クニと出会って一週間が経とうとしていた。その日もナギは、いつものようにモミの木にとまって歌を歌っていた。クニに歌のまずさを指摘されてからというもの、彼は日々、自分なりに歌の改良に励んでいた。クニが言った、ナギの歌に足りないもの。その正体はあまりにもあやふやで摑みどころがなく、具体的には依然として謎のままだ。しかしそれでも、ナギの歌声は明らかに成長していた。

 朝から遮二無二しゃにむに歌声を響かせていたナギは、陽の光が真上に近づいていることにも気づかず歌い続けていた。すると、目の前の景色が急に遮られ、続けて鼻先から女の声が聞こえてきた。

「ねえ、みんな涼みに行ったわよ。あなたもそろそろ一休みすれば?」

 はっとして眼前に意識を向けると、そこには人懐こい目をした細身の女の顔があった。

「あ、えっと、そういえばずいぶん暑くなったね。歌に夢中で気がつかなかった」

 細身の女は少し呆れたような目をして、小さく吹き出した。その屈託ない反応を見たナギは、我知らず全身を硬直させていた。なぜだかわからないが、次の言葉がうまく出てこない。

「午後もここで歌う?」

 答えたくても声が出ない。出るのはいやに熱っぽい吐息ばかりだ。ナギは出ない言葉の代わりに、何度も小刻みに頷いてみせた。

「そう。じゃあ、また午後にね」

 女はそう言い残すと、軽快な羽音を立てて林の奥へ飛び去った。ナギはその後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。

 羽音は徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。ナギはようやく自分が息を止めていることに気づき、慌てて息を吸い込んだ。今の女は、また午後に、と言った。ということは、今日もう一度、彼女と会える──。

 そのときふと、こちらに近づいて来る羽音に気づいた。胸が再び早鐘を打ち始め、全身が固く強張る。目の前までやって来た小柄な影は、彼の前にぴたりととまった。ナギが、喜びと照れ臭さを慌ててかき混ぜたような、何とも言えない表情を差し出す。それを見た影の主は、全身を小さく揺すりながら忍び笑いをしている。

「残念でした。私です、クニですよ。ところでナギ殿、さっきのは誰です? もしかして待望のパートナー?」

 もはやナギの親友と言っていいクニは、いつもの落ち着いた口調ではなく、珍しく冷やかすような戯け声を出した。

「違うよ。僕が歌に夢中になっていたから、暑くなったことを知らせてくれただけ」

「本当ですかぁ? それだけにしては、ずいぶん嬉しそうですけど」

 ナギは慌てて仏頂面をこしらえた。どうやら自分は、先ほどの女のことがひどく気になっているらしい。表情を指摘されて初めて自分の本音に気づくとは、我ながら己の鈍感さに呆れ返らずにはいられない。

「そんなことないって。ただ、一つ質問はされたけど」

「どんな質問を?」

「午後もここで歌うのか、って」

 途端にクニは目を輝かせ、肩でナギをちょいと小突いた。

「とうとうやりましたね! これはきっと脈ありですよ」

 クニは翅を小気味好く羽ばたかせて、まるで自分のことのように喜んでいる。その無邪気な笑顔は、ナギの心を少なからず勇気づけた。感情を分かち合える誰かがいることが、これほど嬉しいものだとは。

「でもそう訊かれただけで、本当に来るとは限らないし……」

「何言ってるんです、来るに決まってます。ナギ殿は心配しすぎなんですよ。歌だって前よりずっと良くなっていますし、もっと自信を持って。そうだ、これから沢の冷たい飛沫しぶきでも浴びに行きませんか? 午後に備えて英気を養っておかないと」

「──ありがとう」

「はい? 私は何もしていませんよ。さあさあ、早く涼みに行きましょうよ」

 ナギは、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえていた。振り返ってみれば、腐らずに歌い続けてこられたのも、以前より良い歌が歌えるようになったのも、今日のような機会を得られたのも、すべてクニのおかげだ。彼には感謝の言葉もない。そんな彼に報いるためにも、自分はもっと立派にならなければならない。まだ何も成していないにもかかわらず、こんなところで喜びに泣き崩れている場合ではないのだ。

 午後の陽射しが落ち着く前だというのに、ナギは居ても立ってもいられなくなって歌い始めた。それを聞いた他の仲間たちも釣られて歌い始め、普段はまだ静かな時間だというのに、林の中は早くも大合唱で溢れ返った。林が歌で満たされると、細身の女はナギが歌うモミの木に戻って来た。

 彼女はナギの傍にとまって、じっと歌に聴き入っている。どうやら本当に彼の歌を気に入っているようだ。きりのいいところまで歌い切ったナギは、乱れた息も構わず彼女に話しかけた。

「来てくれてありがとう。僕の歌、どうだった?」

「とっても良かった。どう言ったらいいのかな。あなたの歌はとても透き通っていて、聴いているとまるで冷たい清流の中を飛んでいるみたい。こんな歌、初めてよ」

 自分の歌が、こんなにもはっきりと誰かに届いている。ナギは痺れるような感動に身を震わせた。

「そんなことを言われたのは初めてだよ。僕の歌をわかってくれる仲間がいるなんて、夢みたいだ」

 細身の女は、ナギの興奮した話ぶりを見てくすくすと笑っている。その姿は初々しい少女のようでもあり、我が子を見守る母のようでもあった。玉虫色にきらめく多彩な魅力。知れば知るほど、彼女のことをもっと知りたくなってしまう。

「あの、僕はナギ。君は?」

 予想はしていたが、やはり彼女は微笑んで小首を傾げるばかりだった。寂しい反応だが仕方がない。名前なんて、よほどの変わり者か物好きしか持っていないのだから。

「もし名前がないのなら、僕がつけてもいい? そうだな、セリなんてどうだろう」

「気にしないで。私は名前なんてなくていいの。そのほうが気楽だし、仲間の名前を覚えるのも面倒だから」

 そう言ってころころと笑う彼女に、悪意や嫌気の類は感じられなかった。どうやら彼女は、ナギの申し出が煩わしかったわけではなく、単に名前に興味がないだけのようだ。ナギは彼女に返した笑顔の裏で、ひっそりと肩を落とした。

 どうして仲間たちは、これほど名前に興味がないのだろう。ナギにとって名前は、自分であること、もしくは自分以外の誰かであることを決定づける、何より具体的で重要なもののように思える。しかしほとんどの仲間たちは、その決定に価値どころか、意味さえ感じていないようだ。これでは自分と仲間たちを区別する手段がなく、誰かが自分を見るとき、自分は個ではなく、その他大勢としか捉えてもらえない。

 ただ、その他大勢であることが、生きていく上で障碍や不利益になることはほぼない。名前はあくまで私的な価値であり、極論すれば単なる自己満足でしかないとも言える。それがわかっているからこそナギは、やるせない気持ちに身を捩りながらも、遠慮する彼女に名前を押しつけるわけにはいかなかった。自分の歌は理解してもらえるのに、自分やクニが感じているこの尊さは理解してもらえない。ナギにとって、これほど口惜しいことはなかった。

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