海の底、愛はなく

南雲 皋

海の底、愛はなく

 彼らの血液は、老いを止め、彼らの肉は、死を打ち消す。

 彼らのうろこは宝石の如く輝いて、彼らの髪は絹糸よりも柔らかい。

 女型しか観測されたことのない彼らのことを、«人魚姫»と名付けることにした。


𓆟


 奴隷番号G-871(通称ギャナイ)が呼び出されたのは、精通した日の昼だった。

 ギャナイは、新しい牢に繋ぎ直されるのだろうと思いながら、冷たいコンクリートの床をぺたぺたと裸足で歩いた。自分の首と両腕にめられた鉄の輪、そこから伸びる鎖を握った男の顔は、麻の袋に隠されて見えなかった。

 自分が入れられるだろうと思っていた青年たちの牢を、男は素通りした。ギャナイは内心首を傾げながらも、俯いたままついていく。疑問を口にすることは許されない。目的地の分からぬまま、何度も道を曲がった。


「入れ」


 ほとんど突き飛ばされるように入れられた部屋は、薄暗かった。部屋の奥に水槽が一つ置いてあって、生臭く、空気がじっとりと重たかった。ギャナイの鉄輪から鎖が外され、ギギギギと嫌な音を立てて厚い金属の扉が閉まっていく。


「世話をしろ」


 言葉の意味を理解するより早く、廊下から差し込む光が遮断され、部屋の中央にぶら下がった小さな電球が弱々しく放つ光だけが室内を照らした。


 世話。何の世話をするのだろう。


 ギャナイは辺りを見回した。デッキブラシとバケツに雑巾、汚い掃除用具が転がっている。草臥くたびれたタオルケットは寝床に使える。


 ちゃぷん。


 水槽から、小さく水音が聞こえた。世話をする。魚の世話か。

 わざわざ一部屋を丸ごと使って育てられる魚なんて、いったいどれほどの高値で取引されるのだろう。そう考えてから、思い直す。大した説明もなく、自分一人に世話を丸投げするような魚である。世話が面倒なだけに違いない。

 以前数人で世話をした巨大でぬるついた魚のことを思い出しながら、ギャナイは水槽へと近付いた。まるで海の底を模したような、砂利や海藻、珊瑚の置かれた水槽の中は暗く、目を細めてみてもよく見えない。

 と、その瞬間、ギャナイの前ににゅっと飛び出してきたのは魚ではなかった。

 人の、顔だった。

ギャナイは飛び上がって足を捻り、硬い床に背中を打った。痛みに呻いて体を丸め、視線だけを水槽に向ける。

 金色の長い髪を揺らめかせ、彼女は、笑っていた。


「くそ……なんだ、人……?」


 ケタケタと、聞こえないはずの笑い声が聞こえてくるような笑顔でこちらを見る女。海藻の隙間から出てきた彼女の下半身は、魚だった。青にも緑にも白にも見えるような鱗が輝いて、ギャナイは目を瞬かせた。

 満足するまで笑ったらしい彼女は、くるりと身体を一回転させて優雅に泳いだ。狭い水槽の中でも、彼女は気にしないみたいだった。

 さっきまで髪の毛に隠れていた上半身も全てあらわになる。人間の顔からは首が、肩、腕が伸びて指先までしっかりとある。滑らかな白い肌は何も身に付けておらず、形のいい乳房の先はツンと尖っていた。

 生殖担当の女たちが入れられている牢の前も歩いたことがあるが、あそこで生きている女たちとは比べ物にならないくらいに美しかった。美しく、そして、扇情的だった。


 ギャナイは、自らが熱を持っていることにすぐに気付いた。精通すると大変だと話には聞いていたが、確かにそうだと思った。

 ギャナイがするべきなのは彼女の世話で、生殖ではない。だから、これは不必要なものだ。処理しなくてはならない。

 水槽の掃除も世話のうちに入るからか、部屋には水道があった。ギャナイは排水溝の前に立ち、自慰をする。精通前から毎朝こなしてきた行為で、ギャナイはすぐに射精した。べとべととした体液を水で洗い流し、仕事に取り掛かる。


