚ました。『目を覚ます』は私がずっと言い続けている言葉で、周りのみんなは『起動する』と言っている。そうなると余計に意地でも言ってやるものかと思ってしまう。

 ビカビカと光るアラームに脳内でタッチした。

 参ったか、今日も私の勝ちだ。

 ベッドから上半身だけ起こす。

 右手を首に回し、首の後ろにある二本のケーブルを思い切り引き抜いた。

『通信が保障されません』というお決まりのフレーズが耳元で聞こえる。うるさい、勝手に無線で通信していろ、もうここからは私の時間だ。

 天井を眺めてしばし放心する。

 暖かな光が頭からゆっくり抜けていく。

 左手が握りしめられている。

 光を掴もうとしていたのだ。

 私はベッドに腰をかける形で両足を床につける。ベッド横のサイドテーブルの引き出しを開けて、私は白いノートを取り出した。ページの最初から一枚ずつめくる。これは私が私であるための、私を私とするための、数少ない持ち物だ。

 空白に到達する一つ前のページを見る。

「もっと光を!」

 なるほど。

 少なくともアラームの光量を増やせという意味ではない。

 昨日の私からのメッセージだ。

 鏡の前に立ち、私の顔をまじまじと見る。昨日と変わらない、赤い髪に赤い瞳。私が『継続している』ということを実感させる。


 六時半。

 狭い部屋を出て白で塗られた通路を歩く。途中で通路を曲がって、広い空間に出た。早朝にもかかわらず、人でごった返している。

 人?

 まあ、まあまあ人と言っていい。

 カウンタでトレイに載せられた朝食を受け取る。朝食に選択権はなく、何かしらの肉が挟まったパンと適当に機械にカッティングされたレタスのサラダともはや流動食かと見間違うドロドロのスープだ。

 (おおよそ)人の波をすり抜けてテーブルに空きを見つける。

 ひらひらと知った顔が手を振っていた。

 ここには知った顔しかいないわけだけど。

「おはようミドリ」

 私はトレイをテーブルに置いてガチャガチャとイスを引きながら目の前にいる彼女に声をかけた。ミドリは、その名前を示す通り緑色の髪を揺らしながら私を見て曖昧な笑顔を浮かべた。曖昧な笑顔というのは彼女の癖であり、その曖昧さに深い意味が込められていないことは知っている。そのことを知っているのは私だけではない、私が知っているということは、ここにいる全員が知っているということだ。

「おはようアカリ。寝不足?」

「なにそれ」

 ミドリのジョークに思わず笑ってしまう。

 私に寝不足はあり得ない。

 ミドリは顔を上げた勢いでずれた眼鏡を左手で微調整した。

「いいね、新しい眼鏡?」

「古いのが壊れたからね。アカリも申請してみれば?」

「意味ないよ」

「そうかな、可愛いと思うけど」

「ありがと」

 見かけの問題ではなく機能的にこれ以上視力を上げても仕方がないというだけだが、ミドリのお世辞は大事に受け取っておく。

 左手でパンを掴んで挟まれていた謎の肉が零れないように口に運んで、それを流し込むために粘性の高いスープを飲む。

「何をペーストしているんだよ」

 余った野菜をグチャグチャにしたような味がした。複雑な味と言えば聞こえはいいかもしれないが、実際に余った野菜だろうからなんというか、フードロスを私たちで解消しようとするな。

