次の日は午前中、その次の日は午後の遅い時間、彼女は約束通りナギの歌を聴きにやって来た。名前の件は残念だったが、ナギは歌を聴きに来てもらえるだけでも充分幸せだった。ナギは毎日、目の前で心地好さそうに歌を聴く彼女のために心をこめて歌った。

「それじゃ、また明日ね」

 日が暮れてナギが歌を終えると、彼女はそう言って満足そうに微笑を浮かべた。ナギは飛び去ろうとする彼女の背中を見た途端、思わず声をかけそうになった。込み上げて来た言葉を咄嗟に飲み込む。しかし、気がつくと言葉はすでに口から飛び出していて、彼女の大きな瞳をさらに丸くさせていた。

「待って! あの、僕と踊ってくれませんか」

 しばらく黙っていた彼女は、ナギに背を向けたまま、今にも消え入りそうな声で呟いた。

「私、今がいいの。誰のものにもなりたくない」

 それだけ言った彼女は、湿っぽい羽音を残してモミの木から去っていった。ナギは引き留めることも、追うこともできず、その夜は一晩中何も考えられなかった。

 その日を境に、彼女はナギが歌うモミの木に姿を現さなくなった。後日、日頃から広い範囲を飛び回っているクニが、その後の彼女のことを教えてくれた。彼女は今も気に入った歌を聴くために、林の中だけでなく外まで頻繁に出かけているらしい。ただ、彼女にとって歌は踊る相手を見極める足がかりではなく、あくまで娯楽の一つのようだ。

 彼女は好きな歌を歌う者と親しくなり、自分に好意を抱かせることを目的としている。つまり、常にたくさんの好意に包まれていることが彼女の喜びであり、生きるすべてのようだ。

 クニが歌を諦め、美に殉ずる決意をしたように、彼女のような生き方もあっていいはずだ。それはわかっている。しかしナギは、どうしても彼女のことを忘れることができなかった。目的はともかく、彼女はナギの歌を好きになり、歌を聴くためだけに何度もモミの木に足を運んでくれた。この世で最も自分の歌を理解してくれた者を、たったそれだけの理由で忘れなければならないなんて、こんな理不尽があっていいのだろうか。

 確かに誰かと踊ってしまうと、それまでの生き方を捨ててしまわなければならない。彼女の場合は、好きな歌を聴いて回り、歌が上手い男たちにちやほやされる日常を捨てることになる。彼女にとって今までは、間違いなく理想的な生活だっただろう。それらをすべて捨てて踊るなんて、とんでもないと思うのも無理もない。

 ただ彼女は、捨てなければならないものと同じくらい、得られるもののことも考えたことがあるだろうか。実際に得る前に、得られた後を想像するのは容易ではない。だが、多くの仲間が相手を求めて必死に歌い、それまでの日常に戻れなくなることを承知で踊る姿は、本能という言葉だけでは片づけられないものがある。なぜならすべての仲間たちは、ナギの下を去ってしまった彼女やクニと同じように、独自の思考と判断力を持っているからだ。

 仲間たちのほとんどは、最終的に自由な日常を捨てて誰かと踊り、自分がいない遠い未来を夢見ながら朽ちていく。なぜそんなことができるのか。ナギには確信があった。それは、捨てるもの以上に得るもののほうが大きいと気づいているから。経験や思考によって、この世には自分より大事な何かがあるという結論に辿り着いたからだ。

 クニはそのことに気づいていながら、その感性の豊かさゆえ、美に殉ずる生き方に抗えなかった。だからこそ、美を誰よりも理解し、その喜びを多くの仲間に伝えることを矜持としている。

 しかし、ナギがセリと名付けようとした彼女はどうだろう。彼女はほとんどの仲間が辿る思考や経験を踏まえた上で、今の生き方を選択したのだろうか。とてもそうは思えない。理由は簡単だ。彼女の視野は自分にしか向いておらず、自分という存在を世界や未来といった目に見えない括りと完全に切り離してしまっている。だから彼女は、目に見える現実しか信じられないし、誰かと踊った先にある世界を想像することができないのだろう。

 だからこそナギは、この結末が歯がゆくてならなかった。おそらく彼女は、ほとんどの仲間たちが辿り着く結論に気づきさえすれば、すべてを理解するはずだ。それなのに自分は、彼女の気づきのきっかけになれなかった。彼女に新しい可能性を見せる機会を得ながら、あと一歩のところで勇気を振り絞ることができなかった。もしあのとき、ショックを受けて佇むばかりだった自分が、一言だけでもいい、彼女に食らいついてたぎる想いを告げることができたなら──。

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