第9話 怪我

 村長の屋敷を辞して数刻後。

 桔梗ききょう景親かげちかの居室にいた。


「待て、桔梗」


 昼の箱膳を押し入れ、いざりながら下がろうとしたが、鋭い声を景親に投げつけられた。


「……はい」


 なんだろう、とゆっくりと顔を彼に向ける。

 途端に、ずきり、とまた痛みが走って顔をゆがめた。


 どうせ頭巾で見えないのだ、とおもいながら、口をへの字に曲げる。


 痛い。

 頭も、両手首も。

 佐平さへいに棒で打たれたところがうずいてたまらない。


「こっちに」


 言われて、動きを止める。


 景親を見た。

 いつもなら、箱膳を受け取って、畳の真ん中で食べるのだが。


 今、彼は格子の側から離れない。

 箱膳はいつの間にか脇に避けられていた。


「手を」


 景親は珍しく膝立ちになり、格子の間から手を伸ばしてくる。


「手、ですか?」

 戸惑って視線を揺らす。


「動きがぎこちない。なにか傷を負ったんだろう」


 はっきりと言われ、反射的に肩を竦める。


 かなり腫れて、熱を持っている。

 だが、着物の袖に隠れて見えないだろうとおもっていたのだ。おまけに、この暗がりだ。ぼやりとしか見えまい。そう高をくくっていたのだが。


「あの……」


 ごくり、と桔梗はひとつ息を呑むと、ふたたび彼の前に近づいた。

 自分をまっすぐと見つめるのは、心配げな黒い瞳だ。


「どうした。転ぶか何かした……」

「これを」


 景親の言葉を遮り、懐に入れていた手紙を取り出す。


 取り出す途中、やっぱり動かすと手首がしびれるように痛み、呻きを堪えながら、格子の方へ差し出した。


 同時に。

 桔梗の肘が景親にとらえられる。


 痛みはないが、いきなりのことに驚いて動きを止めると、景親が素早く袖をまくりあげた。


「……誰にやられた」


 低い声に、背筋を伸ばす。

 今度こそ、呻きが漏れた。


 こめかみが痛み、一瞬、ぐらりと視界が揺れる。


「頭も殴られたのか」


 聞いたこともないほど冷めた声だ。

 ぞわり、と背中に怖気が走る。す、と細められた目。瞳が収斂しゅうれんし、まるで猛禽類のようだ。


「ち、違います。殴られてなど……。これは……転んだのです」


 佐平から報復されては大変だ、と反射的に首を横に振り、結果的に痛みに呻く。


「桔梗はわたしのことを殿上人てんじょうびとだというが、これでも武人だ」


 いつもとは全く違う鋭利な声は、聴く者の熱を奪うようだ。


「傷を見れば、転んだのか殴られたのかぐらいはわかる。誰にやられた」


 景親は腕を離してはくれない。


「家族か? 村の人間か。なにゆえ、かような暴力をお前にふるったのだ」


 ぐらぐらとゆがむ視界と、いつまで経っても引かぬ痛みに、桔梗はしばらく黙り込む。


 正常に、思考がめぐる気がしない。


「あの……。これを」


 左手に握ったままの手紙を、格子の間から差し入れた。


「これは?」


 景親が黒曜石のような瞳で問う。


「これだけしか……。持ち出せなくて……。あの……」


 そのあとが続かない。

 自分自身がふがいなかった。


 なんとかして景親の生活を改善させようと思って佐平の家に行ったのに。


 改善させるどころか、目の前で彼への手紙は焼かれ、暴力を振るわれてどうしようもなくなったところを、下男に救われた。


 こんなことなら、あの娘たちが食っていた菓子を奪ってやればよかった。怒鳴ってやればよかった。


 それはお前たちのものではない、と。


 じわり、と目に涙が滲み始めたころ、ゆっくりと景親が手を放してくれた。


 同時に手紙を受け取り、立ち上がる。

 できるだけ行燈あんどんの近くに寄ると、ばさりと長く伸ばして文字を目で追い始めた。


 座ったまま、桔梗は上目遣いに景親を見る。


 床にまで長く伸びた手紙は、巨大な白蛇にも見えたが。

 その尾は無残に黒く焦げていた。


「桔梗」


 名を呼ばれ、顔を上げる。

 拍子に、ぽろりと涙がこぼれた。


「これはわたしの友人からの手紙だ。忠相ただすけと言って、霜藤しもとう家の三男なのだがな」


 自分に語りかける景親は、いつもの柔和な笑みを口もとに湛え、そしておだやかな顔で手紙を見つめていた。


 その表情と。

 瞳ににじむ色を見て。


 手紙だけでも持ち帰ることが出来てよかった、とまた桔梗は涙をこぼす。


「ありがとう。大変助かった」