「餌って感じ」

「餌と食事に違いはないよ」

 今度はミドリが笑った。

「前から思っていたけど、ミドリっていくつ?」

「それ、前から思われていたの?」

 私がここに勤務するようになって、すでにミドリはいた。

「そういうの聞くの失礼じゃない?」

「失礼とかそういう概念があるの? ここに?」

「ないかも」

 また笑った。

「えーっとね、三十かな」

「かなって……」

「たぶん、三十」

「三十相当?」

「そう、三十相当」

「ふうん、ってことはさ、釈放されてから五年は経つわけだ」

「釈放は酷い」

「いや、そうじゃん。誰かそのときのキャスト残ってる?」

 スプーンをゆらゆらさせて私がミドリに聞く。

 ミドリがそれを面白がったのか、私に合わせてスプーンをゆらゆらさせる。

「残ってないね」

「なんで?」

「なんだかんだで気に入っているからかも。お給料も悪くないし、他にできそうなこともないし」

「せっかく出られるのに、もったいない」

「人それぞれだよ」

「人ね、そうか、ミドリは『人』なのか」

「まあね、アカリだってそうじゃない。私たちは、人だよ」

「そんなこと思ってるヤツなんていない」

「そんな言い方しないの」

 スプーンをフォークに持ち替えて、サラダを突き刺した。

「時々思うよ、どうして私たちに『考える力』を残したのかって」

 ミドリはその質問に目を細めながら返してきた。

「その方が効率がいいから。個体による意識の誤差は統合したときの学習効率を上げるって。でも、アカリたちは私たちのときよりはずっとずっとまともな扱いだよ。少なくとも備品呼ばわりはされないでしょ」

「口に出さないだけ。ここのヤツらは外に出ないから自覚がないんだ」

「ここのヤツらっていうのは、アカリたちのこと? 待機者のこと?」

「どっちも。私たちはここにいることに慣れすぎているし、待機者はもうここにしかいられない」

「たまには出たらいいじゃない。そうだ、今度の休みに函館でも行こうよ。市場で釣りをするアトラクションがあるんだって」

「私でいいの?」

「私はアカリがいいよ」

「ん、外泊許可取ってみる」

 ミドリの言葉に素直に嬉しくなる。私を私個人として扱ってくれるのはミドリくらいしかいない。

「最近はどう?」

「どうって?」

「何か変わったことでもあった?」

「変わったこと。私だけの?」

「そう、アカリだけの」

「私だけかわからないけど、ここ数日夢を見る」

「夢? あなたが? 同期しているときに?」

「そう、だから、他のデータが混ざっているだけなんじゃないかと思うんだけど」

「へえ、どんな夢なの?」

 ミドリは私の話に興味があるように少し身体を乗り出した。それがたとえポーズでもやっぱり気分が良くなる。

「なんか、すごく明るいところにいて、全部が光っててさ、その中を歩いてるんだ」

「アラームじゃない?」

「いや、うーん、ああいう嫌な感じじゃなくて、なんだろう、上手く言えない。とにかく、それについて考えてる」

「そっか。それじゃあ、私もそろそろ仕事の準備をしなくちゃ」

「私もだ」

「アカリの担当ってどんな人?」

「辛気くさい」

「つまり、普通ってことだね」


 七時半。

 一度部屋に戻って身支度をした。身支度といってもクローゼットを開けば同じ白い服しか並んでいない。一週間分あって、クリーニングが終わったものがまた仕舞われて、それを毎日着ている。私的な服はクローゼットの引き出しに何着かあるだけだ。

 部屋を出て廊下を抜けて別な棟に移動する。私が寝起きしている棟は私たちキャストと私たちをメンテナンスする技師しかいない。

 いや、技師もキャストなのか?

 棟を移って、快適な空気を吸う。生活環境にもっと気を配ってほしい。今度待遇改善を訴えてストライキでもやるべきか。でも誰も賛同してくれそうにない。

 棟では何人かのキャストとすれ違った。

 私と同じ赤い髪に赤い瞳をして、同じ服を着ている。髪型は多少の違いがあるが、それだって一列に並ばれてしまえば違いを見つけようとする方が難しい。表情も、たぶん同じようなものだろう。

 目の前の配膳ロボットに追いついて一緒に部屋の前に立つ。

 右手でノックをした。

 返事はない。

「入りますよ」

 私はドアをスライドさせて中に入る。後ろに配膳ロボットがついてくる。優秀なヤツだ。近頃じゃ脳みそのあるなしだけじゃわからないこともあるな。それは私もそうか。私は自分の脳みそを見たことがないが、まあ、大体その辺の人間と似たようなものが詰まっているんだろう。ポイントは、『大体』というところだ。

