十一
木立の中を飛ぶナギは、自分を追う小さな気配を感じて速度を落とした。横目で背後を窺ってみる。どうやらクニが言っていた、モミの木にいた女のようだ。
「何の用? 僕は忙しいんだ」
必死についてくる若い女の顔を見て、ナギはすぐにぴんと来た。彼女の目は、クニが美について語っていたときの目にそっくりだ。彼女は恋をしている。全身全霊をかけて美に恋をしていたクニのように。ということは、目当てはカラスの脅威から逃れた若い男だろう。彼の歌は若々しく魅力的だった。彼女が自分を追う理由は、彼が今どこにいるかを訊くために違いない。
「あの、お願いがあるんです」
「ああ、彼ならもういないよ。カラスに捕まった僕を助けてくれて、そのままどこかへ飛んで行ってしまった。だから彼の行方は、僕にもわからないんだ」
ナギの返事を聞いた彼女は、目を丸くしてかぶりを振った。どうやら思い違いだったようだ。ナギは改めて彼女の話を聞くために、近くの木の幹にとまった。彼女も同じようにナギの隣にとまって、乱れた息を懸命に整えている。ナギは素知らぬ顔をして、彼女の横顔をちらと盗み見た。息を整えている健気な姿が、何とも素朴で可愛らしかったからだ。
「いえ、そうじゃなくて。もう一度、歌が聴きたいんです」
さすがに苦笑するしかなかった。やはり若い彼の話ではないか。確かにあの雄々しい歌声を聴けば、誰だって興味を持つだろう。だが、願いを叶えてやることはできない。何しろナギは、つい先ほどまで気を失っていたのだ。若い彼があの後どこへ飛び去ったのかも、普段はどの辺りに住んでいるのかもまったく知らない。
「だから言っただろう。素敵な歌声の彼のことは知らないって」
すると彼女は、まだ整いきっていない息を無理やり飲み込んで、それまで細かった声を何本も束ねたかのような大声で言い返してきた。
「私が聴きたいのは、あなたの歌です。よかったらもう一度、聴かせてください」
思いも寄らない願いに、呆然とするしかなかった。聞き間違いかとも思ったが、耳に残っている彼女の言葉は何度振り返ってみても、他の意味には取れそうもない。
「何かの間違いじゃないの? それに、もう一度ってどういうこと? 僕は最近、歌ったことなんて……」
すっかりうろたえているナギを見て、彼女は無邪気に吹き出した。
「あんなに大声で歌っていたじゃないですか。カラスに立ち向かっている間、ずっと」
無我夢中だったので、自分が歌っていたことなんてまったく覚えていない。ただ、もし歌っていたのなら、その歌はとてつもない逆境に立ち向かった瞬間の、熱く赤裸々な気持ちそのものだったに違いない。その気持ちにもう一度触れたいと言ってくれる女性がいる。これほど嬉しいことはなかった。
「僕はね、ナギっていうんだ。君の名前は?」
「名前? 考えたこともなかった」
「それなら僕がつけてもいい? 背中にある綺麗な波模様。ナミっていうのはどうだろう」
彼女は微笑みを浮かべ、嬉しそうに頷いた。ナギとナミの頭上から、まばゆい木漏れ陽が射し込む。数年間過ごした地中では決して味わえなかった、神々しい陽光の恵み。それが今は全身だけでなく、胸の中にも明るく降り注いでいる。
「僕は歌う。ナミが満足するまで、何度でも、いつまでも」
ナギは隣に寄り添うナミを思いながら、心を込めて歌を捧げた。死闘の最中に叫んだ猛々しい響きではなく、辺りを優しく包むような温かい歌声。これまでのことをすべてを忘れて、ただただ彼女のために歌い続けた。そしてようやく歌い終えたとき、くすみきっていたはずのナギの瞳はすっかり輝きを取り戻していた。
「ナミ、僕と踊ってくれないか?」
ナミはつぶらな瞳を輝かせて、大きく頷いた。彼女がはしゃぐように宙へ舞い上がると、その後をすかさずナギが追いかける。ナギとナミはどこまでも青い空に二重の螺旋を描きながら、優しく、そしてときに力強く踊った。
見下ろせば大地が広がっている。木々が生い茂っている。川が流れ、鳥がさえずり、熱くまぶしい陽光がすべての生命の脈動を
「ありがとう、ナギ。私そろそろ行かなくちゃ」
「行くってどこへ? 僕はまだ君と離れたく……」
「それは駄目。私には大事な役目があるの。地上に戻って、あなたからもらった大切な感動を地面の下に置いてくる。だから先に行ってて。私もすぐに追いかける」
名残惜しそうに言い残したナミは、踊りをやめて地上へ下りていった。ナギは追いたい気持ちをぐっと堪えて、ナミが言った通り先を目指した。彼の視界の先にあるのは、真っ白に輝く真夏の太陽。
どこまでも上へ、どこよりもまぶしい場所へ。ずっと引きこもっていた居心地のいい土の中は、やはり安息の地ではなかった。その証拠に、ナギが最期に見惚れていたのは、仰向けになったときに見える地面ではなく──。
(了)
歌うイカロスと恋する女神たち 塚本正巳 @tkmt_masami
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