 礼を言われ、平伏する。


「とんでもありません。あの……本当にお役に立てず……」


 そのあとに続く言葉は、嗚咽にまぎれた。

 嬉しさに心が沸き立ったのは一瞬だ。


 やはり。

 自分の力の無さに情けなくなる。


「今日はその手では仕事は無理だろう。家に帰るがよい」


 言われて慌てた。


「そんなことは……っ」

「悪化させず、明日、また元気にここに来てくれる方がよい。今日はもう下がれ」


 言い方は優しかったが、有無を言わせぬ力があった。


 なにより。

 桔梗自身、たしかにその方がいいかもしれない、とも思う。


「いやまて。家に家族はいるのか?」


 それでは下がらせてもらいます。そう答えようとしたが、景親が素早くそんなことを尋ねた。


「もし、誰もおらぬのなら不用心だ。お前に傷を負わせたやからがしつこくやって来ることも考えられる」


 言われて背筋に冷たいものが走る。

 棒を振るった時の、剣呑けんのんな佐平の目を思い出して、身体が震えた。


「家族は……。家族は、おりませんが。今の時期、知人がおります」


 そうだ、大鴉おおがらすがいる。

 肩の強張りを解き、桔梗は口元を緩めた。


「今日は家に泊まってもらうように伝えてみます」

「それはお前の友人なのか? 同じ娘であるのなら……」


 心配そうに眉根を寄せる景親に、桔梗は笑って見せた。


「屈強な男ですから。誰かが来たとしても、大丈夫だと思います」


 胸を張って答えると、一瞬驚いたあと、なんとも複雑な顔をされた。


(……なんだろう……?) 


 きょとんと景親を見上げると、視線に気づいたのか、何度か咳払いをして笑みを浮かべて見せた。


「申し訳ないが、帰るときに田中をよこしてくれるよう、門番に伝えてくれないか?」


 なんだか無理したように景親が笑う。


「お前の代わりにわたしの世話をしてもらいたいのだ。よいか?」


 言われて、ぎこちなく景親にうなずいた。


 そうだ。景親が複雑な表情をしている理由よりも、自分の代わりに彼の世話をしてくれる人を手配しなくては。


 当初、彼が食べていたと思しき黄色い飯を思い出し、桔梗は平伏する。

 田中ならばそんなことはしないだろう。


「それでは、今日は下がらせていただきます」

「大事にせよ」


 声にさらに深く低頭し、桔梗はするすると居室から出た。


 襖を閉じ、立ち上がって玄関に向かう間も、こめかみと両腕が痛い。

 そっと、袖をめくってみると、幼児の拳ほどに腫れあがっている。


(……折れてはいないとおもうけど)


 指や手首の稼働を確認しながら、低くため息をついて、建屋を出る。


「申し訳ありません。開門を」


 ぴっちりと閉じられた扉の前で呼びかけると、きぃ、とすぐに軋み音が鳴った。


「桔梗か。どうした」

 驚いた顔でいるのは田中だ。


「よかった……。今、お願いにうかがおうと思っていたところです。当番だったのですか?」


 桔梗はきょろきょろと門番が立つ場所に視線を巡らせた。

 朝は弥吉とべつの武士がいたはずだ。


 だが今は、そのどちらもおらず、田中と、それから桔梗と年の変わらない若い武士が手持無沙汰のように立っていた。


「今交代したところだ。何用か」


「実は少し怪我をしてしまいまして。景親様に、『今日は下がるように』と言い渡されてしまいました。代わりに、田中様に来ていただくように、と」


「わしに、か」


 驚いたように目を見開く。

 それは若い武士も同じだったらしく、さっきまで興味なさげにつま先で地面を掻いていたのに、今ではじろじろとこちらを見ている。


「本当に申し訳ありませんが、景親様のお世話を……」


 頭を下げると、困惑したような声が降ってきた。


「いや、それは構わんが……。わしにできるであろうか。米や汁はあるのか? おもに夕餉ゆうげの支度を頼まれるのであろうか」


 そこで桔梗は田中に、「昼の箱膳は下げたままでいい」こと、「夕飯については、米と漬物、汁の用意がある」ことを伝え、「予備の食器を使用して出してほしい」旨を伝えた。


「相分かった。それでは世良守せらのかみ様にご挨拶だけ……」


 総髪そうはつに結った頭を掻きながら、田中が玄関に向かう。

 桔梗は困惑しきりの田中の背中をすまなく思いながら、もう一度頭を下げた。

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