 彼女の世話の方法は、全て壁に貼ってあった。ギャナイは字が読めないから、字の上に描かれている絵が頼りだ。時計も読めはしないが、時計の文字盤と目の前の絵が同じかそうでないかの区別くらいは付く。

 決められた時間に決められた量の餌を与えるようで、もうすぐ二回目の食事の時間だった。

 ギャナイは餌が入っているケースを開けた。そこには冷たい肉の塊が入っていた。血の匂いが濃く、せそうになるのを堪える。塊をひとつ取り出すと、きっちりと蓋を閉めた。


 水槽の横に置かれている台に乗り、肉を投げ入れる。

 どぼん。

 水飛沫が降ってきて、生臭さに顔をしかめた。肉の姿はすぐに見えなくなったが、水槽の中の水がバシャバシャと揺れた後、しばらくして彼女がにこやかに泳ぐのが見えたので安心した。


 彼女の食事が終わる頃、部屋の扉の一部が開いてギャナイの食事が差し入れられた。小さな銀の食器の上に、パンと肉が乗っていた。今まで食べていた噛みきれないほどに硬いパンではなく、指先で千切れるくらいに柔らかなパンだった。肉も、指先程度の大きさではなく手のひらに収まらないくらいで。

 彼女の世話は、当たりだ。

 ギャナイはこの仕事から外されぬようはげむことに決めた。


 水槽の中が暗いのは部屋の灯りが少ないせいもあったが、側面に苔がみっしり張り付いているからだった。ギャナイは手始めに、それを綺麗にすることにした。

 しかし、水槽はそれなりに大きく、そして深い。元々海のそばで暮らしていたギャナイは潜水が出来たが、それにしても難しい作業だった。

 手の届く範囲からやろうと決めて掃除していると、ときおり視線を感じた。そちらを見遣れば、二つの真っ黒な瞳までが水上から飛び出していて、ギャナイを見つめている。ただ、近付いては来なかった。ある程度の距離を保ちながら、ギャナイの作業を見つめるだけ。


 ギャナイは何日もかけてひたすらに掃除をした。水を少し抜いて、綺麗にして、また水を戻して。本当なら一度彼女を水槽から出して完璧に掃除がしたかった。だが別の水槽はない。半分人間のようではあるものの、彼女が水槽から出てくることはなく、水中でしか生きられないのなら水を全て抜くことは出来なかった。


 彼女の身長くらいの高さまで残された苔を前にギャナイが悩んでいると、上の方から水が降ってきた。何事かと見上げれば、彼女と目が合う。

 笑う彼女は、水槽の縁に両腕を掛けてギャナイを見下ろしていた。顔も、肩も、水から出ているのに彼女は笑顔だった。


「水から出られるのかよ」

「――――――!」

「は? 何?」

「――――」

「チッ、耳痛ぇ……」


 彼女はギャナイに何かを言っているようだったが、全く聞き取れなかった。高い、超音波のような声は鼓膜を揺らし、頭まで痛くなる。

 眉間に皺を寄せて耳を押さえるギャナイに、彼女は困ったような顔をして水中へと戻った。少し明るくなった水槽のガラス越しにギャナイを見つめ、小さな水掻きの付いた手でガラスを擦る動作をする。


「……掃除、手伝うって言ってんのか?」


 ギャナイが掃除用具を手に取ると、彼女はパァと表情を輝かせて頷いた。ギャナイは身振り手振りで水を全て抜いても大丈夫かと問うた。彼女がまた頷いたので、翌日水槽の水を全て抜くことにした。


 ある程度まで水が減ったところで折り畳み式の梯子を設置し、水槽の中へ降りていく。先に下ろしておいたホースと、持ってきたデッキブラシで残る汚れを掃除していった。砂利も綺麗な水で洗い流し、食い残しなんかの大きめの塵芥ゴミは麻袋に入れる。

 彼女はそれを、少し離れたところで見ていた。尾ビレでぺちんぺちんと砂利を叩いたり、肉片を拾ってギャナイの方へと投げたりするのは手伝いのつもりなのだろう。

 水のない世界で、触れようと思えば触れられる距離で、彼女は動いていた。ぬらりと光る唇から、時折チロチロと真っ赤な舌が覗く。湿った金の髪が身体に張り付いて、それが却って彼女の豊満な肉体を強調していた。

