月光 side:pianist

「貴方にはピアノの才能があるのね」

 そう言われる度に俺は心中で唾を吐く。

 何が才能か。自分はただ、ピアノを弾くのが上手いだけだ。あくまで技術が凄いだけだ。本当に才能がある奴は俺の演奏に何かを言うことは無い。彼らは分かっている。

 俺の演奏に人を感情を揺さぶれるだけの「何か」が足りないことを。

 技術だけで天才足り得るのなら、どんなに良かっただろうか。


 幼い頃からピアノと一緒に生きてきた。

 情操教育の名目で触らせられた白と黒の鍵盤は俺の手に驚くほどよく馴染んだ。

 「上手」に弾くことを難しいと感じたことは無い。コンクールにも出場して、賞を何個も貰った。父も母も喜び、俺を天才だと褒めそやした。俺自身、昔は自分には才能があるのだと勘違いをしていた。

 その勘違いに気付いたのは先生の本気の演奏を聞いてからだ。

 先生は俺にピアノを教えてくれていた女性だった。彼女の演奏を知った気でいた俺はコンクールでの演奏を聞いて一瞬で自分とは何もかもが違うと思い知った。「上手」なのは当たり前で、その上に俺が逆立ちしたって用意できない「何か」が乗っていた。それが心を奥底から掴んで離さない音を作っている。

「君には才能がない」

 先生の本気の演奏を聴いた後、告げられた言葉に俺は深く頷いた。これまで才能だと思っていた物は光を失い、土塊の様に見えた。先生の演奏の中に見えた燦然と輝く眩い光。それこそが才能だ。

「君の演奏には狂気が足りない。それが足りないうちは君に音楽と生きていく未来はないだろう」

 先生は俺に足りない「何か」を狂気と呼んだ。

 俺はそれからずっと、狂気を探し続けている。



 ある、満月の夜のことだった。

 月の光が。そう、月の光が美しく、静かな夜だった。

 俺はぼんやりと天から注ぐ月光を眺めながら、過去に聴いた先生の演奏を思い出していた。いや、先生のものだけではない。何年も自分に足りないものを埋めるために見て、聴いて、体験して、それでも手からすり抜けていった数多の才能、数多の狂気の込められた演奏が頭の中に駆け巡る。

 鞄の中に入った楽譜がまるで重りのようだった。先生には止められたのに技術だけで音楽の道に進んだ。その代償は簡単で、自分が音楽の世界では生きていけないことをこれでもかと言わんばかりに教えられた。

 狂気が足りない。狂気が足りない。俺の演奏には狂気が足りない。人の心を一緒に狂わせるような力がこれっぽっちも宿っていない。

 誰か、誰か俺に狂気を見せてくれ。

 これまで体験したことのない、狂気を。俺の演奏を根底から壊して覆すような狂気を。

 月の光は人を狂わせると信じられていたと言う。そんなんで良いなら幾らでも浴びてやる。だから俺を狂わせてくれ。そうじゃないと、

「ピアノを諦めるしか……」

 次の瞬間、急に横から飛び出してきた何かに俺は喰われた。


「ぐ……、あ?」

「がああああああああああああ」

 意味が分からなかった。何だ、何が起こった?腹部が痛い。何かに牙を突きつけられたからだ。痛い。襲った奴は何処だ?まだ痛い。違う、まだ噛まれている。それはまだ、俺の上にいる!

「このっ、どけ!」

「ぎぃっ!」

 手に持っていた鞄を思い切り振りかぶって叩きつける。怯んだ瞬間を逃さず、蹴りを叩き込んで何とか立ち上がり、距離を取った。ようやく俺を襲った何者かの正体が分かる。

 そこには獣がいた。狼の様な顔に、長く立った耳に、鋭く尖った爪と牙に、所々から生えた毛に、喉から出る低い唸り声。獣にしか見えなかった。

しかし、その獣が持つ身体的特徴は人間の物だった。人間の体に獣の要素を詰め込んだような───生きてきて今まで、一度も見た事のない存在だった。

「人狼……?」

 知識の中にあるものとしてはその名前が一番相応しいと思えた。

「ぐるるるるるるるるあ!!!!!」

 混乱の中でも獣が待ってくれることはない。喉が裂けんばかりに叫び声を上げながら、俺に向かって攻撃を続けてくる。

 最初は何とか避けていたが、それは時期に一方的な蹂躙に変わる。

 足に爪を立てられ、腹に拳を食らい、人間では有り得ない膂力で転がされる。それでもまだ足りぬとばかりに蹂躙される。

 ああ、死ぬのか。

 呆気なく死が目の前に見えた。何も残せず、求めた物を手に入れられず、死ぬ。この獣に殺されて。

 あんなに求めた狂気の欠片すら手に入れられずに。


「ぐう、うううううううう」

 獣の唸り声がそれまでの物と変わった。ずっと本能のままに叫んでいるように聞こえていた声の中に、一抹の苦痛のような物が芽生えた。

 俺は目を開けて獣を見た。額から血が伝って目が痛い。それでも何とか見据えた獣の顔は苦悶に歪んでいた。

「ごめんなさい」

 獣の口から謝罪が発せられる。

「ごめんなさいぱぱままちゃんとできなくてがまんできなくていやだごめんなさいいかないでひとりはいやだこんなよるにひとりはいやだちゃんとするからおいていかないでこわいおれがおれでなくなっちゃうこわいいやだたすけて」

 まるで壊れたように獣は懺悔した。小さな子供の様に。狂気に呑まれた只人ただびとの様に。


「あ、これだ」

 その瞬間、全ての痛みが快楽と化した。

 これだ。これだったんだ。

 これが、狂気だ。

 獣性と人間性の間に板挟みになって喘ぐその姿!その中にある燦然と輝く狂気!

 俺の中の何かが変わった。何かが変えられた。それがはっきりと分かった。

 手の届く場所に、ずっと追い求めてきた光がある。

 絶対に逃がすものか。


「おいで」

 俺は獣の正気を全て失わせるような甘い声で呼びかけた。

「俺に狂気を見せてくれ」



「素晴らしいね」

 退院後、俺の演奏を聴いた後の先生のはじめの一言がこれだった。この上ない光栄だった。

 あの後、気絶してしまったようで気が付けば病院のベッドの上だった。

 体験した全てを忘れないうちにピアノが弾きたかったのだが、医者に止められてしまったので弾くことが出来なかった。

 なので、退院してすぐに先生に聴いてもらいにきたのだが、やはり俺の足りなかった部分はしっかりと埋まっているらしい。

「今まで足りなかった狂気がしっかりと音に込められている。心を叩き壊されるかと思ったよ。暴漢に襲われて入院されたと聞いた時は驚いたが……その経験が糧になったのか?」

 俺は首を横に振った。

「いいえ、先生。出会っただけです。俺がずっと見たかった狂気を」

「ふうむ。それは……いい出会いをしたね」

「ええ、本当に」


 また、満月の夜にあの獣に逢いに行こうと思う。いや、何があっても逢いに行く。

 ようやく見つけた俺の狂気。絶対に離すものか。


 満月を愛している。

 月の光に狂った獣と。

 出会えた夜を愛している。

 俺は狂気に狂っている。

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月光 292ki @292ki

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