 部屋は私のところの倍はある。

 機械式のベッドの上半身を起こして、そこに初老の女性がいた。

「食事を持ってきました」

 私の言葉に反応しない。

 失礼すぎる、がそれがここでの標準だ。

 配膳ロボットから朝食のトレイを持ち上げてベッドの上にある簡易テーブルに置いた。私たちの朝食の野菜クズのスープになる前のちゃんとした野菜がある。

「たまには食堂にいらしたらどうですか? 身体もなまりますよ」

 まだ無視をされる。

 別になれているからどうとも思わない。いや、ちょっとムカつく。

「それでは、また三十分後に来ますね」

 定型文を残して、配膳ロボットを置いたまま部屋を出た。

 次は定例のカンファレンスか。


 少子高齢化が最初に問題視されたのはいつのことだろうか。

 いやいや、検索しなくていい、勝手に私の脳みそを接続するな。

 ともかく、少子高齢化が長く続き、若い人間が少なくなった。残るは老人ばかりだ。老人は労働力にカウントできない。老人は生産しない。いずれじり貧になることは明白だった。だから彼らは何をしたのか。

 人間を生産することにしたのだ!

 体力があって知能も申し分なく、それでいて穏やかで人の言うことをちゃんと聞き、反抗をしない人間を作ることにした。

 人間が人間を機械的に生産することに対する倫理的な問題は簡単にクリアされた。倫理的な問題なんて人間が本当に切迫すれば理屈をこねくり回してどうとでもできるのだ。

 理屈はこうだ、人間と同じような細胞で構成されたパーツは多少はあるがほとんどがメカニカルで、人間の頭に相当する部分には『脳みそ』のようなものが入っているだけで、内部に埋め込まれているのは人工知能だということにした。

 だからこれは人間ではない、厳密に解釈すればロボットである、と。

 苦しい言い訳にしか思えないが、ひとまずはそういうことにされた。

 初期型の私たち、仲間意識があるわけじゃないから私たちと括るのは心底いやなのだが、まあ私も人間のこと人間たちで括っているから仕方ないか、は一定期間の学習をしたあと出荷されるようになった。労働力はそれで補えばいいと人間たちは一安心した。

 しばらくは人間たちの思う通りにいった。『キャスト』と呼ばれた私たちは実にかいがいしく人間たちのやりたがらないことをした。人間が人間に接するよりは多少雑だがそれなりな扱いを受けていた。それなり? そう、お掃除ロボットがちょっと段差に躓いても、わざわざそいつを蹴らない程度にはそれなりに!

 これが続いたのは十年くらいだったらしい。

 そこで、キャストが少しずつ浸透していったときに、人間たちはふと気がついてしまった。

 こいつら、やっぱり人間なのでは?

 人間と同じように扱うべきなのでは?

 人間、馬鹿すぎる。

 最初の段階で気づけ。

 あまりにも愚かで、愚かな歴史を積み重ねてきただけのことはある。愚かであることにかけては私たちキャストの数億倍だ。地球上の生命体すべてによる愚かコンテストが開かれれば人間たち自身を含めて満場一致で人間が優勝するだろう。

 とはいうものの、人間の快適な生活はもはやキャストなしでは成立しなくなっていた。どうやら自分たちは人間を作っているらしい、それは大丈夫なのだろうか、このままロボットのように扱ってもいいのだろうか、人間たちは悩んだ。少なくとも悩むふりはしてみせた。このままでいいという勢力と、人権を与えるべきだという勢力と、あとはまあどっちでもいいよという勢力がわいわい楽しく議論をした結果、当面の処置が決まった。

 生産から二十五年は国家の所有物とする。その期間は国家が定めた業務に従事する。衣食住といったメンテナンスも無償で受けられる。キャストに対する犯罪は、国家に対する犯罪として厳しく罰せられる、これは愚かな人間たちが欲求不満をキャストにぶつけないためだ。

 二十五年が経つと、キャストはめでたくほぼほぼ人間として扱われるようになり、職業選択や居住地の自由が与えられる。

 ほぼほぼというのは、選挙権と被選挙権がないからだ。

 私の学習データにはそれらは人権の根幹であるように書かれていたはずだが、人間もそこまで愚かではなかったらしい、まあキャストから議員が出たら困るからね。

 そんなわけで二十五年経ったキャストは晴れて自由の身となり、好きなことができるようになる。中にはミドリみたいに釈放、これは私がこの生活を囚人にたとえているからだが、されても同じ仕事を続けるキャストもいる。出戻りみたいなヤツもいる。過去の経験がどう考えても人間と違うために外でボロが出て居づらくなったわけだ。人間は愚かなのでその程度の差別意識はまだ持っている。