 ギャナイは勤めて彼女の方を見ないようにした。考えないようにした。見てしまえば、考えてしまえば、きっとすぐに。


「――――――――――?」


 気付くと、視界いっぱいに彼女の顔があった。後頭部が痛み、背面が冷たい。彼女に腕を掴まれて押し倒されたのだと理解する前に、彼女の唇がギャナイの首筋をんだ。


「……やめろッ!」

「――――?」


 彼女から抜け出そうともがくが、想像以上に力が強くてビクともしない。ギャナイの抵抗などものともせず、彼女の舌は的確に快楽をもたらした。器用にギャナイの服を脱がせ、弱い部分に触れて、舐めて。

 ギャナイはすぐに果てた。ギャナイから放出された体液を、彼女は手ですくって己の恥部へと塗り込める。魚の鱗の中にあって薄い桃色に濡れるソコはギャナイを呼んでいた。


「――――――」


 いつの間にか痛みを感じなくなっていた彼女の声が、ギャナイを誘う。思考がぼんやりとかすみがかるのに、ただ一つだけ、彼女をはらませろと、それだけがハッキリとしていた。ギャナイは脳内に響くその命令に従って行動した。彼女は拒まなかった。喜んでギャナイを受け入れ、そして、種を授かった。


 それから毎日、ギャナイは彼女と交わった。溢れんばかりに満たした水槽から身を乗り出した彼女は、上半身を器用に使ってギャナイの元へ降りてくる。彼女のことしか考えられなくなったギャナイが果てると、彼女は満足して水槽に帰っていくのだ。


 そんな生活を続けて一月ひとつきが経った頃、ギャナイたちの部屋に男が数人入ってきた。白衣を来た男が彼女を呼び寄せ、聴診器を当てたり何かの機械で彼女の腹を調べた。

 そして、言った。


「こいつは当たりだ、孕んだぞ」

「ははは、でかしたな」


 ギャナイを取り押さえていた男が乱暴に頭を撫でる。男は懐から小さな紙包みを取り出し、ギャナイの手に握らせた。それはチョコレートだった。ギャナイも作らされたことのある、薬入りのチョコレート。

 奴隷が貰っていいようなものではなかった。ギャナイが呆然としていると、男は声を上げて笑った。


「食えよ、お前は人魚姫を孕ませた。世話係として上出来だ。このまま出産まで頼むぜ」

「は、はい!」


 飼い主の命令は絶対だ。ギャナイは大きく返事をし、チョコレートを食べた。人魚姫と行為に及ぶ時と似た気持ちの良さに包まれる。違うのは強迫めいた感情に支配されていないこと。ただひたすら廻る世界に包まれていればいいことだった。


 出産まで頼むとわざわざ言われたが、食べる餌の量が増えたこと以外は特に変わらなかった。流石に行為はなくなったが。

 徐々にふくれていく腹を時折さすってやると、人魚姫はギャナイの指先をむ。尖った歯が指の腹に刺さって穴を開け、血がにじんだ。己の付けた傷を、癒すようにぺろぺろと舐める人魚姫は愛おしく、絶対に守ってやらなくてはと思わせた。


 ある時、補充されるはずの餌が空になっていた。非常時に押すよう言われていたベルを鳴らすと、外から男の声がする。


「なんだ」

「餌がないんだ」

「お前が食ったんじゃねぇだろうな」

「俺の子を身篭みごもってるんだぞ、そんなことする訳ないだろ」

「…………少し待ってろ」


 男の気配が遠ざかり、戻ってくると部屋の扉が開けられた。どうして扉が開いたのか疑問に思っていると、餌箱の連結部分が壊れているせいで補給されなかったと説明された。


「俺とお前で三日分の餌を箱に補充するぞ」

「はい」


 久しぶりに鎖に繋がれ、廊下を歩く。同じ扉が何枚も連なっていて、どこの部屋からも同じ臭いがする。人魚姫の臭いが。

 人魚姫と交わってからというもの、ギャナイは五感が研ぎ澄まされていた。水音も聞こえ、交わる音も。


(俺以外にも、いるのか)


