九
とうとうナギは、唯一の生き甲斐だった歌を投げ出してしまった。地中にいた頃の彼を育み、門出を静かに見守ってくれたモミの木の幹にとまって、今日も最期のときが来るのをじっと待っている。
そんなナギの最大の関心事は、最期の瞬間に見る景色のことだった。彼らは皆、力を失って地面に落ちると仰向けになる。そうなると、目が身体の表側についている彼らは、足元の景色を見ることができない。つまり仰向けにひっくり返った最期の瞬間は、必ず地面を見ることになる。
冷たい地面を見ながら迎える最期には、少なからず寂しさを覚えた。だがもしかすると、これも運命なのかもしれない。地中で何年も暮らしてきた自分らが、生の終わりに求める最大の安息。それが天ではなくて地だとすると、むしろおあつらえ向きの最期と言えるのではないだろうか。
「ナギ殿、今日も歌はなしですか。まだ歌えるはずでは……」
クニは毎日ナギの下にやって来て、あれこれと世話を焼いてくれる。しかしナギにはもう、歌を歌う気力が残っていなかった。歌を気に入ってもらえたのは、これまでたったの一度だけ。今さら歌ったところで、再びセリのような物好きに巡り会えるとは思えない。
その日、クニが語ってくれたのは、キイロスズメバチに襲われているニホンミツバチの巣を見たときの話だった。身体が小さいミツバチは、どう頑張っても大きいスズメバチには勝てない。巣の働き蜂たちは、このままでは皆殺し。巣の中の幼虫や女王蜂も、一匹残らずスズメバチの餌になってしまう。ミツバチの巣は存亡の危機に
単独で立ち向かったミツバチたちは、片っ端からスズメバチに噛み殺された。じりじりと巣に歩み寄るスズメバチ。巣の入り口を必死に守るミツバチたち。スズメバチが今まさに巣の入り口に踏み入ろうとしたとき、近くの木から彼らの戦いを見ていたクニの目は釘付けになった。ミツバチたちが一斉にスズメバチに飛びかかり、あっという間に大きな球になったからだ。
たくさんのミツバチに取り付かれたスズメバチは、もがきながらも容赦なくミツバチを噛み殺していく。それでもミツバチたちは怯むことなくしがみつき、さらには身を寄せ合って翅を激しく震わせ始めた。何重にも折り重なった勇ましい羽音が、その場だけでなくクニの胸の奥までも埋め尽くす。攻防はその後もしばらく続き、そしてあっけなく終わりを迎えた。スズメバチがミツバチの球の中で、とうとう息絶えたのだ。
大勢で翅をばたつかせた球の中は、かなりの高温になっていただろう。ミツバチたちは自らの体温を極限まで上げることで、巣を襲ったスズメバチを蒸し殺したのだ。ただ、ミツバチたちも喜んでばかりはいられない。辺りには
一部始終を見ていたクニは胸が熱くなって、しばらくその場で涙を流し続けた。
「──悲しかったの?」
ナギが問うと、クニは意外にも湿っぽい表情にはならず、厳かに口元を引き締めてまぶしい夏空の青を見上げた。
「目の前でたくさんの命が失われて、悲しい気持ちもあったと思います。でも、どうでしょう。本当に悲しくて泣いたのでしょうか。私はあのとき、何物にも代えがたい美しさを知ったような気がするんです」
そのとき、辺りに鋭い声が響き渡り、いつもは閑散としている正午の空気を引き裂いた。声の方へ目を向けると、一羽のカラスが地面に降り立ってしきりに足元をついばんでいる。カラスの脚に摑まれ、くちばしで弄ばれているのは若い男。見た目や鳴き声から、ナギたちの仲間ということはすぐにわかった。捕らえられている男は狂ったように声を上げ、カラスの脚から逃れようと必死に翅をばたつかせている。
気がつくと、たった今まで隣にいたクニの姿がなかった。カラスに怯えて逃げ出したわけではない。彼が勢いよく飛び出した先には、今にも仲間を食らおうとしている漆黒のカラスがいる。
「やめろクニ!」
クニは捕まった仲間を救うつもりなのだろうか。確かに捕らえられた男の声は若々しく、凛々しくて魅力的だ。あの男が女と踊れば、きっと素晴らしい子がたくさん生まれるだろう。しかし、この世に理不尽は付き物。今までもこういった場面は数多く見てきたし、そのたびに危険を冒していたら命がいくつあっても足りない。しかも相手は、ナギたちより何倍も大きいカラス。あまりにも無謀だ。
クニは大声を張り上げながら、カラスの周りを執拗に飛び回った。しかしカラスは、クニの懸命の挑発には目もくれず、その黒く不吉なくちばしで男の脚を一本引き抜いた。男の絶叫が、炎天下の燃えるような空気をたちまち凍りつかせる。
一直線に降下を始めたクニの身体が、カラスの顔面を直撃した。面食らったカラスは、ようやくクニの動きを目で追い始めた。なおも
ほどなくして繰り出された二度目の体当たりが、カラスの横っ面を激しく揺らした。カラスがひどく苛立った鳴き声を轟かせる。片脚で若い男を摑んでいるため、クニの突進をうまく避けられないようだ。クニは素早く身体を翻してとんぼ返りをすると、これまでよりさらに速度を上げて、カラスの顔面に渾身の一撃を叩き込んだ。今までよりずっと甲高いカラスの鳴き声が、カラスの苦悶をありありと想像させる。
カラスの動向に異変が起きていた。クニの動きを追わなくなったかと思うと、先ほどから左目を閉じたまま低い声で唸っている。どうやら三回目の体当たりが、左目に傷を負わせたらしい。さすがのカラスも、これには辟易していることだろう。
希望の光が射し始めた矢先だった。身を低くしたカラスが、クチバシの先を足元に向けた。クニに構わず食事を済ませる気だ。すかさずクニが飛びかかる。次の瞬間、ナギは目を疑った。果敢に体当たりを試みたクニの身体が、一瞬にして地面に叩きつけられたのだ。カラスがクニの体当たりを誘い、ぶつかる寸前に羽を広げてクニを叩き落としたのだ。
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