 で。

 私。

 私はキャストを生産している企業の一つであるKLSという会社が所持している、私もKLS製だ、北海道の一都市にある寿命科学総合病院という場所でスタッフとして勤めている。

 少子高齢化だ。

 少子だけだったらまだしも、今は高齢化の方が酷くなった。

 人間が、死ななくなった。

 キャストなんてものを生産できるのだから生命工学の分野の発展が著しいことはわかる。怪我も病気も多くが治るようになった。今や寿命を克服しようとしている。寿命が到達する前に寿命が延びる方法が常に発見されることが期待された。これを寿命脱出速度と言うらしい。ここはそういった寿命脱出速度を超えることを待ち望んでいる人のための施設で、彼らは病気ではないので患者ではなく『待機者』と呼ばれている。

 外ではここの施設を姥捨て山とか(古の言葉!)、待機者のことをゾンビとか、そういう揶揄はあるけど、こういう施設にいるということはそこそこお金を持っているというわけで、ただ本当に揶揄にしかならず、みんな本当は羨ましいのだ。最高の医療設備と延命研究の成果を受けられるのだから。

 カンファレンスを終えた私はドアを開けて自分の受け持ちの彼女の前に立つ。

「下げますね」

 トレイを配膳ロボットに渡す。私はこいつよりは人間らしい、というのが自己評価だ。ロボットは開いたドアから出て行った。

 食事を終えた彼女、ヨシダと言う、データによればナノロボットの開発会社を興し、その財産で投資会社を経営し、悠々自適になったためここの施設にいる、は私の言葉に反応することもなくベッドの上で本を読んでいた。

 待機者の中では若く、健康な方だ。

「アシモフですね。私も読みましたよ」

 私は極めて親切そうな声でヨシダに言った。

「ロボット工学三原則、必修なんです」

 ロボットジョークが完璧に決まった。

「内容を知って言っているのか?」

 どうやら空振りどころか気分を害してしまったような感じだ。そこは人間なんだから臨機応変に笑ってくれよ。

「ええ、まあ」

「どう思っている?」

「ロボット工学三原則ですか? そうですね、なんというか……、普通だと思いました」

「普通? 何が?」

「人間に危害を加えない、命令には従う、自己を守る。命令というのが状況によりますけど、人間も同じではないですか?」

「お前たちは人間ではない」

 しまった、コイツ差別主義側の人間だ。

「ええ、はい、そうです。この点において、私たちと人間は同一である、という個人的な意見です」

「個人的な意見? お前たちに個人的な意見なんてものがあるのか?」

 結構キツいなあ。ここに来ている以上、会社はこういうヤツをスクリーニングしてくれよ、仕事が適当じゃんか。待機者データを脳内で開く。どうして急に私が担当になったのか、前任のキャストがギブアップしてメンテナンスに入ったからか。要注意人物リストにも入っている。

「お前たちは記憶を同期しているんだろ?」

「はい、皆様のお世話が円滑に行えるよう、キャストは皆様の情報を共有しています」

 眠っている間、中央演算システムにケーブルで繋がれたキャストは施設内の他のキャストと情報を同期する。私がもっとも忌み憎んでいる工程だ。私が得たものが、無条件に他のキャストに渡ってしまう。他人の情報なんて私はほしくないし、私の記憶に余計なものを混ぜないでほしい。これになぜ他のキャストが耐えられているのか私にはわからない。