 餌置き場に足を踏み入れると、あまりの臭いに気が遠くなる。鼻をつまみたくなるのを堪え、なるべく息を止めて肉を抱える。いくつかの塊から髪の毛が飛び出している。考えないように、何も考えないように廊下を歩いた。

 遠くから叫び声が聞こえる。泣き声も、肉を削ぐ音、骨を砕く音、何もかも聞こえてしまう。考えたくないのに、何もかもが。


『今年はもう三体目だろ? 幸先いいな』

『あぁ、産まれるのも女ばっかだしな、永久機関の完成だ。死なない程度に搾り取って、数が増えすぎたら丸ごと売っぱらえばいい』

『しかしよく知ってたな繁殖方法』

『別に、俺の故郷じゃ人魚なんざ害獣と同じだったぜ。海に若い男を連れ去っちまうんだからな』

『へぇ、なるほどな』

『こっちに出てきて、あいつらにとんでもねぇ値が付いてるのを見た時は涙が出たね。復讐と金儲けが同時にできるんだ。最高だよ』


 ギャナイは胸が締め付けられるようだった。自分たちの子どもの行末に対しても、人魚姫への評価についても。このままではいけないと思った。けれど何をすればいいのか、それは皆目見当もつかなかった。


 餌を運び終えたギャナイはいつものように人魚姫の腹を撫でてやりながら先程聞いた話を聞かせた。理解できるとは思わないが、口にしないではいられなかった。


「――――――♪」


 ギャナイの耳に、歌が聞こえた。人魚姫が、ギャナイに向かって歌っていた。高く、澄んだ声を聞いているうち、ギャナイは己のすべきことが分かった。


 人魚姫を、海に帰そう。


 ギャナイはまた餌がないと訴え、扉を開けさせた。部屋に来た男のあごこぶしで打ち抜き、他の人間にバレる前に人魚姫を外へ運び出す。

 人魚姫を抱え、耳を研ぎ澄ませて通路を行く。出口が見えてギャナイの腕に力が入った。早く。早く。早く人魚姫を海へ帰さなければ。


 パァン! パァン!


 乾いた音が響き渡り、ギャナイの身体が前のめりに倒れた。腹部と胸部に、焼け付くような痛みを感じる。床に落ちる血の量はおびただしく、すぐに死を悟った。


「――――――――!」


 人魚姫が、自分の手首を食いちぎりギャナイの口へ押し付けた。流れ込む血液は甘く、すぐに痛みを感じなくなる。身体を起こし、人魚姫を抱え直して足を進めた。


「――――」

「…………あぁ、美味そうだ」


 ギャナイの前に差し出された、血のしたたる人魚姫の手首。ギザギザに食いちぎられた部分は桃色で、甘い香りを放っている。ギャナイの口からよだれがこぼれ落ち、殆ど無意識に手首へと噛み付いた。

 ぶち、ぶちりと皮膚を、肉を食いちぎり、飲み込む。口腔内こうこうないに広がる芳醇ほうじゅんな香り。あんなにも臭かった人魚姫が、今は何物よりも食欲をそそる香りを放って。今まで食べたことのない味がギャナイを満たしていく。


「くそっ、あいつ食いやがった」

「止まれガキが! 殺すぞ!」


 どんな言葉も自分の前には無意味だとギャナイは理解していた。もはや自分は人間ではない。人魚姫の側に立ったのだと。


「早く走って、海に飛び込むの」

「分かってる」


 人魚姫の言う通り、かんぬきを持ち上げ開け放った扉の向こう、反り立つ崖から海へと飛び込んだ。


 塩辛いはずの海水も、もはや甘く感じた。人魚姫がギャナイの手を引いて、どんどん深くへ潜っていく。見上げた海面は朝陽に照らされて美しく光り輝いていて、ギャナイは目を細めた。


 人魚姫の誘う先は海の底。光の届かぬ世界で二人、これから生きていけるのだろうか。


(死なないのだから、大丈夫か)


 ギャナイは人魚姫の手を強く握った。海の底へついたら、彼女の名前を教えてもらおうと心に決めて。彼女も、子どもも、この身を賭して守ろうと心に決めて。


 たとえそれが、ギャナイの意思でなくとも。

 ギャナイは、幸せなのだった。

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