月光

292ki

月光 side:loup‐garou

 月の光が。

 月の光が俺の脳を焼き、心臓に狂気を注ぎ込む。

 全身の血をアルコールと交換したのかと錯覚するほどの熱。

 視点も思考も全く定まらない。ふらふらゆらゆらと振り子のように揺らいでいる。

 満月の夜、俺は世界一みじめな畜生になる。

 体を身悶えさせ、意味もなく転がりながら部屋の中を右往左往する。突然立ち上がってはおぼつかない足取りでステップを踏む。暴れまわりながら次々に目に付いた物を破壊し、残骸の中に倒れ伏す。

「ううう、うう……」

 歯を食いしばって唸る。噛みしめた歯の形がどんどん太く、鋭くなっていくのを絶望ともにまざまざと感じ取った。

 気が付けばオレの姿はすっかり様変わりしていた。耳は人のあるべき形からかけ離れ、位置も頭の上に移動した。ワサワサと毛が生えて大きくなった獣の耳は、遠く遠く離れた場所の音さえ聞き取っては耳障りな雑音を脳髄に叩き込む。

 涎がダラダラ止まらない口は元に耳があった場所辺りまで大きく裂けていることだろう。子供の一人くらい簡単に丸呑みできるくらいに。その口の中にはズラリと険しい山脈のような牙が乱雑に生えているのだ。

 おおよそ、人間の姿ではない。当たり前だ。俺は人間ではないのだから。

 しかし、未だに自分の正体が醜く、制御の効かない化け物だということも認められず、今日も満月の下、のたうち回ってこの世のどん底に住んでいる。


 ふと、狂気にどっぷりと呑まれていた思考が、旋律を捉える。

 その瞬間、最悪な気分が胸底から湧き上がるとと共に理性の端を一瞬だけ掴み取る。すぐに消えてしまうものだが、「アイツ」に会うまでは持つだろう。

 俺はふらつく足に鞭打って、旋律の発生地点に向かう。一歩、一歩と進むごとに音は大きくなり、俺の中の不快感もザラザラと質量を増した。

 ようやく辿り着いた部屋の扉を壊さんばかりに乱暴に開けると、そこには予想通りの光景が広がっていた。


 しっかり鍵までかけたはずの窓が割られ、開けられている。カーテンが風で全開になっていた。

 忌々しい満月を背負って唯一この部屋にしか置いていないグランドピアノの鍵を一人の男が一心不乱に叩いていた。

 退廃的な雰囲気の男だ。目の下の隈は濃く、ぼさぼさに乱れた髪を辛うじて後ろで括っている。服装はコンサートにでも出るような立派でお高いスーツなものだから、ちぐはぐな印象を受けることだろう。しかし、その顔立ちは息を呑むほど端正で、目は爛々とした光を携えている。此奴のその退廃美に飲み込まれると暫く呆然としてしまうことすらあった。

 男の弾く曲の曲名は知っている。ドビュッシーの「月の光」。初めて曲名を知った時、満月の夜でもないのに頭が沸騰するほどの怒りを感じたのを覚えている。

 此奴は俺を馬鹿にしているのだ。満月の夜、理性を溶かし狂気に呑まれ獣に墜ちるこの俺を。


「その曲、耳障りだから止めろって言ったよなァ……」

「おや、わんちゃん」

 俺の言葉に男は演奏を止めて立ち上がった。

 この男は俺のことをわんちゃんなどとふざけた仇名で呼ぶ。楽しげに笑いながら。名前なんて教えたことはないし、教えたくもないが、此奴の一挙手一投足すべてが俺を虚仮にしていると理解するには十分な仇名だった。