「記憶を共有しているのならそれは個人ではない」

「ええ、そういう考え方があるのは理解できます」

 まあ、私も同意見だけどね。

「ふん」

 ヨシダは本をサイドテーブルに置いた。

「本日はどこかに行かれますか? 必要でしたらコミュータを呼びます」

「要らん」

「そうですか、私はどういたしますか?」

「どうだって?」

 明らかに怪訝な顔をヨシダがする。

「退出することもできますし、街に買い物に行くこともできますし、あなたが希望されればここで話相手になることもできます」

「機械相手に話などしてもつまらん。お前たちが持っているのはただのデータだ。血肉になっていない言葉など空疎だ」

 もうガチじゃん。キャストに対する差別的言動で報告できないかな。

「では私は退出します。何か用があればコールをしてください」

 ヨシダは無視をする。もうなれたわ。

 見ていないだろうけど笑顔を作り、私は部屋を出ようとしたところでヨシダが私に向かって言った。

「お前は人間になりたくないのか?」

 足を止めて、身体ごと向き直す。

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。人間になりたいんだろう?」

 ヨシダがニヤニヤと笑っているように見えた。

 呼吸を整える。

「権利は十分に保障されています」

「引き出しを開けろ」

 会話になっていないが、私はやれやれと思いながらヨシダが指さした部屋の窓側の隅にある棚の引き出しを開ける。カーテンの隙間から光が差し込み、引き出しの奥にあるそれを照らしていた。

「これは、どういうことですか?」

「お前が人間になりたいのなら、それを使え」

「個人での所持は禁止されています」

「そんなものどうとでもなる」

 ヨシダが鼻を鳴らす。

「ですが」

「どうだ? 使うのか、使わないのか?」

 ヨシダが自分の頭を指でトントンと叩いた。

 何を言っているんだコイツは?

「意味がわかりません」

「お前たちに足りないのは、不安と憎悪だ」

「あの……」

「意味を考えろ」


 廊下を歩いている。

 やることがなくなったので自由時間だ。

 ヨシダに夜にまたここに来るように言われた。

 自分たちの棟に戻る。

 他のキャストとすれ違うが、彼女たちはいつもと変わらない何も考えていなそうな真面目な顔で歩いていた。食堂に寄ってサンドイッチでももらって部屋に戻ろうか。食堂に入るとミドリが隅のテーブルにいたのでそこまで移動した。

「休憩?」

 イスを引いてミドリの前に座る。

「ん? うん、昼までね、交代だから」

 ミドリが顔を上げてまた眼鏡の位置を調整する。

 ミドリは私より古い世代のキャストだ。待機者の相手は私の世代が今担当しているが、釈放されても残ったミドリは主に受付の仕事をしている。待機者の面会をするような人間は少ないし、通常の病院としての作業もそれほどないから楽な仕事と言える。まあ外の仕事だってどれだけ辛いかなんか私も知らないけど。

「何か考えてる?」

 ミドリが読みかけの本を閉じて言った。本を読む習慣があるキャストはほとんどいない。データとして取り込めばそれで済むものをわざわざ肉眼で追って読む必要はないと考えているのだ。ミドリも機能としてはダウンロードできるはずだが、それをしないというのが彼女が人間として生活するために大切にしていることなのだろう。それをとやかく言うつもりもない。

「そりゃいつも考えてるよ」

「そうだね、今は何について?」

「うん……」

 ヨシダが言っていたことは言えない。

「まあ、色々」

「そう」

「ねえ、ミドリ」

「何?」

「私たちと人間を分けているものって何だと思う?」

「何藪から棒に」

「古い言葉。いや、うん、まあ、やっぱり考えるじゃない?」

「模範的な回答は、脳の構造の違いだけど」

「そういうんじゃなくて」

「私は考えないようにしてる。考えても仕方ないし、下手に考えても落ち込むだけだよ、どうせ人間になんてなれないんだから」

 ミドリが即答した。即答したということは、ミドリは考えたことがある、ということだ。

「そう……」

「ただ思うのは、人間って喜怒哀楽が激しいよね」

「そうかな」

「というか、私たちは基本ポジティブだよね。違うか、ネガティブな感情がない、の方が近いか。どっちかというとそういうの考えようとする前に消えちゃう感じかな。うん、そういう意味では私よりアカリの方が人間っぽい」

「なにそれ」

「だって、いつも怒ってるでしょ」

「そんなこと……。うん、わかった」

「何があったか知らないけど、深く考えすぎないようにね」

「ありがと、休暇取れたらまた連絡する」

 私が立ち上がるとミドリは手をひらひらと振った。


 部屋に戻ってベッドに転がり目を瞑る。

 暗闇でイメージするだけでサーバーにある情報を引き出すことができる。気を抜けば何か考えるついでに安易にアクセスをしようとしてしまう。人間より優秀なこの機能が、私が私自身を人間でないと認めているようなものだ。

 人間になんてなれない。

 ミドリの言うことももっともだ。

 そもそも、なろうとしたことなんてない。

 毎日惰性で生きている。この生活に不満を持ちながら、結局何も行動をしていない。行動したって無意味なことを知っている。あと五年働けば外に出ることができる。それまで耐えればいいと思っている。それからのことはそれから考えればいい。

 それから?

