十
もはや飛ぶことさえ億劫なはずだった。しかしナギは、我知らず木の幹を蹴って宙に飛び立っていた。このままでは若い男だけでなく、カラスの足元に転がっているクニまで……。絶対にそんなことをさせるわけにはいかない。だが、巨大なカラスを相手にどうやって?
ナギは視線の先にいるカラスを睨みつけながら、まるで糾弾するかのように胸中へ問いかけた。僕はこのまま何もできずに一生を終えるのか? だとしたら、地中で過ごしたあの長い歳月は何だ? 僕が生まれた意味は? 僕の一生は? 僕は一体、何のためにここにいる!
カラス目がけて突進したナギは、カラスの鼻先で急停止し、足を大きく広げて顔面にしがみついた。その体勢のまま、全身全霊を込めて歌声を響かせる。カラスはやかましさのあまり、狂おしい怒声を張り上げて激しく首を振り回した。それでもナギは必死に食らいつき、なおも大声で歌い続ける。
カラスの声に、これまでにない殺気が
正気を失ったカラスは、とうとう脚を使ってナギを引き剝がしにかかった。カラスが足を上げた瞬間、捕まっていた若い男が勢いよく空に飛び立つ。カラスはナギの排除に躍起になるあまり、足元の獲物のことをすっかり忘れていたようだ。ナギは男の脱出を見届けると、カラスの顔面を蹴りつけて素早く宙に舞い上がった。
懸命に逃げるナギの背後に、不気味な黒い影が迫る。気配を感じて急旋回したつもりだったが、僅かにカラスの追撃のほうが早かった。カラスのくちばしが、ナギの右翅を捉える。ナギは男を助けた達成感を噛み締める暇もなく、たちまちどん底に突き落とされた。あの若い男が死に物狂いでもがいても、自力では逃れられなかったのだ。地上で一か月も生きて疲れ切っているナギが、カラスの拘束から逃れられるはずもない。
そのとき、勇ましい歌声が聞こえたかと思うと、ナギの翅を咥えていたくちばしが力を失った。カラスがけたたましく鳴いている。気力を失いかけていたナギの身体は、拘束を逃れて中空へ放り出されていた。咄嗟に振り返ると、左目から血を流すカラスの横顔が見えた。そして、たった今聞こえた歌声は間違いなく、先ほどまでカラスに捕らえられていた若い男のもの。ナギの危機を知り、ナギやクニに倣ってカラスの左目に体当たりを試みたのだろう。
ナギは若い男への感謝を歌にしようと、大きく息を吸い込んだ。ところが、ここまでの無理が祟ったのだろう。声を出そうと腹に力を入れた途端、彼の意識はぷっつりと途切れてしまった。
目を覚ましたナギは、青々と茂る木の葉の一枚にしがみついていた。陽の高さは気を失ったときとそれほど変わっていないので、時間はそれほど経っていないようだ。カラスの追い討ちにより翅を傷つけられてしまったが、幸い破れてはいない。何とか飛べそうだ。ナギは疲弊しきった身体に鞭打って、いつものモミの木を目指した。カラスに叩き落とされてしまったクニが心配だったからだ。
モミの木まで戻って来ると、クニは倒れた場所からほとんど動いておらず、地面にうずくまったまま細い掠れ声で歌を歌っていた。クニの歌声を聴くのは初めてだった。
「クニ! 無事でよかった」
安堵の声を漏らして傍に着地した瞬間、ナギは言葉を失った。クニの顔の右半分が、完全に潰れてしまっていたからだ。地面に叩きつけられたとき、運悪く硬い石にでもぶつかってしまったのだろう。
「ナギ殿、ですか。面目ない。もう目が、ほとんど見えなくて」
たちまち涙で何も見えなくなった。この世界を精一杯生き、仲間のために身を尽くした彼がこんな目にあっているのに、無気力な自分はこうしてのうのうと……。
「僕がもっと早くカラスに立ち向かっていれば──」
「やめてくださいよ。ナギ殿は立派に、仲間を救った、じゃないですか」
「でも、クニを救えなかった」
「いいんです。私は満足、していますよ。ようやく、辿り着きましたから」
傷がひどく痛むのだろう。クニは途切れ途切れの言葉を懸命に紡ぐと、いつもにも増して穏やかな笑みを浮かべた。
「辿り着いた?」
「そうです。私は美に、憧れていました。美しいものが、好きでたまらなかった。そしてできれば、自分自身も美しくありたかった。でも私はこの通り、見た目は貧相で、歌だって聴けたものじゃない」
辛うじて立っていた膝ががくりと折れ、クニは地面に腹這いになってしまった。おそらくもう、声を出すのもやっとなのだろう。しかし彼の表情だけは相変わらず、朝の澄んだ朝日のように明るかった。
「でもですね、ナギ殿。私は最後の最後に、最高の美を手に入れたんです。あの日見たミツバチたちに負けないくらい、純粋で気高い美を」
「何言ってんだよ。クニは出会ったときから、僕なんかよりずっと光り輝いていた。こんな無茶をしなくたって、充分美しかったよ」
「またまた。私は女性に声をかけられたことなんて、一度もないんですよ。それよりほら、いつもの木を見上げてみてください。女性がこちらを見ている気配がします。行ってあげてください。きっとナギ殿に用があるんです」
モミの木に目を遣ると、確かにクニが言った通り、若い女が幹にとまってじっとこちらを見下ろしていた。見慣れない容貌。おそらく地上に出て来たのは最近で、会うのはこれが初めてだろう。
「ぐずぐずしていないで、さあ、早く」
「無理だよ。クニがこんな状態なのに」
クニはやれやれとでも言わんばかりに、浅く溜め息をついてみせた。
「こんな状態だからです。私はやっと美しくなれた。だから永遠にこのままでいたい。醜い姿はもう、誰にも見られたくないんです。蟻に運ばれるような醜態は……」
すべてを悟ったナギは、とめどなく流れる涙を拭ってゆっくりと飛び立った。決して後ろを振り返らないよう、どこまでも高い真夏の青だけを見つめながら。
最後に見たクニは、これまで見たどの表情より清々しい笑顔でナギを送り出してくれた。ナギは、かつて自分にクニという親友がいたことを何よりも誇らしく思った。
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