第12話 運命の姫巫女

桔梗ききょうは漢詩にもあかるい。いつぞやかそらんじてくれた屈原の『離騒』はよかった」

「なんと」


 忠相が目を見開くから、桔梗は慌てて平伏する。


 王族に生まれながら疎まれ、天界へと逃れる詩だ。

 なにか読めと言われ、つい景親かげちかのことを思って選んだのだが。


(……失礼、だったかしら……)


 冷や汗が背中を濡らす。


「ならば、この場で何か諳んじてみよ」


 忠相ただすけが陽気に命じた。


 桔梗はゆっくりと顔を起こすと、腹を決めて息を吸い込む。

 唇から漢詩を紡ぎだすと、くすり、と忠相が笑い、景親もぱちり、と扇で掌を叩いた。


 陶淵明の『飲酒』という漢詩だ。


「見事」


 諳んじ終えると、忠相が手を何度か打ち鳴らすから、深く礼をする。


「漢詩は誰から?」

「祖父が好きでした。薬草師でしたが、詩も好きで……。家に蔵書が」


 ほう、と興味深げに忠相が声を上げる。


「ではほかにもなにか……」

「おい」


 景親の不機嫌な声が断ち切る。


「桔梗をねぎらうために呼んだのだ。もう何も命じるな」


 ぶすりとした顔で景親が言い放つから、忠相は肩を竦めて酒を口に含む。景親は一転笑顔になるや、桔梗に告げた。


「この男のことは放っておけ。食事をするがいい」

「なんだなんだ。おれが勝手に指図したからやきもちか」


 豪快に忠相は笑う。景親は完全に無視だ。箸を手にする桔梗を満足そうに見るから、なんだか居心地が悪い。


 迷った末に里芋の煮物をつまみ、頭巾の端を持ち上げて口にはこぶ。

 ねっとりとした食感といい、醤油の加減といい、申し分ない。


光条こうじょう親王殿下が、お前をなんとしても取り戻そうとやっきになっておられる。こんな辺鄙な場所に閉じ込められているのも、あとわずかだ」


 もぐもぐと無心で箸を動かしていたら、忠相が陽気な声を上げた。


 ちらり、と視線だけ動かすと。

 彼は手酌でどんどん酒を飲んでいる。


(あとわずか、ということは……。もう、ここを出ていくのかな)


 ちくり、と心に痛みが走る。


 そっと景親を伺うが。

 彼は気だるそうに盃を見やるばかりだ。


「親王殿下のお心遣いはありがたいが……。私は罰を覚悟で進言したのだ」

「苦言を呈するのは臣下のつとめ。それを認めぬ主上がおかしいのだ」


「滅多なことを申すな」


 ぴしゃり、と景親が言い放つが、忠相は鼻を鳴らす。


「おれだけではない。最近では、御所ごしょ全体がそのような雰囲気だ。進言した世良守せらのかみ景親を罰するなど愚の骨頂。国を治める者のすることとは思えぬ、とな」


 景親は盃を手に持ったものの、扱いに困るようにぐるりと揺すって、友の言葉を聞いている。


「南の方では、親王殿下を主上おかみに、という意見まで出ている」

「馬鹿な」


 吐き捨てる景親の言葉に、びくりと桔梗は肩を震わせた。


「お隠れになる以外、誰かを次の主上に、など……」

「だから、お隠れあそばされればよいのだろう」


「忠相っ」

「冗談ではないのだ、景親」


 暢気にさえ聞こえるのに。

 忠相の目は笑っていない。


「世情には敏感な主上だ。自分への批判が高まっていることは当然ご存じだ。いま、何をしておられると思う?」


「……主上の思し召しなど、わたしには考えも及ばぬものだ」


 ある意味大人の返答だ。

 くっ、と忠相は喉を震わせて笑い、酒をあおった。


運命さだめ姫巫女ひめみこを捜し始めたのだ」


 彼の返答は景親の予想外だったのだろう。

 珍しく口を半開きにし、ぽかんと忠相を眺める。


「男前が台無しだぞ、景親」


 ははは、と忠相は腹を抱えて笑う。


 慌てて景親は口元を撫で、桔梗を意識したのか、ちらりと見やる。桔梗は慌てて〝見なかった〟ふりをしながら、耳をそばだてた。


(運命の姫巫女……?)