「何度言ったらわかるんだ。このイカれた不法侵入者。俺がまともに話せているうちにとっとと出ていけ糞野郎」

「今夜は嫌に辛辣だ。「月光」の方が好みだったか?」

「意味は変わらねえだろ。お前が俺を舐め腐ってるっていう意図もよ」

「違いない」

 男は笑って近づいてくる。俺はじりじりと後退した。此奴に近づきたくない。全身の毛が逆立ってざわざわした。

「お前の方から来たのに、なんで逃げるんだよ」

「ふざけるな。来たかったわけじゃねえ。お前が性懲りもなく不法侵入をしやがったから追い出しに来ただけだ」

 俺の言葉を男は笑う。俺が一番嫌いな笑顔で。

 爛々とその瞳を満月のように輝かせながら。

 ひょいと俺のすぐ目の前までやって来て、無防備に体を晒す。

 まずい、と思った時にはもう手遅れだった。

「違うだろ?」

 毒のような言葉。

「今日も俺に狂気を見せに来たんだろ?俺に衝動の全てをぶつけに来たんだろ?獣が人間の言葉で取り繕うんじゃない」

 甘い蜜のような大義名分。

「殴って蹴って噛みついて引っ搔いて絞めて叩いて壊して狂って狂って狂えよ!!!!!なあ、このイカレ野郎!」

 絶対的な赦し。

「俺に狂気を見せてくれ」


 手の中にあった理性はあっという間に消え失せ、俺は男に襲い掛かった。

 殴る。肉が抉れて血が出る。骨の軋む音がする。

 蹴る。ぽおんとボールのように男は跳ねる。

 噛みつく。すっかり育った牙がやすやすと男の柔い肌に突き刺さる。

 引っ掻く。爪ももはや人のそれではない。簡単に男を切り裂いた。

 絞める。俺を虚仮にする言葉を二度と吐けないように喉を限界まで締め上げる。

 叩く。何度も何度も此奴の形が無くなるように執拗に。

 壊す。いや、もう壊れている。おれがこわしたのだからこわれている。

 くるう?くるっている。ておくれなほどにくるっている。おとこはうごかなくなって、たましいがきっとくちのなかからゆらゆらととびでてでんしゃにのってぎんがにたびだちながいへびがにょろにょろとあしたのてんきをおしえてくれてきいろだったからよていをはやめてゆりのはなともんしろちょうのつがいのこうびとてれびをこわしてかなしいことをわすれてうみのみずをひとくちのむのだろうほらなこうどがわらっている。

 くるうって、きもちよくてしあわせなんだ。きっとせっくすだってめじゃないぜ。きもちがいい。きもちがいい。きもちがいい。

 幸せだ。



 美しい旋律が聞こえる。


 最悪な気分で目が覚めた。消え去った理性は俺の中に戻って来ていて、先ほどまでの行いや思考をまざまざと後悔させられる。

 体はまだ獣のままだが、精神は幾分か普段の調子を取り戻していた。

 ちらと周りを見ると、力尽きて倒れ伏したであろう俺の体に毛布がかかっていて、思わず泣きそうになる。

 眠りの中でも聞こえてきた旋律が今もなお続いている。ピアノの前にはあの男が座っている。先ほどと同じ「月の光」を傷だらけで一心不乱に弾いている。今にも死にかけで、それでも何かを自分に叩き込むように強く、強く。

 その旋律は先ほどよりも力強く、美しく、荘厳に洗練されていた。

 この音が好きだ。散々暴れまわって狂気をまき散らして、全て終わった後にみじめな俺を慰めてくれるこの音が。心を揺さぶるこの旋律が。


 俺はこの男をろくに知らない。ピアノを弾くことは知っている。俺の狂気を満月の夜の度に受け止めに来ているということも。

 それ以外は全く知らない。名前も目的も何もかも。

 分かっている。本当はこんなことはやめなければいけないと。このままだときっと俺はこの男を殺してしまう。

 でも、月の光で狂い暴れる親でさえ捨てた月狂いの人狼ルー・ガルーと夜を過ごしてくれるのは此奴だけで、その魅力に抗えず、もう何夜も過ごしている。


 月の光が男を照らす。

 月光のような男を。

 人を狂わす男を照らしている。

 俺は此奴に狂っている。

 

 

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