1-2

 据えた臭いが鼻につく。

薄らぼんやりとした意識の中でアネッサが思うのは、そんなこと。

 船に揺られているかのように、ふわふわと意識が浮かんでは、戻ろうと抵抗をする。

 ズキリと痛みが頭の奥底を突き刺す。


 思い出した。 


 アネッサは勢いよく飛び起きる。

途端、耐えきれないほどの頭の痛みと、立ち眩みのような目眩が彼女を襲う。


「ーーっ!!!」


 悲鳴がこぼれる。

音の無い悲鳴が。


 ぐわん、ぐわん。

彼女を襲う体調の不良。その波。

蹲り、その苦痛をなんとか逃そうと、ただ耐える。


 据えた臭い、頭痛、目眩。

どのくらいの時間が経ったのだろう。

ようやく、多少はマシくらいにまで症状が治まった彼女は、きつく瞑っていた目を開ける。

 頭の痛みは相も変わらず残るが、それでも慣れた分、マシにはなった。

……だが、そのマシになった頭が、違う意味で痛みそうな光景が、彼女の手元に見える。


「なに、これ」


 手首を無骨に拘束する、鉄錆色の二つの輪。

それから伸びるのは、重いばかりで可愛さのかけらもない、鉄の鎖。

 足元に視線を動かせば、足首にも同じ仕掛けが二つ。両足首も拘束されている。


 床は虫食いのようにボロの板床。

壁も同じ材質のその部屋は、人が五人横になれるかなれないかくらいの広さしかなく、薄ら暗い。

灯りは一つだけ。ほんの小さなろうそくが一つ。

それが消えた瞬間、この部屋はあっという間に暗闇に呑まれるだろう。


「あ、起きた?」


 アネッサはビクリと体を震わせる。

一人しかいないと思っていた部屋から、突然人の声が聞こえたから。


「あ、あんた、だれ?」


 なんとか虚勢を張って、気丈に振る舞ってみせるが、彼女の声は震えている。

アネッサは、ろうそくの下に立った、小柄な子どもの姿を見る。


「あっ、あんた……!」

「宿屋、お姉さん。こんにちは」


 その子どもは、彼女が色をかけようとした、旅人と共にいた子ども。

彼女は、恐怖と緊張にうろたえるアネッサとは対照的に、ただ落ち着き払っている。

見事な黒い髪は、薄ら暗い部屋の中でもハッキリとその姿を現せるほどに輝き、その黒い瞳は僅かな恐怖すら宿していない。

ただ、その口元が、緊張に引き結ばれているだけで。


「ちょっと、あんた何でこんなところにいるのよ。ってか、ここどこなの?」


「ここは海賊船の中。この部屋は商品部屋さ」


 聞き馴染みのある声が、子どもの背後、アネッサの正面から聞こえる。


「オリバー!」

「や、お目覚めかい? ワガママなおひめさま?」


 そこには、意識を失う直前まで共にいた、オリバーが扉を開いて手を振っていた。


「ね、ねえ。どういうこと? あたし、あんたとデートしてて、それで」

「夢見がちなお姫様は、見事海賊に商品にされてしまいましたとさ。簡単な話だろ?」


 コツ、と靴を鳴らして近付いてくるオリバー。

いつもと同じ笑顔のはずなのに、底知れぬ恐怖を煽る。

アネッサは、僅かに残った空間へ、背を預けるように後退する。


「商品って、あんた、人身売買は犯罪、でしょ!」

「残念でしたー。海賊は犯罪者の集まり、そんな言葉が効くほど、ピュアな奴らはいないんだよ?」


 オリバーはアネッサの顎を掴み、僅かに残った灯りをもとに、その顔をまじまじと舐め回すように見る。

しかしそれは、男女間の色事のような艶はなく、あえて言うならば、仕留めた獲物が、商品価値を損なうほど傷付いていないかを確認する、漁師の目。


「ああ! よかった! 傷はそんなに目立たないみたいだし、売る頃にはある程度消えるくらいだね!」


 確認し終えた彼は、アネッサを乱暴に突き放し、黒髪の子どもへ目を向ける。


「こっちの彼女は、うん。結構従順に連れてこれたし、価値の確認はしなくていっかな!」


 普段のように明るい調子で、けれど人でなしな言葉を吐く彼は、再びアネッサへ向き直る。


「ねえ、君。その顔で生まれたこと、親に感謝したほうがいいね。おかげで、うまく売り込むことができれば、他所の国の貴族の愛妾にでも囲ってもらえるかもね」

「ゲス野郎……っ!」


 アネッサは近付いてきた、最早嫌悪しか抱けないその顔に唾を吐きかける。

 オリバーは、吐きかけられた唾を拭う。

瞬間。


「ゔっぐ、おぇっ!」


 最早後がないほど迫った壁に、背中を強かに打ち付ける衝撃。

それ以上に、腹の形が歪むほどに与えられた衝撃のほうが、より痛く、苦しいとアネッサはぼんやりと思う。


「お転婆がすぎるよー? もう、止めてよね。僕だってできるだけ商品に傷は付けたくないんだから……」


 胃の内容物が床にぶち撒けられ、据えた臭いの中に独特な酸っぱい臭いが混ざり合い、最悪な空間ができあがる。

それでも尚止まらない吐き気に体を折るアネッサのことを、まるで路端の石を見るかのように興味も示さず、オリバーはパッパッと服を払う。


「ま、あと数分もすれば海の上だ。逃げることなんてできないんだから、大人しくしてるのがいいよ。痛い思いをしたくなければ、ね?」


 オリバーは入ってきた扉から再び出ていく。

去り際、馬鹿にしたように手を振って。

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