 なんだろう。聞いたことがない。


「そんなもの、噂だろう。何を主上は……」


 ため息をつき、景親は額を片手で覆っている。


「都を中心に流行っておるのだ。知らぬか?」


 桔梗の表情を読んだのだろう。忠相が気さくに尋ねてくる。おずおずと首を縦に振る。


 うなずきながらも。

 都で流行っている噂なら。


 どうして、大鴉おおがらすは何も言わないのだろう、と不思議だ。

 情報収集を生業なりわいにしているというのに、彼からそんな言葉を聞いたことがない。


「昔から都で時折流行る噂なのだ。運命の姫巫女と呼ばれる乙女が施政者の前に現れ、今後を指し示す、と」


 はは、とまた忠相は大笑いする。


「このような噂がはやるのは、民が不安になっているからだ。誰かあの主上に方向性を指し示してやれ、と。まともな政治をしろと言ってやれ、とな」


「忠相。口を慎め」

「このようなひなに目や耳などあるものか」


 言いおくと、ちらりとまた、桔梗を見る。

 エビをぱくりと口に含んだところだったが、慌てて咀嚼して箸をおいた。


 彼が。

 盃を突き出したからだ。


「忠相。手をかけさせるな」


 不機嫌な声にもひるまず、彼は笑う。


「お前が気に入る娘とは珍しい。気になるのだ」


 桔梗は彼の傍まで膝を進め、すぐそばにある瓶子を両手で持った。


「桔梗とやらは、独り身か」

 間近で問われた。


「はい」

 背筋を伸ばして、彼に向き合う。


「景親はあのようなきれいな成りをしておるのに、都では男色を疑われるほど女に手を出さんのだ。寝屋の相手もしてやってくれ」

「忠相っ!」


 鋭い声が飛ぶが、桔梗はその内容に真っ赤になりながらも。


 随分と意外だった。


 これほどの美丈夫だ。

 女など勝手に寄ってくるだろうに。


「女には困らぬ顔をしておるのに、妙に奥手でなぁ」

「いい加減にせんと、怒るぞ。忠相っ」


「だからなぁ」


 景親の言葉を途中で断ち切り。

 忠相はにっこりと笑う。「気になるのだ」と。


「どのようなりをしているのか、と」


 言うなり。

 桔梗の頭巾を掴む。


 咄嗟に、動けなかった。


 瓶子を両手に持っていたし。

 なにより。


『お見せできる顔ではありません』『醜いのです』


 そう言っておけば。

 こどものときはいざ知らず。


 大人になれば。

 誰も桔梗の顔に興味など示さなかったのだから。


 ふわり、と。

 空気が頬を撫でる。


 ぱさり、と。

 髪が首筋を流れる。


「……あ……」


 声が、漏れた。

 瓶子を放り出し、両頬を手で包む。


 素顔だ。


「ご、ご無礼を」


 すぐに平伏したのは。


 忠相も。

 景親も。


 呆気にとられたように。

 自分を見ていたからだ。


「これは、醜いものをお見せ……」


 震える声で詫びる途中に。

 ぐい、と左手を引かれて、悲鳴を上げる。


 気づけば。

 忠相の膝に乗りかかるようにして、四つん這いになっていた。


「お前……」


 掠れた声を忠相は漏らす。


 その眼には。

 もうさっきまでの笑みはなかった。


 ぞっと。

 桔梗は寒気が背中に走る。


 異様だ。

 危機的状況だ。


 咄嗟に逃れ出ようとしたが、しっかりと左手を掴まれたまま、強引に立たされた。


「よせ、忠相!」


 景親の叫びに、涙ぐみながら振り返る。


 彼は。

 立ち上がり、格子を拳で殴りつけていた。


「か、景親様……っ」


 名前を呼ぶ。


 だが、忠相は桔梗の手を掴んだまま、廊下にまで引っ張り出した。


 がん、と強引に雨戸のひとつを開く。

 差し込む日の光に目を細め、右手で顔を覆ったのだが。


 その手を今度は抑制された。


「忠相! 桔梗から離れろ!」


 怒りを含んだ景親の声を、忠相ははじき返す。


「お前、知っていたのか、この娘の顔を! 知ってて……」

「知らぬ! お前のような無礼者と一緒にするな!」


 なにが……。

 なにが、どうなっているのだ、と桔梗は涙を流しながら、日の光に自分をさらした。


「お前の母親はどこの誰だ。父親は。祖父は漢詩が読めるのだな? なぜこんな田舎にいる」


 大きな眼と跳ね上がる眉。忠相がすぐそばで問うが。


 恐ろしくて声が出ない。


「答えよっ」


 忠相の語尾は、鈍い打突音に濁る。


 咄嗟に顔を向けると。

 景親が、木刀で格子を打ち付けていた。


「それ以上の無礼は許さん。忠相」

「これは好機だ」


 手を掴んだまま、忠相は格子に近づく。


 徐々に。

 雨戸から差し込む日の光から離れ、桔梗はくずおれるほど安堵する。


「見よ! がここにいる」


 忠相が笑う。


「違う!」

 景親が怒鳴った。


「その娘は桔梗だ!」


 混乱する桔梗の顎を乱雑につまみ、忠相は景親へと向けさせる。


「金の髪、緑の瞳。まさに〝運命の姫巫女〟ではないか」


 紅潮した彼が吐く声は、やけに酒臭い。

 強引に景親に顔を向けさせられ、桔梗はひたすら、無言で涙を流した。


「この娘を都に……。いや、親王殿下の元に連れて行こう。そして、託宣たくせんをさせるのだ。『退位を』と。『新たにこの親王を主上に』と」


「馬鹿なことを……っ!」

「なにが馬鹿か! 状況が……」


 わかっているのか、という忠相の言葉は途中で途切れ、呻きに変わる。


 同時に。

 桔梗も拘束を放たれた。


 茫然と見やる視界の先で。

 景親が低くうなった。


「いつまでも桔梗に触れるな」


 格子の間から木刀を差し込み、忠相の肩を突いたらしい。


「桔梗。帰れ」

 鋭く景親が命じ、弾かれたように桔梗は立ち上がる。


「戸締りをしっかりし、家に閉じこもっておくのだ」


 震えるように頷いた。よろよろと襖へと足を進める。


「もう、ここに来てはいかん」


 鞭うたれたように、景親を振り返る。

 彼は桔梗を見つめ、きっぱりと告げた。


「二度と」


 硬直して彼の声を聞いていたが。

 呻きながらも立ち上がろうとする忠相に気づき、桔梗は駆けた。


「ど、どうかしたのか……?」


 騒ぎを聞きつけたのだろう。

 玄関先で狼狽える幾人もの武士たちを突き飛ばし、桔梗は走った。


 その中には。

 じっと自分を見つめる弥吉の姿もあった。まだ、武士ごっこは継続らしい。


 桔梗は走る。

 素顔のまま。


 顔をさらしたまま。

 家へ、と。


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