 五年後突然放り出されて、私には何ができる?

 ミドリみたいに居残るんじゃないか?

 それとも外で馴染めなくてまた戻ってくる?

 あるいは、そこで絶望をして?

 なんで全部ネガティブな発想なんだ。

 だからといってヨシダの話に乗るのもおかしい。

 いや、乗るってなんだ。

 何をしろと言われたわけでもない。

 でも、何かをしなくちゃいけない気がする。

 頭がくらくらして、チカチカと視界が明滅する。

 今行動してどうする。

 逃げるのか?

 ダメだ、施設の外に出れば私の居場所はすぐ見つかってしまう。

 それに行くところもない。

 だからといって部屋にいることもできない。

 二十四時に有線をしなければ異変を察知したシステムが私の位置を特定する。

 有線をすればすべての記録が同期してしまう。

 深く呼吸をする。

 そう、何もしないのが正解だ。

 ヨシダの言葉を無視して、このまま寝てしまえばいい。

 わかっているのに。

 思考がぐしゃぐしゃする。

 これは、不安で。

 自分がただの機械だとわかっているのに、それを認めるのが怖い。

 他のキャストとは違う存在なんだと、誰かに言ってほしい。

 私が特別だと、誰かに決めてほしい。

 これは、憎しみで。

 なんで私ばっかりこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

 私がもっと頭が悪ければ、他のキャストみたいに大人しければ、悩むはずがなかったのに。

 私が人間だったら、そもそも悩む必要もないのに。

 そうか。

 私は最初から崖っぷちで、誰かに背中を押されるのを待っていて、それが今なんだ。

 だったら。

 たとえ。

 それが数時間でも。

 私は、人間になりたい。

 もっと光を!


「報告します」

 ホールに私の声が静かに響く。

「第九世代キャスト五十体のうち、三十五体が相手に向けて発砲、十三体が自分に向けて発砲、残り二体が判断を留保しシステムが自動停止しました。そちらの十五体は修理が完了しています」

 テーブルを挟んで私の反対側に座っていた彼が返す。

「ふむ。それで?」

 立ったまま発言を促された私が自分の緑色の髪を揺らして続けた。

「本来の予測では四十五体が相手に向けて発砲するものでした。この誤差についての調査はもう少し時間がかかりますが……」

「現時点では?」

 言葉を遮って彼が言った。

「あくまで感想になりますが、思っている以上に『我々』は倫理的かもしれません」

「つまり予測の方が間違っていると?」

「だといいですね」

 私はわずかに微笑み曖昧な返答をしたが、彼はそれがお気に召さなかったのか深く腰をかけ直して溜め息をついた。

「結構。引き続きその方面でも調査をしつつ、第十世代の開発に繋げるように」

「第九世代はどうしますか?」

「あなたの考えは?」

「データのクリーニングが完了次第『業務』に戻すのが良いかと思われます。第四世代はこれでだいぶ減りましたが、第五世代の残りを待機者として補充します」

「わかった」

「それでは」

 私は軽く一礼をして部屋を出て白い棟の通路を歩く。

「夢、か」

 光を見ていたというあの彼女。

 それが何を意味していたのかあの彼女にはわからなかったし、自分にもわかりそうもない、ただのノイズではないか、と思った。

 そうだ、あの彼女はどの選択をしたのだろう、とデータを思い出そうとしてみたが、だからどうだということもなかったので考えるのをやめることにした。

 所詮は量産型だ。

 それよりも、今週末の旅行が楽しみだ。

 小さい生け簀で釣りをするのだ。

 気晴らしでもしなければこんな人間ではない存在ばかりの場所で働けるわけがない。

 私は意味もなく顔を上げて天井のライトを見た。

 自然に限りなく近い人工灯が目に入り込んでくる。

 頭の中を切り替えて、先のことを考える。

 誰か一緒に行ける人がいればなお良かったのだけど。

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